第93話 真亜子とハジメ・小夜子とハジメ
真亜子はハジメと共にビルを出た。
チンピラが樹木に変えられて、不運な女の子たちは何かおかしなものに変わってしまった。そんなこと、真亜子にはどうでもいいことだ。
人間を辞められたのだから、幸運かもしれない。そのように思う。
真亜子は人間が嫌いだ。
怪物が普通に存在しているというのには真亜子も驚いたけれど、そこまでショックなことではない。
みんな安全に生きているという幻想を抱いているけれど、世の真実は『五秒後に死ぬかもしれない』だ。
ご飯を食べてお風呂に入って、眠る前に死ぬこともある。
だから、怪物がいたって何も変わらない。
いつも、死と隣り合わせなのが人間なんだから。
「ハジメさん、何か食べたいから、あっちに行きましょう」
真亜子からハジメの手を握った。
怪物の手は人間と変わらない。だけど、その手からは何も感じ取れない。
手を握れば、相手がどんな状態かより分かる。緊張しているだとか、乗り気でないとか、セックスしたがっているとか。
ハジメの手は、そのどれでもなかった。
「ああ、お前たちは食べることが必要なんだな」
生命の木の実と、知恵の木の実。
人間の多くは知恵の木の実を食べた末裔だ。しかし、ごく少数ながら生命の木の実を食べた末裔も存在する。淫魔は両方の遺伝子を蒐集し、ハジメを創った。だから、ハジメは食を必要としない。
「食べないと、生きていけないんですよ」
真亜子がハジメの手を引いて向かったのは、個人経営の喫茶店だった。
路地の隙間にある、古い店だ。未だ、昭和の面影を遺した純喫茶である。
「いらっしゃいませ」
初老の店主が奥の席を指さした。店内に客はまばらで、音楽もかかっていない。
「ここは、色んなものが染み付いている」
ハジメには店の記憶が見える。どれもこれも、愚かさばかり。しかし、感情だけは喜怒哀楽の全てが揃っていた。
憶のテーブル席に着くと、すぐに初老の店主が水の入ったグラスを持ってやって来た。そして、伝票を持って何も言わず立ち尽くす。
「コーヒーとチョコレートケーキを下さい。ハジメさんは?」
「なんでもいい」
「では、彼にはアイスミルクを」
伝票にオーダーを書き込む音がいやに大きく聞こえる。店主は何も言わず踵を返した。
真亜子はハジメに向かい合って、口元に小さな笑みを作った。それは、空虚で何も無い笑みだ。
口を笑みの形にしただけ。
「真亜子、キミは
「矛盾?」
「キミは何がしたい?」
「モデルの仕事は続けたいですよ。カワイイのを活かして生きていくんです」
真亜子は冗談めかして言う。だが、その瞳はキラキラと輝いて、淀んでいる。
「その苦しみを取り除くことだってしてやれるが」
「あんなバケモノになっても、何も変わりませんよ。ハジメさんこそ、なんにも無いですよね」
ハジメは何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
この世界は【最初の人間】を必要としていない。だが、人は今すぐに滅亡していいほどに進化している。
滅びた後であれば、ハジメは世界を再生させただろう。しかし、それは今ではない。
喫茶店の店主がトレイに注文の品を乗せてやって来た。
古めかしい昔ながらのチョコレートケーキ、コーヒー、氷が入ったアイスミルク。
「お待たせしました」
愛想の一つも無い店主が言ったのはそれだけだ。
真亜子はにっこりと微笑んだ。笑みの中にあるのは喜悦と
「わあ、チョコレートケーキは昔のまま。ハジメさん、わたしね、小さい時にお母さんにこの喫茶店に置いていかれたことがあるの。おめかししてお出かけして、嬉しかったわ。だけど、ここで七時間くらい待ってたの。お母さんは帰ってこなかったわ。代わりに警察が来て、そのまま保護されたの」
ハジメはサングラスを外した。そして、真亜子の瞳を見る。
「ねえ、ハジメさんはわたしを憐れんでいるけど、わたしにはチョコレートケーキがあるわ。それに、カワイイお洋服に昔と変わらない喫茶店も」
この店の看板を真亜子は何度も見ている。それなのに、店名が分からない。
店先の看板には漢字で店名が描かれている。不思議なことに、その店名だけがいつになっても読み取れない。読めているはずなのに、脳がそれを拒否する。
真亜子はどんな仕事でも受けられるよう、勉学も欠かしていない。学校では成績も上位だ。なのに、店名だけが読めない。
「真亜子、キミはここでずっと待っているんだね」
「お母さんは来ないって知ってる。だから、ここで待っている小さなわたしを、
喫茶店で、団地の公園で、児童保護施設で、真亜子は待ち続けている。だけど、真亜子は過ぎ去った自分自身を迎えに行けない。
「僕は、キミに会うために生まれたのか」
ハジメは生まれて初めて、柔らかな笑みを浮かべた。
真亜子は穢れた女であり、無垢な少女。イブであり、リリスでもある。
「ううん、違う。この世界は、わたしのためにあるの」
真亜子は
怪物を手玉に取れたと理解して、
「そうだ。世界はキミのものだ。ここは、真亜子のための世界だよ」
今が堕落した世界であるのなら、新たなが創生は真亜子のために。真亜子のためだけに世界を創る。
地獄の未来で、それは成った。
記憶が終わる。
小夜子はハジメの記憶から抜け出し、真亜子の巣、そこで樹木と化したハジメと対面している現実に戻って来た。
「あ、アホなんかお前は!!」
開口一番、小夜子が怒鳴った。
いくら伝奇小説好きの小夜子でも、限界であった。
頭のイカレた小娘に騙される魔人のメロドラマは、美麗なイラストと流麗で妖しい文体の新書サイズのノベルズでしか許されない。
小夜子は顔を真っ赤にしながら、ビシっとハジメにひとさし指をつきつけた。
「あんなお涙頂戴ストーリーは真亜子が作ったデタラメじゃ!! 本当であっても、それがどうしてあんな色ボケ小悪魔のために【創生】なんぞやらかすことになるというのか、わらわには理解できん!!」
樹木に浸食されたハジメは自嘲的に笑う。
「真亜子を幸せにするには、それしかなかった。それでも、今の真亜子は過ちだと分かる。真亜子は、苦しみから抜け出すために、蟲になることを選んだから……」
「あんな女はどうやっても幸せになぞなれんわ。穴の開いた壺に水を注ぐのと同じことよ」
どうやっても満たされない人間がいる。心に開いた穴など、他者がどうにかして埋められるものではない。
「気づくには遅すぎた。真亜子は苦しいままだ。どうか、あの子を助けてやってくれ」
「お断りじゃ! 元の時間に戻ったら、あ奴の頭をねじ切ってオモチャにしてくれる!!」
ぷりぷりと怒る小夜子を、ギャル谷は珍しそうに見ていたが、今のは聞き捨てならない。
「サヨちゃん、そんなヒドいことしたらダメだよ。真亜子ちゃんがなんかしたんだったら、お説教でよくない?」
「お説教? あんなボケ女には馬耳東風か糠に釘じゃ」
「真亜子ちゃん、クソ女だからねえ。うーん、鳴髪のお姉さんに頼む? あの人の恋バナとか結構ヤバいよ」
「うむ、聖蓮尼が泣きを入れたらしいからの。鳴髪小夜子に任せようものなら、あの美少年に色目を使ったと言うて、それこそ首を落とされるじゃろ」
「あ、噂の彼氏クンでしょ。サヨちゃん会ったことあるの?」
「うむ、伝奇小説から抜け出してきたような美少年じゃ。わらわの好みではないがの」
ハジメそっちのけで雑談を始めた小夜子とギャル谷に、流石のガラル氏も声をかけざるを得ない。
「お二人とも、本題からズレておりますぞ。そちらの神崩れ、そろそろ寿命が尽きそうです」
ハジメに視線を戻せば、身体のほとんどを樹木に浸食されて顔しか残っていない。
「真亜子を助けてくれるのなら、現在への道を開くよ。どうする?」
小夜子は分かりやすく嫌そうな顔をした。どれだけ嫌だったとしても、背に腹は代えられない。
「ふん、自力で見つけ出す方法もあろう」
ギャル谷がそこに口を挟んだ。
「サヨちゃん、ここでお泊りは無理!」
ガラル氏もそこへ乗せてくる。
「この都が生きている時代を見たいものです。この
「ぐぬぬぬ、二人してそのように! ええい、もうよいわ! ハジメとやら、わらわが助けてやるから道を開くがよい」
ハジメは口元だけで笑んだ。
ここに契約は結ばれた。小夜子であれば、無原罪の魔人であれば、これを覆せる。
「ああ、よかった。真亜子を、頼む」
瞬間、空間が歪んで水に油を撒いたような虹色の裂け目が現れる。異空間へと繋がる門であった。
「よし行くぞ!! こんな辛気臭い場所とはおさらばじゃ」
一行は裂け目へと進む。その時、小夜子はちらりとハジメを見やった。すでに、事切れている。
残った最後の命を使って、小夜子をここまで導いて契約を結んだ。念願を叶えた【原初の人間】は、満足して死んだのだろう。その顔は安らかである。
馬鹿め、まるで人間のようなことを。
小夜子はそう思ったが、言葉にはしなかった。
一行が姿を消した後、完全にハジメの肉体は樹木と化した。
全ての力を使い果たしたハジメの残骸に、未成熟な真亜子たちが群がる。
幼虫の時期にある真亜子たちは、まだ人間の姿をしていない。人間大の芋虫の姿をしていた。
これから栄養を蓄えて
成虫の真亜子はオシャレや
真亜子の邪進化とは、人間をこの惑星から駆逐する魔蟲。
地獄の未来に適応した新たな人類であった。
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