第86話名もなき花

 全然仕事が身に入らない。


 今日、一日何度吐いたかしれない溜め息をもう一度吐く。


 頭の中はクリスティーナのことでいっぱいだ。


 思考はともすれば、懐に入った手紙に占められていく。




(今朝はああ思ったが、まだ確定じゃないしな。本当に家の事情かもしれないし。ああ、でもそれならなんで、何も告げずに行ってしまったんだ)




 朝からずっとこの繰り返しである。


 これほど自信を喪失したことなど、過去の一度もない。


 頭を掻きむしる寸前で、いつの間にか会議が終わっていた。


 アレクシスは勢いよく立ち上がり、ここにはもう用はないとばかり、足早に去っていく。


 会議室に残された廷臣たちが首を捻った。




「今日の殿下、上の空でしたね」




「そうだな。あんな心あらずの殿下は初めてだ。まあ、おかげで会議が早めに終わって助かったが」




 様子のおかしいアレクシスに、疑問に思うも、それ以上はあまり気にしないでおこうと決めた廷臣たちだった。




 一方、会議室を飛び出したアレクシスは足早に回廊を渡っていく。


 答えの見つからない手紙に囚われているせいで、じっとしていると、ずっとそのことばかりに取り憑かれてしまう。


 堂々巡りをやめるためにも、こうして少しでも体を動かしていたい欲求に駆られたのだ。




(剣術しにでも行くか?)




 アレクシスの思考を先回りしたわけでもないだろうに、向こうからちょうど騎士がやってくる。


 アレクシスに気づくと、一礼する。




「これは殿下、今日はクリスと一緒ではないのですね」




「ああ――」




(確か、クリスと仲がいいバートと言ったか)




 バートが困ったように眉を下げる。




「そうですか。渡したいものがあったのに。――また今度にします。お引き止めしてしまって、すみません」




 一礼して去ろうとするところを引き止める。




「待て、代わりに渡しておこう」




 クリスティーナは去ってしまったが、バートが渡したいものが気になった。


 バートは王太子相手に少し気がひけたものの、他ならぬ本人が言っているのだ、結局は手に持っているものを差し出す。




「すみません。では頼んでもよろしいでしょうか。これをクリスに返しておいてほしいのです」




 見れば、一冊の本だった。




「これは?」




「最近、クリスの部屋が宿舎から引っ越したのはご存知でしょう。そのときに、侍従たちが荷物を取りにきたんですが、その時の忘れ物です」




「そうか」




 アレクシスは本を受け取る。


 そういえば、内廷の三階に部屋を移すとき、クリスティーナ本人ではなく、侍従たちに任せた覚えがある。




「今日見たら、机の引き出しの中に、それだけ一冊入ってたんです。きっと見落としたんでしょう。――それでは失礼します」




「ああ」




 バートは一礼して去っていく。


 残されたアレクシスは手にとった本を見た。


 表紙に覚えがあった。帝王学を学んでいたときに、勉強に使っていた歴史の教科書だった。




(そういえば、クリスは歴史の授業が一番好きだったな)




 目をきらきらさせて、教師の話を聴き入っていたクリスティーナの様子が、昨日のことのように思い出された。


 よく手を上げて質問していた。それに自分が答えるという繰り返しだった。


 そのときのことを思い出して、アレクシスはくすりと笑った。


 つい懐かしくて、ぱらぱらとめくっていく。


 そのとき、はらりと本の間から落ちたものがあった。




(なんだ?)




 落ちたものを拾った。


 しおれてしまった白い花弁の花――。




「なんだこれは?」




 なぜ、こんなものがここにあるのだろう?


 どこかで、見たことがあるような――


 見ているうちにひらめくものがあった。




「これは――」




 いつの日のことだったか、初めてお茶会に参加した帰りのことだった。


 たまたま手にあった花をクリスティーナの耳に挿した覚えがある。




「そのときの花か?」




 見れば見るほど、その時の花に違いなかった。


 ただの、名もなきものに等しく、枯れてしまえば、とっておく価値などない花。


 とっくに捨てたと思っていた。


 なのに、どうしてここにあるのだろう。




(――なぜ)




 思い当たる理由を考えた瞬間、稲妻に撃たれたかのように、アレクシスの中で答えが落ちてきた。




「まさか――」




 理由を知るのに、時は必要なかった。


 母の言葉につられ、軽い気持ちで差しだしただけの花だった。


 たまたま自分の手元にあっただけの適当な花。


 名前も知らないような花。


 最初からあげるつもりで用意されていたわけではなかった。




「……他愛もない行動だったのに――」




 アレクシスは吐息のような言葉を漏らす。


 特別感など何もなかった。


 贈り物とも言えないもの。


 子供心の単純な行い――。


 クリスティーナだって、そのことは知っていたはずだ。


 クリスティーナにとっては、それこそ、何の意味もない花だと、思っていた。こちらの気持ちなど、何ひとつ知らないのだから。 


 渡した本人でさえ、今の今まで記憶の片隅に浮かびあがることさえなかったというのに。


 それなのに、今、こうして己の手の中に、間違いなく存在している。


 目の前の花がクリスティーナの気持ちを伝えてくる。


 男だから、男のふりをしているから、飾るわけにも、綺麗な箱にもいれるわけにもいかない。


 一番好きな授業の本にそっとはさまれ、誰にも見つからないように、引き出しの中にたった一冊だけ仕舞われた本。


 まるで、宝物をしまう宝石箱のように――。


 答えはそれで充分だった。


 今まで悩んでいたことなど、一瞬で頭から消え去った。


 アレクシスは白い花を見つめた。


 既に枯れてしまった白い花弁の花が、せつないほど美しく、瞳に写った。


 くすんで色を失ってしまったというのに、どうしてだろう、己の手のなかでは、あの頃のように眩しく輝いて見えた。


 クリスティーナの気持ちを具現化した花だからだろうか。


 アレクシスは花を抱きしめた。


 壊れないように、けれど決して離さない宝物のように――。


 顔をあげた。


 瞳には先程までの不安も迷いも、ひとかけらさえ残っていない。 


 ただ、揺るぎない決意を宿した光だけが強く輝いている。


 これで行動しなければ、男ではない。


 何があっても、手放す気はない。


 何が起ころうと、必死につかまえに行く。


 なぜなら、持っている想いはお互い一緒だから。


 アレクシスは歩きだした。


 その歩が無意識に速くなっていく。


 途中、近くにいた騎士に声をかける。




「出かける用意を――」




「はっ。どちらへ――」




 普段王宮の外に出ないアレクシスに、騎士が戸惑いながら声をかける。




「決まってる! エメット家だ!」




 アレクシスの足はいつの間にか走り出していた。


 向かう先はただひとつ――。


 あとにも先にも、求めるひとはこの世にひとりしかいなかった。

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