第76話泉のほとりで

 良く晴れたある日の午後、クリスティーナとアレクシスはアイナとマルクに乗って、王宮の裏手に来ていた。


 仕事の合間の気分転換である。


 しばらく平原を駆けていたが、一呼吸つこうと、馬を立ちどまらせる。




「暑いね」




 クリスティーナは空を眩しげに見つめた。


 夏がそろそろ近いことは知っていたが、今日はいつもより気温が高かった。


 真上から降り注ぐ日差しと、汗ばむ体から、もうすぐにでも夏にとって変わりそうだ。




「これならお水持ってくれば良かったね」




 今日はこれほど暑くなるとは予想していなかったから、用意するのを怠ってしまった。


 アレクシスが平原に並行するように並んだ木々を見つめる。




「森のほうなら、少しは涼しいんじゃないか」




「そうだね。そっちに行ってみる?」




「ああ」




 いつもは草原を駆けるが、たまには違う場所に行ってみるのもいいかもしれない。


 クリスティーナとアレクシスは数百メートル先にある森まで駆けた。


 森の中にはいると、汗ばむ陽気だったのが嘘のように、ひんやりした空気に変わる。




「気持ちいい」




 強い日差しは遮られ、清涼な空気が辺りを漂う。




「こうしてのんびり歩くのもいいものだな」




 ぱかぱかとアイナとマルクの単調な蹄の音も、心を穏やかにさせる。




「うん。こんなに近くにあるのに、普段はあんまり来ないもんね。これからも涼みに来ようよ」




「そうだな」




 アレクシスが微笑むと、クリスティーナもつられて笑った。




「せっかくだから、ちょっと奥まで散歩してみない?」




 踏み入れることのない森の奥を暴く探検家の気持ちで、クリスティーナがわくわくしながら言うと、アレクシスも笑った。




「走るのは暑いし、まだ時間もあるからいいぞ」




 アレクシスも頷いて、ふたりは森の奥へと入っていった。


 しばらく進むと、土壁が現れ、その下に小さな泉ができているのを発見する。




「見て! 泉があるよ!」




 クリスティーナが感嘆の声をあげた。


 まるで森から守られているかのように、ひっそりとした小さな泉だった。日がそこだけ降り注いでいる様子は神聖な雰囲気さえ感じられる。


 クリスティーナは馬から降り泉に近づき、アレクシスもあとに続いた。




「おそらく地下水が地表に出たんだな」




「こんなところにあるなんて知らなかったね」




「そうだな。俺も初めて来た」




 今まで誰も足を踏み入れたことがなかったかもしれないと思うと、目の前にある泉がとても特別に思えた。


 風によって澄んだ水面が揺れて、清らかな水が流れていく。透き通った水の中で、水草がたゆたう姿がはっきりと見えた。周りの木々から少し離れているため、そこだけ日が差す様はとても綺麗だ。




「あそこから水が出てる」




 クリスティーナが指させば、泉に面した土壁の少し低い場所から湧き水が流れていた。


 透き通った流水が、日にあたってきらきらと光り、泉を満たしていく。


 乾いていた喉が急激に意識された。 


 途端に水が飲みたくなった。




「飲めるかな?」




 手を伸ばせば届きそうだ。


 クリスティーナは膝をついて、少しだけ袖をまくると泉越しに手を伸ばした。


 両手をお椀にして、水を受け取り、唇へと運ぶ。


 冷たい水が乾いた喉を通り、潤していった。




「美味しい」




 一口飲んで、隣に立つアレクシスを見上げて微笑んだ。両手の水を全部飲んで、もう一度手を伸ばした。


 アレクシスはごくりと喉を鳴らした。


 細い手首が顕になって、透明な雫が流れ落ちていく。こちらを向いたときの、開いた唇が水によって艷やかに濡れている様は扇情的だった。


 光を浴びて、少し瞼を伏せながら飲み様子は、見惚れてるくらい綺麗で――。


 気付けば、手を伸ばしていた。




 クリスティーナがもう一度、水をすくって、一口飲んだときだった。


 いきなり肩を掴まれて、無理矢理アレクシスのほうへ体を向けさせられたかと思えば、唇に熱くて柔らかいものが強引に押し当てられた。




「ん、んー」




 いきなりのことに言葉にならない。




(口付けされてる!?)




 目の前にアレクシスの顔があり、唇がぴったりと合わさっている。


 思考が飛んだが、それも一瞬で引き戻される。


 何か暖かいものが、ぬるりと口内へと入り込んだからだった。




(な、なに!?)




 正体不明のものが、合わさった唇のせいで、すぐに舌だと知れた。


 アレクシスの熱くて柔らかい舌がクリスティーナの口の中で好き放題に暴れまわった。頬の内側を舐め回したかと思えば、上顎をくすぐり、歯列をなぞり、舌を絡め取る。




「んーんー」




 クリスティーナの声も一緒に飲み込まれる。


 いきなりのことで抵抗らしい抵抗もできない。


 奪い尽くされるように口内中を吸われ、ようやくアレクシスの唇が離れた。


 クリスティーナは固まったまま動けずにいた体が解放され、真っ赤な顔で叫ぶ。




「も、もう、アレクったら! いくら喉が乾いていたからって、ひとの口からとることないじゃない!」




 さっきまで空気が吸えなかったせいで、ぜいぜいと息を吐く。




(もう、本当びっくりした。口付けかと思っちゃったじゃない)




 悲しいことに、クリスティーナの恋愛知識はお伽噺の中で、とまっているのだ。


 クリスティーナくらいの年齢ならば、今頃、結婚していても別段おかしくはない年頃である。しかしそれまでに至る過程において普通の令嬢ならば当然通る道を、クリスティーナは一切歩んでこなかったのである。普通の貴族の令嬢なら、数多くのお茶会に出席し、恋愛話に花を咲かせ、耳年増の友人から、恋のいろはを聞いたりする。


 そこで色んな知識を蓄えていくのだが、従者の生き方しか知らないクリスティーナは、幸か不幸か、そんな機会に恵まれたことなど一度としてなかったのである。そのため、愛を伝える手段は童話の中で見た唇と唇がただ触れ合うだけの行為に限られた。舌を入れ合う行為など、理解の範疇を超えているのだ。


 クリスティーナだって、結婚した夫婦には初夜というものがあるのはもちろん知ってはいる。しかし、そこで何が行われるかを知っているかと言えば、言わずもがなであった。


 一方、クリスティーナの肩を掴んだままだったアレクシスは目を丸くした。


 今の台詞と睨んでくる瞳に、先ほど行為がなにを意味しているのか、ちっとも伝わっていないことを悟り、複雑ながらもとりあえずほっとする。




「――ああ、悪い。つい喉が渇いて」




(気付いてたら体が勝手に動いていた。気をつけなければならないな)




 自制が効かなかった自分を反省する。




「まったくもう」




 クリスティーナはまだ頬を赤くして立ち上がる。




(アレクに口付けされたかと思って、焦っちゃった。本当の口付けだったら、今頃、どうしたらいいかわからなかったかも)




 一方アレクシスも――




(まだ好きだと、伝えてもいないのに、なにをやってるんだ、俺は。今回勘違いしてくれたから良かったが、まだクリスに女であることを俺が知っているとは知られてはいけないのに)




 両者、知らないところで、密かに安堵の溜め息を吐いたのだった。

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