第27話 それは、どっちも本当で……

 翌週になっても、アメリアの様子は普段とあまり変わりがなかった。中間テスト前だというのに、勉強をしている様子もない。そんなアメリアを眺めながら、机に向かっているのが馬鹿らしくなるほどの不変ぶりであった。


 一方で文則は、テストに向けて必死に知識を頭に詰め込んでいた。今の成績だとエスカレーターは無理だと、鵠沼先生に言われたのが効いている。今も、苦手な暗記科目を必死で覚えている最中だった。


 だけど今日ばかりはどこか心が浮ついている。アメリアの話によるなら、今週中にはオーディションの結果が御坂から報告されることになっているのだ。


 そのせいか、気分がそわそわとしてしまい、どうにも勉強に集中することができない。当のアメリアの方は、文則のベッドの上でリラックスした姿勢で、今も役を担当しているアニメの台本をチェックしているというのに。


「お前、緊張とか不安とかないわけ」


 どうせ集中なんてできそうにないと思って筆を置いた文則は、座っていた椅子を回転させてアメリアにそう問いかけてみた。


 アメリアの格好は、無防備なパジャマ姿だ。襟元のボタンは開けられていて、その奥にある胸元がちらりと見える。そのことに無頓着なせいで、逆に色気が増しているのが心臓によろしくない。


「どうして?」


 返答はないものと思っていたが、意外にもアメリアはそう答えてくれた。


「どうしてって……今週には、オーディションの結果が出るんだろ」

「そうね」

「だったら、色々思うところがあったりとかするんじゃないのかよ」

「色々思って、どうするの?」

「どうするって……」

「不要よ」


 はっきりとアメリアがそう言い切る。


「役はアタシが取ると決めているもの」


 はっきりとした意思を乗せた目を、アメリアが向けてくる。そう言い切られてしまうと、文則にはなんにも言えない。


 そのタイミングで、ぐうとアメリアの腹が鳴る。お姫様はどうやら空腹の様子だ。実際、アメリアは視線で食事を要求してきた。


「……ったく。いいよ、俺もなにか食べたいところだったし。適当になんか作ってくる」


 ため息をついて立ち上がる。


 すると、ちょうどその時、アメリアのスマホが着信を告げた。


「はい」


 淡々とした様子でアメリアが着信に対応する。きっと御坂だろう。それ以外の人間と通話をしている姿なんて見たことがない。


 アメリアは何度か、「はい、はい」とうなずくと、やがて通話を切って顔を上げた。


「落ちたわ」


 それだけ言うと、アメリアはベッドから降りる。


「食事はいらない。部屋に戻るわ」

「お、おい、アメリア……」


 引き留めようとした文則だが、ゾッとする感覚に襲われて思わず手を止めた。


 その感覚は外からやってきたものじゃない。


 自分の内側から、いきなり襲い掛かってきた。


 暗闇が口をあけている。そこにあるなんて気づかなかった闇が、突然文則を飲み込んでくる。


 こんないやらしい感情を自分が抱いているなど知らなかった。知りたくなかった。だけど実際にそこにある。目を逸らしたくても逸らせない。人の形をした人でなしが、自分を指さして笑っている。お前はそういう奴なのだと、腹を抱えて笑っている。


 こんな感情は耐え切れない。こんな黒い気持ちを抱えたまま、アメリアの背中に伸ばせる腕なんてありはしない。


 もたもたしているうちにアメリアは部屋から出ていった。部屋の外から話し声が少しだけ聞こえてくる。きっと、絵麻とでも出くわしたのだろう。


 そんなことを考えているうちに、扉が開け放たれて絵麻がものすごい勢いで駆け寄ってきた。


「ノリフミ君、アメりんが!」

「……」

「ノリフミ君ってば!」


 叫ぶように話しかけてくる絵麻に、答えることができない。自分の中で生まれたこんな感情を、抱えていることを悟られたくなくて、文則は彼女と目を合わせることを拒んだ。


 そのまま、絵麻を押しのけるようにして部屋を出る。踵を踏んだまま靴を履き、夕方の街へと駆けだしていく。


「……? おい、文則」


 途中ですれ違った雄星に話しかけられても、振り返ることすらできない。


 だって、逃げたかったから。


 どこまでも後ろから追いかけてくる、背筋のゾッとする感覚から、どうにか逃げ延びたかったから。


 でも本当は分かっていた。その感覚は後ろから追ってきているわけじゃない。


 絶対に逃げることなんてできやしない。


 アメリアが落ちて、つい、ホッとしてしまった。天才でも負けることがあると思って、そのことを喜んでしまった。他人の失敗を、嘲笑ってしまった。


 それは文則の内側で生まれたもの。


 他の誰でもない。


 文則自身が、そうなのだ。


  ***


 駆けまわっているうちに気づけば公園のベンチにいた。靴は片方、逃げ落ちていて、今は裸足だ。土の冷たい感触が、足の裏から伝わってくる。


 ベンチに座ったまま項垂れる。自分の醜さからは、結局逃げ延びることなどできなかった。そんな文則にできることなど、力なく地面を見つめることぐらいだ。


 もう辺りは暗くなっている。


 遠くから電車の音が聞こえてくる。死んだ太陽が西の空でわずかばかりの残照を放っている。消えかけた公園の街灯がちかちかと点滅していて、今、完全に沈黙した。


「最低だ、俺」


 呟く。


「なんでだよ……あいつが落ちて、喜ぶなんて、どうかしてるだろ」


 ただの独り言。誰にも聞こえていない、はずだった。


 なのに。


「普通だろ、そんなの」


 返事が返ってきてしまった。


「雄星さん……何しに来たんですか」


 振り返れば、ベンチの後ろ側に雄星が立っている。暗がりで表情はよく分からない。だけど口元に、皮肉気な笑みを浮かべているのは雰囲気で分かった。いつものように、その左手は耳のピアスをいじっている。


「負け犬の醜態を拝みに来た」

「……悪趣味っすよ」

「今さらだろ、それ」


 笑いながら回り込んできた雄星が隣に座る。


「夜はまだちょっと冷えるな」

「……」

「ほら、靴」


 手に持っていたものを雄星が足元に放り投げてくる。いつの間にか脱げていた文則の靴だ。


「ありがとうございます」


 礼を言って靴を履く。今度は、踵まできっちりと。


「アメリアちゃん、落ちたんだって?」

「今、その話はしないでください」

「いい気味だよな」

「だから、やめてくださいよ……」

「雲の上の天才が負ける姿ってやつは、なんでこんなに気持ちいいんだろうな」

「だからやめろってば!」


 そう叫んで、思わず雄星の胸倉に掴みかかる。怒りが体を支配していた。図星を突かれてしまった怒りが。心の内を見抜かれてしまった怒りが。


 そして睨みつけた雄星の表情は――疲れと哀れみの色が、滲んでいた。


「雄星、さん……?」

「――コケてくれって、願ってた」

「……」

「絵麻の新作アニメ、お前も観たんだろ。つぶやきアプリで五百万リツイート。すげえバズりかたしてんだよ」

「……」

「でもな、考えてみりゃコケるわけねえんだよ、ああいうやつらって。やることやって、結果出すために行動して……たまにぶち当たる失敗だって、自分の糧にしちまうような頭イカれた連中だ。成功するべくして成功してる、そんなとんでもない化け物だ」

「それ、は……」

「でもさ。たまには願ったっていいよな。祈ったっていいよな。上手く行ってるやつらに、少しぐらいは痛い目見てくれって思ったりしたっていいよなあ、文則」

「そんなの……」

「オレはずっとそうなんだよ。ずっと悔しいんだよ。成功してるやつら見て、喜んだりとかできるかよ」


 雄星の声は震えてる。痛みと苦しみで歪んでいる。


「分かってる。そんな風に思うやつらが、負け犬とかって呼ばれることなんて。醜態晒して恥ずかしいって、そんなのオレだって分かってる。分かってんだよ!」


 そう叫ぶ雄星の声は、真正面から文則を殴りつけていた。


「……お前だってさ、文則。オレからしてみりゃすげえやつだよ」

「俺なんて、そんな……」

「絵麻から聞いた。漫画、描いてるってさ」

「でも、そんなのは……全然ダメで、叔母さんにもゴミって言われて」

「だけどそれでも一歩は一歩だろ。『ハイツ柿ノ木』で、一番なにもしてねえのはむしろオレの方だ」


 そんなことはないと言いたかった。雄星の言葉を否定したかった。


 だけど文則はなにも言えない。誰がなんと言おうとも、彼の言葉を否定できるのは彼自身しかいないと分かっていた。


「凡人ってキツいよな、文則」


 そう言って、雄星が無理やり笑顔を浮かべる。


「そうっすね。キツいっす」


 だから文則もまた、笑顔を浮かべた。同じ痛みを抱えている負け犬の先輩に。


「……雄星さん。なんか、ほんと、すんません。みっともないとこ見せちゃって」

「いいよ。そういうの、絵麻やアメリアちゃんには分からねえから」

「それ、なんつーか複雑です」

「仕方ねえよ。そういう星の下に生まれた奴らに常識を期待する方が間違ってる」

「それもそうっすね」


 今度は自然な笑顔が出た。胸の中にあるゾッとする感覚も、今はだいぶ小さくなっている。


「……なんかおかしな話かもしんないんすけど、いいですか?」

「言ってみろ」

「俺、悔しいんです」

「……」

「アメリアがオーディションに向けて頑張っていたことは知ってるから、だからアメリアが落ちたのが悔しいんです」

「そうか」

「それって……変なんですかね」

「いいんじゃね?」


 あっさりと文則の感情を雄星が肯定してくれた。


「好きも嫌いも表裏一体って、よく言うだろ。だからどっちも本当なんだろ」


 雄星がそう言ってくれて、気持ちはすっと軽くなった。自己嫌悪はある。今でも、黒い感情は完全には消えていない。


 それでもいいと、今は思った。この感情は、抱えて、向き合っていくことしかできないものだと、心のどこかで分かっていたから……。

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