第8話 特定の条件下における行動の性質変化に関する考察

「そんなとこに突っ立って、なにボーっとしてんのよ」

「え? あ、ああ、いや……」


 沙苗にそう話しかけられて、文則はハッと我に返った。


 あの日の夜以来、沙苗とこうして顔を合わせると逃げ出したくなる自分がいた。だけど、ここでこそこそと部屋に引き上げるのも、沙苗のことを意識しすぎているようでそれはそれで嫌だった。


 一方で、沙苗の文則に対する態度はあの夜以前と、以後とで、別段変わった様子もない。

 いや、あるいは、もともと口数が少なく、不愛想な性格だから、変わったようには見えないだけなのかもしれない。


「あ……そ、そうだ。これから飯作るんすけど、叔母さんの分も用意しようか?」

「いらない」

「そ、そっすか……」

「けど水はちょうだい」


 指示通りに水を汲み、ソファに腰掛ける沙苗へと持っていく。


 彼女はグラスを受け取ると、ポケットから錠剤をいくつか取り出して、それを一気に水で飲み下した。


「……クスリの飲みすぎは体壊しますよ?」

「……なに? 私のすることに文句あんの?」

「そんな……俺はただ、心配で」


 沙苗が今口にしていたのは、ブドウ糖とカフェインの錠剤だ。眠気を無理やり締め出すためのサプリメントを、彼女は常備しているのである。


「他人の心配っていうのは、自分のケツを拭けるようになってから初めてするものよ」

「……それは」

「あと、今はいらないけれど、夜食だけは作っておいて。あとで部屋に届けてくれればそれでいいから」


 指示を出した沙苗が立ち上がったところで、ラウンジの扉が開かれる。

 中に入ってきたのはアメリアだった。


「文則。ここにいたのね」


 沙苗を無視して、アメリアが話しかけてくる。


「……なんだよ。なにか、俺に用事か?」

「恋を教えて」


 帰り道で言ってきた言葉をアメリアは繰り返した。


「アタシに、恋を教えて」

「どういう意味だよ、それ」

「それは……」

「それは?」

「……よく分からないわ」


 返ってきた言葉に、思わず文則は脱力した。本当に、アメリアはなにがしたいのだろうか。


 つい、助けを求めるような視線をすぐ傍にいた沙苗に向けると、彼女は肩を竦めて素知らぬ顔をするばかりだ。


 そればかりか、


「あんたがお世話係でしょ。自分で何とかしなさいよ」


 などと、無責任なことまで言ってくる始末である。


「俺じゃどうにもできないから、こうして助けを求めてるんじゃないすか!」

「なら、一つだけ助言をしてあげる」

「なんですか」

「他人なら自分の問題を何とかしてくれる、という思い上がった期待を抱くのはやめなさい」

「……それ、結局叔母さんはなんにもしてくれないってことじゃないですか」

「当然でしょ。仕事がまだ残ってるもの」


 そう言われては、文則はなにも言い返せない。


「それじゃ。あとは若い二人でごゆっくり」


 文則が押し黙っているうちに、沙苗はそんな言葉を告げてラウンジを後にした。


 アメリアと二人きりで残されて、文則は落ち着かない気持ちになる。沈黙が、なんだか重たい。アメリアが向けてくる視線さえも、なんだか物言いたげなような気がしてきてしまう。


「あ、あー……なんだ。もう、ご飯にするか? しちゃうか?」


 沈黙を埋めるために口にした言葉は、なんだか空虚だ。自分ですら、取って付けたような感じを覚えてしまう。


「で、でも、今すぐにってわけにもいかないからちょっと待っててもらえるか? 十分か、十五分ぐらいで作れると思うから、そしたら夕飯に――」

「文則。アタシに恋を教えて?」

「あの――」

「恋ってなに? どういう気持ち?」

「アメリア、あのな……」

「アタシは、恋をしてみたいわ」


 文則の言葉を無視して、アメリアが用件を押し付けてくる。


 彼女が『恋』という言葉を口にするたびに、いちいち心臓が反応する。変な風に跳ねたり、やたらドキドキとさせられたり、そんな風に落ち着かないのだ。


「――な、なんでだよ」


 と、やっとの思いで文則は彼女に言葉を返した。


「どうして、お前……恋を知りたいとかいきなり言い出してんだよ。俺のことが、なに? 好きなの? 惚れてんの?」

「……よく分からないわ」

「分からないって……そんなの、こっちの方が分からねえよ」

「好きな人がいる、という条件下における心理的変化や、どのような繰り返し行動が発生するのかを知りたいの」

「……は? どういうこと?」

「演技において、特定の条件下における行動の性質変化について知悉することは重要だわ」

「はあ……」

「そして、日本のアニメは、恋愛を題材にしたものも数が多いわ」

「それは、まあ、そうかもしれないけど……」

「彼女たちの気持ちを、アタシは理解わかってあげなくちゃいけないわ。そのためには、『好きな人がいる』という条件下で、どのような心理的・行動的変化が現れるのか知りたいわ」


 彼女たち、というのは、つまり、『自分の演じるキャラクターの女の子たち』ということなのだろう。より良い演技をできるようになるために、恋をするという経験を積んでみたいのだと、アメリアは言っているのだ。


 そのことに気づいて、なんだか文則の感情は一気に冷めた。恋を教えて、と言う彼女が見ているのは、しかし結局、自分ではない。その視線はいつだって、演技の世界に向けられている。


「だからアタシは確かめたいの。恋をすると本当に胸が苦しくなるのか。恋をすると本当に世界がキラキラとして見えるのか。恋をすると本当にその人のことしか考えることができなくなるのか。――恋をすることで本当に、それまでの行動・価値観に大きな変化を与えるのか」

「……それは、演技のためってことだよな? 声優として、成長するために恋をしたいってことなんだろ?」

「そうよ」

「だったら、それなら……その役割は、別に俺じゃなくたっていいんだろ?」

「どういうこと?」

「恋を知りたいんだったらさ……雄星さんの方が、よっぽど俺より適任だって言ってんだよ」


 仲真雄星。多数の女性と付き合っている、『ハイツ柿ノ木』の住民の一人。


 もしも雄星が相手なら、文則なんかとは比べ物にならないぐらいにアメリアを上手にエスコートするだろう。女の子が憧れるような言葉をかけて、女の子が喜ぶように振る舞い、恋する女の子がしてみたいことを一通り体験させてくれるだろう。


「恋を知りたいんだったらさ。俺なんかよりも、そっちに頼んだらどうなんだ」

「……」

「だいたい、俺だって知らねえよ、恋なんて。……知らないものを、教えられるかよ」

「でも……」

「……なんだよ」

「アタシは、文則にお願いしてるのに」


 ぽつりと呟き、アメリアが文則に背中を向ける。

 そのまま、彼女はラウンジから出て行こうとした。


「お、おい。アメリア、飯は……」

「いらないわ」

「いらないって、おい」

「文則はいつも言い訳ばかり」


 去り際、ちょっとだけ振り返ってそう告げると、アメリアは今度こそ本当にラウンジを出て行った。


「……なんなんだよ、マジで」


 脱力して、文則はソファに座り込む。料理をする気は、もう失せていた。


「俺が言い訳ばかりなら……お前は、わけの分からないことばかりだろ」


 非難がましい口調で呟く声も、すぐに空気に溶けてしまう。そして結局残るのは、後味の悪い感情ばかり。


 その感情の正体に、文則は気づかないふりをしたかった。だけど、自分の内側から生まれたものから、完全に目を逸らすことなどできはしない。


 だけど、自分の中の気持ちと正しく向き合えるほどに、文則はまだ、大人ではなかった。

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