第7話 柿井沙苗
「恋を教えてって……なんだよ、それ」
自分の部屋。
その、ベッドの上。
仰向けになって寝転がりながら、帰り道での出来事を文則は思い返していた。
――ねえ、アタシに恋を教えて?
そう告げたあと、アメリアは特に理由を説明することもなく、帰り道を歩き出す。追いかけた文則が、「今の、どういう意味だよ?」と問いかけてみても、
「……ふぇ?」
と、普段のぽやぁ~っとした様子に戻ってしまって、ろくに答えてもくれない。
おかげで、彼女の真意は分からないままだ。アパートに戻ってきてからは、声優モードに切り替わったのか、また部屋に引きこもって台本を読み始めてしまったし。
「……はぁ。飯でも作るか」
自分の中で、あれこれ思い悩んでいても仕方がないと考えなおして、文則は体を起こす。どうせ、アメリアの夕食を用意するのもお世話係としての仕事なのだ。
今日はチャーハン辺りが妥当なところだろうか? ネギも卵もベーコンも残っていたはずだし、それならアメリアが部屋から出てこなくてもおにぎりにして夜食にしてもらうことができる。
献立を考えつつラウンジを訪れると、先客がいた。
「……あら」
「叔母さん……」
そこにいたのは、見た目小学校三年生ぐらいの女の子だった。ソファに深くもたれかかりながら、手にはタバコを持っている。
その少女に、文則が話しかける。
「……ここでタバコ吸うのやめてくださいって、前にも言ったじゃないすか。未成年だっているんすよ?」
「私が、私の管理してる物件の中でどう振る舞おうが、私の勝手でしょ」
「そりゃ、そうかもしれないっすけど……」
「だいたい、このラウンジはあくまで私が厚意で開放してるだけ。言うなれば、私の私室みたいなものよ。文句があるなら、別にあんたは使わなくてもいいけど?」
言いながら少女はタバコを灰皿に押し付け、長い髪をさらりと手で払う。足の先から頭のてっぺんまで、小学生にしか見えないぐらいに全体の造りは小さいが、その中で文則へと向けられる瞳だけはやたらと鋭くギラついていた。
そのせいで、全体の印象としてはやたらちぐはぐだ。容姿全体のあどけなさを、眼力ひとつで塗り替えている。彼女にひとたび睨まれれば、刃紋が目の前に浮かぶのだ。そしてその刃紋の切っ先、肉を裂く刃の先端は、自分の喉元に突きつけられている。
もちろんそれは、文則の思い込みなのである。だが、それほどまでに彼女の眼力には凄味がある。
そして、そんな少女――いや、少女に見えて少女ではないその女性の名は、柿井沙苗、32歳。
この『ハイツ柿ノ木』の管理人にして、
アニメで四期に渡って放映された『僕らのギャラクシア・ヒーローズ』の原作者にして、絵麻が公開し一億回再生を突破したオリジナル漫画動画、『金翼のボルガノン』の脚本を書いた張本人。
文則のトラウマ。文則の絶望。
……文則の叔母。
そんな人だ。
***
去年の七月。
夏休みに差し掛かった頃、文則は半ば衝動的に机に向かっていた。
都会に来れば、何かがあると思っていた。田舎でくすぶっているような自分にだって、もしかしたら輝く何かが見つかるかもしれないと思っていた。
そして実際、『ハイツ柿ノ木』で暮らすようになって、そんな思いはますます強くなっていった。
だってそんなの当然だ。地元にはいなかった、すごい才能がそこにはいたんだから。
ハリウッドの元天才子役で、アカデミー賞にも輝いたことのある、現役のプロ声優。
動画サイトで公開した漫画動画が一億回も再生されている、漫画家として成功している女子大生。
それに、叔母の存在。四期に渡って放映されたアニメ作品の原作を描いた、圧倒的な実力を誇る漫画家。
すごい人達に囲まれて。
すさまじい才能に照らされて。
――だから、触発だってされもする、うっかり、勘違いだってする。
「……俺だって」
そんな思いで、向かった机。目の前にあるのは、漫画用の原稿用紙と、テンションが上がって買ったGペン。
白い紙の向こう側には、輝く未来が広がっていると……そんな風に思っていた。
元々、絵には少しだけ自信があった。昔、ちょっとだけ絵画教室に通っていたことがあって、同世代の周りの人達よりもよっぽど描ける方だと思っていた。
そうやって、夏休みいっぱいを使って、およそ25ページぐらいの漫画を描き上げた。
内容は、SF要素のあるバトルモノ。当時はやっていたアニメの影響をもろに受けていて、SF的な世界観に魔法バトルを上手く組み込めたと、そんな風に自分では思い込むことができていた。
ネットで見つけた漫画の新人賞。その締め切り日に間に合わせるために、夏休み最後の日の夜中、ポストに投函するために文則は部屋を出た。
風の気持ちいい夜だった。いつか、取材を受ける日が来たら、この時の風の心地よさを必ず語ろうと文則は決意した。
――あの日はね。本当に、最高の夜だったんですよ。だから、俺はもうそれで分かっちゃったんです。ああ、成功する瞬間って、本当に運命的な引力を感じるんだな、みたいな? そういうもんなんですよ。分かりますかね?
一瞬でそんなセリフまで思い浮かべる。一人、勝手に妄想を頭の中で繰り広げて、誰からも見られていないのをいいことににまにまと気色悪い笑みも浮かべていた。
そんな文則がラウンジの前を通りがかったタイミングで、扉が開いて中から沙苗が顔を出した。
「……こんな時間に。どこ行くのよ、あんた」
沙苗は例の、人でも殺しそうな目で文則を見上げながらそう問いかけてきた。
「え? あ、い、いやぁ~……ちょっと、ポストまでひとっ走り行こうかと?」
「ポスト? 手紙でも出すわけ?」
そう言いながら、沙苗の目が文則の手にした封筒へと注がれる。
封筒の表には、『コミックフロンティア短編漫画賞 担当者様』と、宛名がはっきりと刻まれていた。
「ふーん……短編漫画賞、ねえ」
「あ、ああ、うん……いや、夏休みの間、実はずっとこれ描いてたんすよ。それで、できたからちょっと……送ってみようかなあ、なんて」
「あっそ。道理で、最近なんかコソコソとしてたわけだ」
「うっ……気づいてたんすか?」
「分かりやすいのよ、あんた」
タバコに火を点け咥えると、「ん」と沙苗が掌を上に向けて文則に突き出してくる。
「えっと……なにか?」
「読ませなさい」
「へあっ!?」
「なに、変な声出してんのよ。キモいわよ」
「い、いや、でも……なんで?」
「甥っ子がどんな漫画を描いてるのか気になるのが、そんなにおかしい?」
「そういうわけではない……けども」
こういう展開を予想してはいなかった。だからいきなり、自分の作品を他人に見せるような心構えができていなかった。
でも、一方で……ドキドキしている自分にも気づいていた。見てほしい。評価がほしい。読んだその場で、感想をもらいたい。
そんな自分の本当の気持ちには、文則は気づいてはいなかった。見てほしいとか、評価がほしいとか、そういうのは全部『大絶賛なら』ほしいのだ。『才能がある』と言われたいし『とてもすごい』と褒められたいし『天才だ!』とか持ち上げられたい。
「ど、どうしようかな~。お、叔母さんって、ほら、目も肥えてるしもしかしたら叔母さんにはそんなに面白くないかも、っていうか……」
「御託はいいから。見せるの? 見せないの?」
「そ、それなら……拙作でよければ見てもらおうかなぁ……」
その瞬間、沙苗の眉がピクリと不愉快そうに動いたことに文則は気づいていなかった。
「とにかく……さっさと渡しなさい」
「あっ」
封筒をいきなり掻っ攫われて、その場で中身を開けられた。
「あ、ああっ、やめて! せめて俺のいないところで――」
わたわたと慌てる文則の前で、沙苗は物凄い勢いでページを捲っていく。25ページ、そのすべてを読み終えるのには、ものの五分もかからなかった。
そして――沙苗が、評価を口にする。
「駄作ね」
ピシリ、と視界にヒビが入った。
「ゴミよ」
ぐにゃり、と割れた視界が歪んだ。
「ゴミを増やすのは――やめてちょうだい」
割れて歪んだ世界のすべてが、粉々に砕けてその場で散った。
違うそうじゃないそうじゃないだろ。欲しい言葉はそれじゃない。否定じゃないだろ違うだろ。そう叫ぶ心の声が遠くで聞こえるような感覚があった。
「だいたい、ねえ。あんた、文則。――どうして?」
「……え?」
「なんで、あんた、
沙苗の問いかけてくる、言葉の意味が分からなかった。そういうことって、いったいなんだよ。それよりも違うだろ。もっとなにかを言ってくれよ。せめて、初めて描いたにしては上出来だとか、よく頑張って描き上げたなとか。
しかし、そんな文則の気持ちが通じるわけもない。次に放たれた沙苗の言葉は、さらに辛辣なものだった。
「私はね。嫌いなの。拙作とか、拙いものですがとか、拙著とか、つまらないものですがとか、そういう謙虚ぶって自分で自分を下げて安心しようとする言葉がね」
「……っ」
「面白くないかもしれないけどとか、そういう風に言った時、あんた、なにを考えてた?」
なにも考えていなかった。
いや、違う。それは嘘だ。
心の中で、無意識で張っていた予防線。最初に『面白くないかもしれないけど』と言っておけば、甘めに評価してくれるんじゃないかって、心のどこかで思っていた。
「あんたが自分でひり出した、自分の
「そ、そんなの……」
「これは駄作よ。これはゴミよ。そしてなによりも――可哀想な
沙苗がそんな言葉と共に、乱暴に原稿を突っ返してくる。だけどそれをまともに受け取ることができない。震える指で掴もうとした紙の束を、虚しく足元へ取り落としてしまう。
だけどそれよりも、沙苗の言った言葉の全部が、文則を打ちのめしていた。
なにも言えない。語るべき言葉を文則は持たない。
この場所には、何かがあるって思っていた。だから自分だって、何者かになれると思っていた。しかしそんな思い込みは、いともたやすく砕かれて、再び文則は何者ですらない『何か』未満の存在に成り下がっていた。
「――悪かったわね、引き留めて」
最後にポツリとそう呟いて、沙苗が管理人室……自室へと立ち去る。
彼女の姿が消えた後、文則は足元に散らばった原稿を一枚一枚、丁寧に拾って胸に抱く。悔し涙すら出なかった。ただ、ひたすらに虚しい気持ちになって、原稿を抱いたままポストではなく自分の部屋へと駆け戻る。
そして、封筒に戻した漫画の原稿を、机の二番目の引き出しへと押し込んだ。
「……っ」
呻くような声を上げ、文則はベッドの上でうずくまる。
そして、文則は翌日、高校を卒業したら実家に帰る旨を両親に伝え――、
――机の、二番目の引き出しは、半年以上が経った今でも開けることができていない。
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