第98話 生魚を食べてみた

「ここは本当に素晴らしいところだね!」


 イオさんが興奮気味に言う。


「サケにアジにサンマにサザエ! さらにはアワビやウニまで全部食べ放題だなんて! それにどれも菜園でできたとは思えないほど新鮮で美味しい! ありがとう、ジオ君!」

「あ、はい……」


 あまりの熱量に僕はちょっと引いてしまった。


 どうやらイオさんは肉よりも魚介類の方が好物だったらしい。

 魚も作れると知った瞬間に目を輝かせ、ぜひ栽培してほしいと懇願されてしまった。


「ああ、このサケなんて、旨味たっぷりの脂が口の中でとろけていく……」

「ほ、本当に焼かなくて大丈夫なんですか……?」


 イオさんは下ろした魚をそのまま食べていた。

 生魚を食べるのはうちのミルクやピッピくらいだ。

 あの二匹は生肉だって食べるけど。


「心配ないよ。新鮮な魚はむしろ生で食べないと。刺身っていうんだけどね」

「刺身?」


 僕が聞き返すと、イオさんは目を丸くした。


「……まさか、刺身を食べたことないのかい?」

「あ、はい」


 そもそも魚自体ほとんど食べたことがない。

 アーセルの街は海から遠いので、魚と言えば主に干物や塩漬けされたものだ。

 それもかなり高価なので、金持ちくらいしか買わなかった。


「ふふふ、それならぼくが優しく教えてあげるよ…………魚の美味しさをね」

「お願いします」


 なんだかちょっと含みがありそうな言い方だった気がしたけど……。


 ともかく僕は、イオさんが捌いてくれた生の魚を少し食べてみることにした。

 まずはサケからだ。


 艶のあるピンク色。

 一口サイズのそれを恐る恐る口に入れてみる。


「っ!? お、美味しい……」

「そうだろう!」


 これが刺身か……。

 肉とはまた違う繊細な旨味が口に広がり、幾らでも食べられそうな美味しさだ。


「ハマチも食べてごらんよ」

「こ、これも美味しいです……っ!」


 ハマチは肉厚で、噛むとぷりっとした食感とともに旨味が口の中で爆発した。


「うんうん、君も刺身の美味しさを理解してくれたようだね。ただ……実を言うと、刺身にはもっと美味しい食べ方があるんだ」

「美味しい食べ方、ですか?」

「そう。醤油とワサビだ」

「醤油とワサビ……?」


 イオさんは残念そうに言う。


「醤油は大豆を発酵させた調味料で、程よい塩気が刺身の旨味を引き出してくれるんだ。ワサビは山菜で、ツンとした辛みがいいアクセントになる。ぼくの故郷ではどちらも定番だったんだけど……いや、とても新鮮な魚だから、このままでも十分美味しいんだけれどね。生臭さも全然ないし……」


 だけどやっぱり醤油とワサビがあった方が、刺身は美味しく食べることができるらしい。


「ありますよ? 醤油もワサビも」

「あるのかい!?」

「は、はい」


 確か、どちらも栽培可能な作物のリストに入っていた気がする。

 聞いたことのないものだったので、どちらも一度も栽培したことがないけれど。


 というわけで、早速、作ってみた。


「これが醤油、ですか……?」


 黒っぽい色の液体だ。

 見た目だけ見ると、ちょっと口にするのを躊躇する感じがある。

 匂いはあまり嗅ぎなれない独特なものだけど、嫌な臭いではなかった。


「匂いは確かに醤油だけど……どれどれ」


 イオさんは菜園で栽培した醤油に半信半疑なのか、小指に少し付けて、味見をした。

 そして目を見開き、


「うん! 美味しい! 間違いなく醤油だよ! まさかこんなに簡単に作れるなんて! むしろ故郷で作っていたものより品質がいい気がする!」


 どうやら気に入ってくれたようだ。


「それで、こっちはワサビです」


 青々とした大きな葉っぱに、緑色の野太い根茎がくっ付いている。

 てっきり葉っぱの方を食すのだと思って根茎を捨てようとしたら、イオさんに慌てて止められてしまった。


「違う違う。そっちの方を使うんだよ」

「えっ? この根っこの方ですか……?」

「もちろん葉っぱの方も食べられるけど、刺身に付けるワサビは根茎の方なんだ」


 表面がごつごつした不気味な緑色の根っこ。

 正直言って、醤油以上に食べるのに躊躇する見た目だった。


「うんうん! とても大きくて立派なワサビだ! ここまで見事なものはなかなか見たことないよ。ワサビはとってもデリケートだからね……ふふ」


 そう言いながら、イオさんは太くて立派なそれを愛おしそうに撫でている。

 何だろう、ちょっと股の辺りがぞくっとしたのは……?


 それからイオさんは、どこで見つけてきたのか、表面がざらざらした石にワサビの先端を押し当て、すり下ろし始めた。


「そうやって食べるんですね」

「こうすることで独特な辛みが出てくるんだ」


 やがてワサビがすり下ろされると、イオさんはそれを少しだけ刺身に乗せ、先ほどの醤油に付けてから口に入れた。


「~~~~っ! こ、これだ……っ! やっぱり刺身にはワサビと醤油だよ! ジオ君もぜひ食べてみてごらん!」

「わ、分かりました」


 僕も同じように食べてみる。


「お、美味しい!? 確かに刺身だけで食べたときより、さらに味が深まって――っ!?」


 突然、鼻の奥に痛みが走った。


「それがワサビの辛みさ」

「こ、これが……」

「最初はちょっと痛いかもしれないけど、慣れていくと段々と病みつきになっていくものだよ……ふふふ」


 涙目で鼻頭を抑える僕を見ながら、イオさんはなぜか艶めいた笑い方をする。


「そ、そうなんですね……」


 お茶を飲んでどうにか落ち着いてきた。

 すると何を思ったのか、イオさんがこんな提案をしてきた。


「そうだ、よかったら今日は泊っていかないかい? もっと君に色んなことを教えてあげたいな……ふふふ」

「いえ、せっかくですけど、そろそろ戻ります」


 妹のためにご飯を作ってあげないといけないしね。

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