第17話 その瞬間(とき)

 康子曰く「今現在通っているんだから証明になるでしょう?」とのことだ。しかし学校は都内の中心地。いつなにが起こるかわからない。それでも康子は行くことを決めていた。

確かにこのままだと、我々の存在が根底から消し飛ぶことになる。ただでさえ不思議な力に翻弄されているのに、存在まで危ういとなれば、せめてもの救いが欲しいと思うのも事実だ。今のままだと自分たちが何者なのかさえ分からなくなってくる。

いや、生きているのかさえわからなくなってくる。


「よし行こう」僕は康子に言った。僕自身も確かめずにいられなかったからだ。

「大地震でも来たらどうする?」小林は正直に渋った。その気持ちもわかる。

けれども、たとえ何かに巻き込まれて命を落としたとしても、誰にも遺体を引き取ってもらえず、連絡もなされないかも知れないのだ。だからこそ、自分たちの存在を確かなものにしておきたいと、小林を説得した。


「わかったよ。一緒に行こう」結局は小林も同行を決めた。都心に向かう電車は時間的にも混み始めていた。それでも下りよりは空いている。しかし、乗客たちの霧は、前よりも確かに濃くなっていた。

まだ『真っ赤』とは呼べないが、はっきりとその色が分かるほどにはなっていた。恐らく、何かが起きるまでの時間的猶予はないのかも知れない。それでも自分たちの存在を確かめたい気持ちには偽りもなかった。


車内で三人はほとんど口を利かなかった。僕はありったけの記憶を頭の中から引きずり出し、順を追って整理し始めた。子供のころから小学校、中学校、高校から今現在通うが大学まで。家族と過ごした夏休みや、学校の運動会。給食当番のときに料理のバケツをひっくり返したこと。中学校の時に初恋をしたこと。そしてその相手の名前。思い出せる限りを思い出そうと必死だった。


けれども、どういうわけか弟に関しての記憶が少ない。喧嘩もしたはずだが、それらの記憶がない。忘れてしまったのだろうか?サッカーの試合にも行った記憶がなかった。そこで僕は気が付いた。映像としての記憶はあるが、感情としての記憶がまるでないのだ。


喜怒哀楽に関する記憶が全くと言っていいほど欠如していた。子供のころならば、買ってもらえなくて悲しくなったおもちゃの一つもあっただろう。初恋に破れて落ち込んだこともあったはずだ。けれどもその感情の記憶がなかった。


「着くぞ」小林に肩を叩かれ僕は記憶の渦から現世へと呼び戻された。

「ああ」車内はいつの間にか大変な混雑になっていた。乗り換え客も多い駅だ。当然と言えば当然だろう。しかも、ほとんどの人が赤い霧に包まれている。もうすぐ、何かが起きようとしているのは明白であった。


小林も康子も表情は暗い。僕と同じように電車の中では色々と思い出していたのだろう。それでも結論が出ないことからの喪失感だろうか。きっと僕もそんな顔つきのはずだ。やがて大学が見えてきた。つい二日前に来た場所である。ポケットをまさぐると学生証もちゃんとあった。あたりは暗くなっているが、まだ多くの学生が残っていた。学生課に向かい事務の人に尋ねた。


「昨年の入学者名簿はありますか?」

「あるけど、ここの学生さん?」対応に出た人は、すでに真っ赤な霧に包まれていた。猶予はない。

「はい」そう言って僕は急いで学生証を見せた。

「ちょっと待ってて」年配の女性は学生証を確認してから本棚の裏へと向かった。在校生ならば問題はないのだろう。


「入学者名簿ならば、出身校も載ってるはずだ」と僕は小林と康子に言った。

二人は静かに頷いた。その目には期待と不安の混ざった色が見える。やがて年配の女性は一冊の厚い本を抱えて戻ってきた。

「奥に机があるから、持ち出しは禁止です」と僕に向かって言った。

「ありがとうございます。すぐに返しますので」と軽く会釈をして答えた。


気持ちは焦るが、駆け出すわけにはいかない。そして机に書籍を置いた時、何かが起こった。雷よりも更に強い光が事務所内に差し込んできたのだ。その光は事務所だけでなく、町全体を包み込むかのように目も眩む明るさだった。そして小林と顔を見合わせた時、恐ろしいほどの轟音が響いた。鼓膜など簡単に破れそうな音が襲ってきたと思った矢先、凄まじい風が身体を吹き飛ばした。それは窓ガラスどころか建物すべてを吹き飛ばすほどの破壊力だった。

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