ロッシュ限界を超えて(5)
スピカは魂の状態となって漂っていた。
エウレカとアークトゥルスの会話を見ていると、恥ずかしくて仕方なかった。何しろあの体は、自分とアヴィオールのものなのだ。自分達が抱き締め会っているのを見ているようで、実態がないにも関わらず、頬に熱を帯びているように感じた。
たまらずスピカは視線を逸らす。そして、辺りを見回して探し始めた。
アヴィオールの体の中にいるのがアークトゥルスであるならば、アヴィオール自身の魂は別のところにいるのではないか。そう考えたからだ。
果たして、彼は見つかった。少し離れた場所で、スピカと同様に、アークトゥルスを見て恥じらっているようであった。
スピカはアヴィオールの元へと向かう。
「アヴィ」
呼びかける。
彼はすぐに気付いた。彼が
アヴィオールはスピカに近付き、抱き締めた。あまりに突然のことに、スピカは驚いた。
「……よかった」
その一言が泣きそうなくらいに震えていて、スピカはふふっと笑いをこぼす。
「ごめんなさい。心配させちゃった」
スピカは、アヴィオールの背に手を回す。互いに感触はなかったが、温かさは感じていた。
暫くそうした後、スピカが離れ、アヴィオールの横に並ぶ。エウレカ達を見てみれば、二人はまだ言葉を交わしていた。
千年もの長い間、会うことすら叶わなかった二人だ。積もる話もあるだろう。暫くはそっとしておくことにする。
スピカはアヴィオールに提案した。
「ねえ。見て欲しいものがあるの」
「見て欲しいもの?」
スピカはアヴィオールと手を繋ぐ。そうして、星の海の入口まで連れて行き、その穴を覗き込んだ。
光が詰まったその穴の中に、スピカは足を踏み入れる。先程潜った穴なのだ。今更怖がることもない。
アヴィオールもまた、スピカに手を引かれ海に潜る。
そこは、星の
スピカはアヴィオールに向かい合い、彼と両手を握り合う。
キラキラと瞬くスーパーノヴァは、絶え間なく出現と消滅を繰り返している。たまらなく美しく、愛おしく思えた。
「これがね、かつての星の姿なの」
スピカは言う。
星屑が瞬いて、煌めいて、消えて、生まれる。
瞬いて、煌めいて、消えて、生まれる。
ひたすらに、ひたすらにそれを繰り返す中、微かに歌声が聞こえてきた。
星巡る歌。それは、竜と人間による重唱であった。
スピカは真下を見下ろす。アヴィオールもつられて見下ろす。
光溢れる星空の下。竜と人間が歌い、踊り明かしていた。そのどちらとも幸せな笑みを浮かべ、友人のように笑い合い、崇め合い、語り合っている。
『
『
きらり、きらりと、星が流れては消えていく。
スピカも、アヴィオールも、今やその星の光の一部であった。
「私達はね、この星の光の一部なの」
スピカも。
アヴィオールも。
彼女らだけではない。
この星に生きとし生ける命は、光となって流転する。この星は、それが自らの在り方であるように願ったのだ。
「スピカ、どうしてそれを」
知っているのか、と言いかけて、アヴィオールは口を閉ざした。
スピカが、アヴィオールに顔を近付ける。
触れるだけのキスをした。
「え?」
アヴィオールは顔を赤らめる。
唇が触れた瞬間、感触はなかったが、熱いくらいの体温を感じた。
スピカは声に出して笑う。アヴィオールの慌てようが面白くて。
「あははっ。慌てなくてもいいじゃない」
「慌てるでしょ! あー……初めては僕からしようと思ってたのに……」
「ふふ。早い者勝ちよ」
再び見つめ合い、二人して声をあげて笑う。どうしようもないほど幸せを感じていた。
「スピカ、アヴィオールくん」
二人を呼ぶ声がする。
辺りの景色は一転した。
天色の星雲が辺りを包む。星雲の中は、星屑の煌めきで溢れており、優しく辺りを照らしている。
星雲の中から現れたのは、先代の乙女の賢者、エルアの姿であった。彼女の姿は淡く透き通り、今や消えかけていることが容易に理解できる。
「アヴィオールくん、ここまでアークトゥルスを連れて来てくれて、ありがとう」
エルアの礼に、アヴィオールは首を振る。
「大したことなんてしていません。僕は、ただスピカに会いたかっただけで」
アークトゥルスを連れて来たのも、エウレカに引き合わせたのも、確かにアヴィオールの意思であったが、彼にとってはあくまでついで。スピカに会いに来るのが本来の目的であった。
スピカはそれを聞いて、頬を赤く染める。
「スピカ、帰ろう、ダクティロスに」
アヴィオールがスピカに向き直る。そして、彼女の両手を強く握った。
「カペラやレグルスと他愛ない話をして。時々ファミラナと遊んだりしてさ。
そして、また一緒に登校して、成績勝負なんかしたりして」
スピカは、アヴィオールの言葉を聞くものの、それに返事をすることはない。ただ黙って微笑んでいる。
アヴィオールはスピカの様子に気づき、首を傾げた。
「スピカ?」
スピカは目を伏せる。
「ごめんなさい、アヴィ」
星雲が消えていく。光が消えていく。それに伴い、エルアの姿も煌めき消えた。
輝きが消え去った後、目の前に現れたのは、麦の塔の最上階であった。その中央で、エウレカとアークトゥルスが涙を流している。
「エウレカ、すまない。また独りぼっちにさせてしまうね」
アークトゥルスは呟く。
彼の魂は、体から離れようとしていた。一時的な仮の体だ。アヴィオールと繋がっている体である以上、長居はできないのだ。
「私は先にタルタロスで待っているよ」
「でも……私がタルタロスに行くということは……」
「……だが、カオスを遠ざけ、冬をもたらすにはそれしかないんだろう?」
エウレカは頷く。アークトゥルスは目を伏せた。
「あとは、スピカが選択することだ。
大丈夫だよ。彼女は強い。散々痛めつけてしまった私が言うのだから、確かなものだ」
アークトゥルスは目を瞬かせる。体が言うことをきかず、ふらついた。
「スピカ。そこに居るのか」
アークトゥルスがスピカを見る。
おそらく見えているのだろう。碧眼はしっかりとスピカに向けられていた。
「酷い父親ですまない。最後にもう一つだけ、我儘を言わせてくれ」
スピカは頷く。何を言われるのか、理解していたし、覚悟もしていた。
元より、星の願いを聞いた時から、覚悟していた。
「乙女の血から離れられないエウレカを、どうか導いてあげてくれないだろうか」
スピカは頷く。
アヴィオールは目を見開く。
「ありがとう」
アークトゥルスはそう言って、その場に膝をついた。
次の瞬間、アヴィオールの意識は自身の体に戻ってきた。五感があり、意識もしっかりしている。
スピカもまた、自身の体に戻ってきた。エウレカが空けた隙間の中に入り込むようにして、スピカは自身の体を取り戻した。
「スピカ、さっきのは……」
アヴィオールは、立ち上がりながら問いかける。
スピカは笑う。星々の煌めきのように、輝いた笑顔であった。
「私ね、アヴィにお別れを言わなきゃいけないの」
アヴィオールは瞳を震わせる。
「それって……」
エウレカを導くとは、そういうことだ。頭では理解しても、それを受け入れることなどできやしない。
「エウレカは一人じゃタルタロスに行けないの。乙女と共に存在するという呪いで、縛られているから。
だからね、私が彼女を許して、送り届けてあげなくちゃ」
スピカは事も無げにそう言うが、それを意味するのは、すなわち……
「タルタロスに行くっていうのは、死ぬってことなんだよ」
アヴィオールは知っているのだ。
タルタロスは、あの場所は、死んだ魂を
「なんで? 君がそんなことをする必要なんて、何処にもないじゃないか」
アヴィオールはたまらず言うが、彼も理解していた。
スピカは乙女の一族の末裔。次世代がいない今、彼女がタルタロスに堕ちれば、確実に乙女は絶える。
次に取り憑く乙女がいなければ、エウレカはスピカに憑いたまま、タルタロスへと向かうことができる。
だが、それはあまりに残酷だ。
「何でスピカなんだよ。今すぐじゃなくたって……」
アヴィオールの訴えを、スピカは首を振って遮る。
「麦の塔は、今も星の光を吸い続けているの。見て」
スピカが指を差す。アヴィオールはその先を見る。
クラウディオスの全域が、黒と金色に飲まれている。空には星も月もなく、底知れぬ黒に塗り潰されている。
このまま麦の塔を放っておくわけにはいかない。
「冬は寒くて作物が育たないんでしょう? なら、その寒さで麦の塔を枯らしてしまいましょう。きっと上手くいくわ」
理屈を並べられたって、アヴィオールは納得しない。
「嫌だよ。僕は」
「アヴィ」
「君がいない世界なんて、何の意味もないんだ!」
スピカは黙る。我慢していた涙が、
スピカもまた、アヴィオールから離れることを恐れていた。だが。
「私もね、アヴィのいない世界なんていらないわ。でも、あなたがいる世界なら守りたい。あなたには、何の心配もない平和な世界で、生きてほしいの」
覚悟が揺らぐことはない。
このまま、カオスに飲まれて皆が死に絶えるのであれば、自分一人の命と引き換えに、アヴィオールを守りたいと、そう思った。
「置いてけぼりにしないでよ」
アヴィオールの瞳から涙がこぼれる。
いつであったか、同じような台詞を聞いたような気がして、スピカは笑いをもらす。
置いてけぼりにはしない。そんな確信があった。
「光は巡るのよ」
スピカは、アヴィオールの両手を握る。
「私、きっとこの世界に戻ってくるわ。
その時の姿が、花なのか鳥なのか、それはわからないけど。でもきっとアヴィのところに戻ってくる。
だから、私を見つけて。そして、変わらず私を愛して」
光は巡る。それが、この星が望んだ世界。望んだ在り方。
例え命が尽きたとしても、きっとまた光となってこの星に戻って来れる。そんな確信があった。
「本当に?」
「本当よ」
スピカはアヴィオールを抱き締める。最期に彼の温もりを感じていたかった。
怖くないわけではない。しかし、絶望はない。これから光の中に飛び込んでいくのだから。
アヴィオールから離れる。
麦の塔の端から、真下を見下ろした。
丁度その時、キロンがタルタロスへの扉を開けていた。暗い穴が宙に口を開け、タルタロスへと誘っている。
飛び込むには丁度いいタイミングじゃないか。
スピカは振り返る。
アヴィオールの顔は、涙と悲しみで歪んでいる。それでも精一杯の笑顔を浮かべて、スピカを送り出す。
「スピカ」
アヴィオールが口を開く。
さよならと言おうとして、口を閉ざす。
彼女の旅立ちには相応しくない。だから……
「またね」
スピカは微笑む。
「またね、アヴィ」
そう言って、スピカは背中から飛び降りた。
風が髪をはためかせ、麦穂の光が体を包む。パラパラと解けていく麦の塔は、まるで金色の雪のようだった。
綺麗だと、スピカは思った。
『ありがとう、スピカ。
私の大切なお友達……』
エウレカの声が頭に響く。
スピカは微笑んだ。
体は落下を続け、タルタロスへと堕ちていく。
闇に抱き止められた瞬間、瞼の裏に美しい光を見た気がした。
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