ロッシュ限界を超えて(3)

 麦の塔はどこまでも高く。空はどこまでも黒く。

 時計塔の最上階から出て、随分と登ってきたように感じるが、先はまだ見えない。アヴィオールは上をみあげる。

 時折降り注いでくる麦穂の攻撃を白鳩でいなしていたが、体力も精神力も限界が違い。息は荒くなり、肩が上下する。

 何しろ足場は、麦の葉を編み込んだだけである。柵はない。振り落とされれば一巻の終わりだ。

 エウレカの気紛れで振り落とされてはかなわない。アヴィオールはいつでも対処できるよう、気を張っているのだ。


「あとどのくらいかな」


 アヴィオールは振り返って問いかける。後ろを歩いていたアルファルドは、頭上を見上げて答えた。


「わからんが、まだまだ先だろう」


 光が舞い上がり、足場がぐらりと揺れる。

 アヴィオールは白鳩を足場にぶつけた。足場のぐらつきは瞬時になくなり、辺りは鎮まる。


「やっぱり、マーブラとキャンディに笛頼めば良かったかも」


 アヴィオールは弱音を吐くが、首を振って表情を引き締めた。


「あいつ、いると思う?」


 アヴィオールの問いかけに、アルファルドは暫し考える。誰のことを指しているのかは明白であった。


「アルデバランか」


「そう。まあ、いるだろうけどさ」


 アヴィオールには確信があった。アルデバランは、エウレカの近くに必ずいるはずだと。だが、すぐ傍にいるとは考えにくいとも思っていた。

 アルファルドも同じ考えのようである。


「アルデバランはエウレカを守ろうとするだろう。それこそ、今出てきてもおかしくない」


 アヴィオールは頷く。

 螺旋らせんの塔を登り、登り、やがて二人は、開けた空間にやってきた。

 床は麦を束ねた足場、天井もまた編み込まれた麦穂の束であったが、ドーム状となっていた。そこには、クラウディオスで見た宮殿のように、ラドンに捕らえられたエウレカ、それを救おうとする青年の姿が描かれていた。

 まるで、誰かのために用意した闘技場のようで、アヴィオールは中に入ることを恐ろしく感じた。しかし、他に道は無い。


「なんだ、ここは」


 アルファルドは、アヴィオールを追い越して闘技場の中へと入る。

 途端に張り詰めた緊張を感じて、アルファルドはロングソードの柄に手をかける。


「ここまで来たのか。執拗しつこい奴らめ」


 闘技場の反対側、奥側にある入口から、男が一人現れた。

 アルデバランであった。彼は抜き身のロングソードを片手に、闘技場の中央まで進み出る。


「これ以上は入らせん。退け」


 アルデバランは言うが、アルファルドがその言葉で退くことはないだろうということを理解していた。

 アルファルドはロングソードを鞘から抜く。手入れされた白銀しろがねの刃は、金色を照らし返して煌めいていた。


「断る」


「だろうな」


 アルファルドは前に進み出る。

 アヴィオールは慌ててアルファルドの背中に声をかけた。


「大丈夫なの?」


 アルファルドは苦笑する。


「大丈夫ではないな。剣を習っていたのなんて、もう二十年も前のことだ」


「そんな」


「だが、お前が先に進むだけの時間稼ぎはできるさ。スピカを頼むぞ」


 二人のやり取りは小声であったものの、アルデバランの耳にも入ったようである。アルデバランは、アルファルドの言葉を鼻で笑った。


「戦う術を持たずに来たか」


「来るだろ、普通。娘が危険に晒されてるんだから。

 バラン、お前だってそうだったんじゃないのか」


 アルファルドは、少しの期待を込めて問いかける。アルデバランはスピカの実父だ。少しくらいは情があるだろうと思った。

 だが、返事はない。代わりに、アルデバランはあざけるような笑みを浮かべた。


「そうか。わかった」


 アルファルドは両手で剣を持つ。下向きに構え、走り出す。

 真正面から向かってくるアルファルドを、アルデバランは睨む。自身のロングソードを両手で構えた。


 アルファルドは、剣を下から上へと切り上げる。対するアルデバランは、刃でそれを受け止め、滑らせるように受け流した。

 受け流されることは、アルファルドにとって想定内だった。すぐさま剣を強く握り直し、袈裟斬けさぎりにしようと振り下ろす。


 それも同様に受け流される。

 アルデバランは、真正面から受け止めるという防御をしなかった。最低限の力で受け流すのだ。


 アルファルドはすぐに身を引く。

 アルファルドの腹を掠めるように、剣が薙いだ。切っ先が繊維を断ち切り肌に傷をつけるが、ほんの小さな傷は即座に治り、致命傷にならない。

 アルデバランが追撃する。足を踏み込み、踏み込む度に剣が宙を斬る。アルファルドは剣で受け止め、押し返す。


霹靂へきれきよ」


 アルデバランが囁いた。

 雷が炸裂する。麦の床を這い、アルファルドに襲いかかろうと頭を擡げた。


「白鳩よ!」


 背後で声が聞こえた。

 アルファルドに噛みつかんとした雷は、弾丸のような白鳩の突進によって霧散した。


「アヴィ! 先に行けと言っただろうが!」


 アルファルドは怒鳴る。

 アヴィオールが白鳩を飛ばしたのだった。彼は片手をアルデバランに突き出して、しかしアルファルドの怒号に肩をびくつかせて手を下ろす。


「行かせはせんぞ」


 アルデバランは、アルファルドに斬りかかりながらも光を纏う。

 稲光が天井を走り、何本もの雷の槍が落ちる。アルファルドは目の前の刃を避けることに精一杯で、雷を避ける余裕などなかった。

 白鳩がアルファルドの体を旋回する。アルファルドは目を丸めた。


「アルフを置いていけるわけないじゃないか!」


 アヴィオールは叫ぶ。

 先に行くよう言われても、素直に言うことを聞ける程に子供ではない。アヴィオールは、この戦いを見届けることを決めた。

 アルファルドに降り注ぐ雷を、白鳩がかき消していく。白鳩が消えると、アヴィオールは再び呼び出し、アルファルドを守る。

 アルデバランの剣からは守ることができないが、アルファルドであれば自身で対処できる。


 アルデバランの剣が、アルファルドの肩に叩き付けられる。衝撃で鎖骨に激痛が走る。

 折れただろうかと考えるものの、アルファルドはそれに構うことはない。光が煌めき、肩の傷口は塞がった。骨に走る痛みも消える。


「落ちよ、霹靂へきれき


 アルデバランが言うと同時に、再び稲光が天井を覆った。

 白鳩が天井にぶつかる。稲光は消え失せ、何も落ちることはない。


「片や再生持ち、片や最強の防御だ。いい加減諦めて、道を開けろ」


 アルファルドは言いながら、一歩踏み込み剣を薙ぐ。アルデバランは受け流し、鼻で笑う。


「慢心は身を滅ぼすぞ」


 アルデバランは剣を振り上げる。

 受け流され、伸びきったアルファルドの右手首。刃がぶつかる。

 振り上げられた剣は、肉を削ぐように食い込み、手首の骨を砕く。アルファルドは、声を上げることすらできず、激痛のために剣を落としてしまった。

 すかさずアルデバランが剣を蹴り飛ばす。


「アルフ!」


 アヴィオールは叫ぶ。


「くそっ」


 アルファルドは悪態をついて、左手で右手首を押さえた。ダラダラと血が流れるが、輝術で治るのだから、それ自体は大したことではない。

 問題は、剣が蹴り飛ばされたことである。

 剣はアルファルドの後方に。斬られてもかまわない、取りに行こうと、右足を僅かに動かした。

 アルデバランが歩を詰める。切り上げていた剣を振り下ろす。体を分断するつもりであったに違いない。深く抉られた左胸の傷は肋骨に達し、折り砕いた。


「は……は……」


 アルファルドは浅い呼吸をし、その場に膝をつく。肺が上手く動かない。苦しい。


「本当に厄介だな、海蛇の輝術は。

 再生が追いつくより先に切り刻むか?」


 アルデバランは、アルファルドを見下ろし呟く。

 じきに治るだろう。今にも体は再生しようとしている。だが、続け様に斬撃を食らっては、治癒が追いつかないのではないか。不安が頭を過ぎった。

 自分が負けたら、スピカはどうなるのか。


「ああ、それなら心配いらないな」


 独りごちる。

 信頼できる者がいるではないか。


 肩越しに振り返る。

 アヴィオールが、白鳩を従わせ、そこに立っている。今にも白鳩を飛ばそうとしている。だが、そんなことを続けても仕方ないと、アルファルドは考えた。

 目線を、蹴り飛ばされた剣へ向ける。そして、再びアヴィオールを見る。

 言いたいことは伝わった。アヴィオールは、打ちひしがれた顔で首を振る。

 アルファルドは笑った。


『チャンスは一度きりだ。頼むぞ』


 そう言うかのように。


「ここまで来たことはたたえよう。だが、ここまでだ」


 アルデバランは剣をかまえ、突き出した。アルファルドの腹部に深々と突き刺さる。

 アルファルドはせ、鮮血を吐き出した。


「すまない、スピカ」


 そう呟いた。

 そして。アルデバランの腕を掴む。

 アルデバランは、突然のことに驚いた。とっくに戦意は喪失しているものと思い込んでいた。

 硬直したその一瞬が命取りであった。


「アヴィ、来い!」


 アルファルドの声に合わせ、アヴィオールが駆け出す。

 転がっていた剣を拾い上げ、速度を落とさず、剣をアルファルドの背中に突き差した。

 想像よりずっと抵抗が少なかった。長い刀身は、アルファルドの背中から腹を突き抜け、アルデバランの鳩尾に突き刺さる。

 ダメ押しとばかりに、アルファルドはアルデバランの胸倉を引き寄せた。そして、片手で刀身を掴み、肉を切り裂くかのように真横へと押しやった。

 アルデバランの腹が抉られる。目を見開き、咳込み、鮮血を吐き出す。

 アルファルドの腹は真横に裂かれ、中身がこぼれないように手で押さえていた。喉奥から競りあげてくる鉄臭さに噎せる。

 アヴィオールは、二人の体から離れた剣を見つめ、目を見開いていた。先程覚えた、肉を断ち切る感触に、カタカタと手を震わせる。


「離れろ!」


 口から血を飛ばしながら、アルファルドが叫ぶ。

 次の瞬間、アルデバランの体から光が溢れた。


「自分はここまでだ。後は頼むぞ」


 何が起こるのか理解できた。アヴィオールは白鳩を呼び出す。

 だが、アルデバランの輝術の方が早かった。


 閃光が辺りを覆い尽くす。破裂音が響く。そのどちらも一瞬のことで、アヴィオールは目を疑った。

 

 アルファルドの体がくずおれる。

 脂が焼けた不快な臭いが辺りに漂う。


「アルフ? 嘘でしょ?」


 アヴィオールは剣を投げ捨て、アルファルドに駆け寄った。彼の顔を覗き込む。

 目はぼんやりと開かれているが、何処も見ていない。

 彼が死んだということは、明らかであった。


「スピカが上で待ってるんだよ。ここで死んでもいいの? ねえ!」


 アヴィオールは泣きながら叫ぶ。しかし、自分には甦らせる術がない。何もできない。

 アルファルドが、自分を頼って剣を取らせたのは、きっと相打ち覚悟のことだったのだろう。理解できても、感情が追いつかない。

 傍で、重たいものが倒れた。見れば、アルデバランが腹を押さえて仰向けになっていた。

 彼の腹は抉られ、中身が一部露出していた。放っておけば、間違いなく助からないだろう。


「全く……粋なことをするな、アルフは……」


 アルデバランは呟く。

 アヴィオールは、アルファルドの目元に片手をあてる。その目を閉じさせて、アヴィオールは立ち上がる。涙を袖で拭うと、アルデバランへと顔を向けた。

 アルデバランはそれを見る。アヴィオールの、返り血で汚れた手を見て、ふっと笑った。


「君らの勝ちだ」


 喜べと言うかのようなその言葉に、アヴィオールは歯軋りする。大股でアルデバランに近付いて、彼の襟元を掴むと揺さぶった。


「ふざけるな!」


 激情するアヴィオールの顔が面白いらしく、アルデバランは笑う。


「ふざけてなどいないさ。命のやり取りをして、君らが勝ち、私が負けた。それだけのこと」


 アヴィオールは首を振る。涙がまた溢れてくる。


「それだけで済ませられるほど、あんたの意志は弱いのか!」


 アルデバランは不快を感じた。

 済ませられるはずはない。諦めるしかないのだ。だのに、目の前の子供はそれを咎めるのかと。


「僕は、あんたの正体を知ってる。

 諦めていいのか、


 アルデバランは……否、アークトゥルスは、その呼び掛けに目を見開いた。

 この体の持ち主に憑依ひょういしてからというもの、誰からも悟られぬよう隠して生きてきた。エウレカにだって気付かれなかった。

 まさか、知っている者がいるとは思ってもみなかった。


「どうなんだよ」


 アークトゥルスは歯噛みする。


「私を殺した奴の言うことか?」


「ああ、言ってやる!

 スピカを騙してエウレカを押し付けたこと、スピカを散々泣かせてきたこと、全部全部許さない。

 でも、あんたは僕と同じなんだろ。大切な子を守りたいだけなんだろ」


 アヴィオールの手が緩む。アークトゥルスの頭は床に落ちる。


「僕だって、あんたと同じ立場なら、同じことをしたかもしれない」


 アークトゥルスは自嘲した。

 自分がアヴィオールに感じていた嫌悪感は、同族嫌悪というものだったのだろう。それに今気付いたのだ。


「アルフを殺したのも、あんたが勝手に死のうとしてるのも、僕は許さない。罪から逃げるなよ、アークトゥルス」


 アークトゥルスは力なく笑い、目を閉じた。逃げるなと言うが、今この体は死にそうなのだ。

 そもそも、アヴィオールが自分に何を求めているのかわからない。


「エウレカに会いに行こう」


 アークトゥルスは薄く目を開く。

 どうやって? 訊きたいが、もう唇は動かない。


「僕の体を貸す。だから、一緒に行こう」


 アヴィオールの手が、アークトゥルスの胸に触れた。

 心臓の音が小さくなっていく。腹から流れ出る血は止まらず、アークトゥルスの顔が真っ白になっていく。

 だが、手を通して、何かが体の中に入り込んでいる感覚を感じていた。

 やがて心音がなくなると、アヴィオールは立ち上がる。


『ああ、存外悪くない』


 アヴィオールの頭の中に、男の声が響いた。アークトゥルスに違いない。


『すまない、アヴィオール。巻き込んでしまって』


 体を間借りしているアークトゥルスは、どうもしおらしい。だから、アヴィオールは笑って言った。


「僕が勝手に巻き込まれてるんだよ」


 そして、アヴィオールはアルファルドに近付き、跪く。

 今や安らかに眠っている彼を見下ろして、聞こえないだろうとわかりつつ、語りかけた。


「アルフ、ありがとう。

 僕はスピカのところへ行く。見守っててよね」


 アヴィオールは立ち上がる。

 投げ捨てた剣を拾い上げ、闘技場を出る。そして再び、麦の塔を登り始めた。

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