第73話



「そうだ、ちょっと試してみよう」



 秋雨がそう呟いているのは、街の門がすぐそこにある場所だった。時刻はまだ日が昇ったばかりということで人気も少なく、実に清々しい早朝といったところだ。



 彼が一体何を試そうとしているのかというと、謎の空間で新たに修得した魔法の一つである【結界魔法】だ。



 そもそもの話をすれば、グリムファームの領主であるランバー伯爵は魔族から命を狙われており、それは今も現在進行形で続いている。



 秋雨がたまたまその魔族たちと出くわし、今回は運良く撃退することができただけであって、魔族たちの標的がランバー伯爵から秋雨自身に移ったわけではない。



 したがって、彼がこの街を出て行ってしまうと、再び魔族に狙われた時誰も対処できる人間がいなくなるため、そうならないように対策として結界魔法を使って魔族を寄せ付けない選択を取ったのである。



 前回、サファロデの性欲を封印するというこの世で最も不名誉な使われ方をしてしまったことは、秋雨の記憶にも新しいものとして残っている。



 本来の目的とは異なった使用法だったため、魔族から街を守るべく今回改めて使用してみようと思い立ったのだ。



「さあ“初めて”の結界魔法はどんな感じなんだろうなー」



 もはや秋雨の中で、サファロデの件はなかったことになっているらしい。それほどまでに、彼の中で忌まわしい記憶だということが先の言動ではっきりとわかる。



「いくぞ【結界魔法】!」



 さっそく、今まで拠点にしていたグリムファームの街全体に結界魔法を行使する。頭の中で薄いベールのようなものが街を覆っていくイメージを描いていくと、思い浮かべた通り薄い膜状のようなものが全体を包み込んだ。



 夜明け直後の早朝ということもあり、秋雨の使った魔法に気付いた人間はおらず、結界魔法はものの数十秒で完了した。



 今回秋雨が使った結界魔法は実に単純なもので、魔族を結界の中に侵入させないことと、魔族が放った魔法を無力化するという二つの効果を持った結界だ。



 そんなものを街全体に張り巡らせて魔力は大丈夫なのだろうかという疑問が浮かぶと思うが、実際秋雨が使った魔力は結界魔法の発動に必要な分だけであり、この結界を維持させるための魔力は別のところから引っ張ってきている。



 それがどこからなのかといえば、言わずもがな街の住人たちからである。



 この街の規模を今の世界を基準に当て嵌めた場合上位寄りの部類に入っており、人口は数千人から数万人ほどの規模がある。街を覆いつくすほどの巨大な結界を維持させるためにはそれなりの魔力量が必要となるが、千単位万単位の人間から少しずつ魔力を分けてもらえば、この街の結界を維持する魔力を補うことは十分可能だ。



 街に結界を張るという目的を完了した秋雨は、次の目的地となる街へ向けて歩き出した。ところがしばらく歩いたところで、あることが頭を過り一度足を止める。



「……てか、俺ってなんでグリムファームを出て行くことになったんだっけ?」



 秋雨の一言は衝撃的なもので、自分がなぜ街を出ようとしていたのかその理由を理解していなかったのだ。



 街を出てすぐに伸びている街道の途中に一本の木が生えていたので、そこに背中を預けながら改めて状況の把握を秋雨は行った。



 まず彼が街を出る理由としては複数存在しており、地球とは異なるこの異世界がどうなっているのか見て回りたいという観光的な理由が一つだ。



 このまま一つの街に留まってそこで余生を過ごすというのも悪くはないが、せっかく転生したのにそれだけではなんだか勿体ないという気持ちを抱くのは自然的なものであり、秋雨がそう考えるのも妥当だといえる。



 もう一つの理由は、魔族に目を付けられてしまったということだ。そして、その魔族を結果的に取り逃がしてしまっている以上、今後魔族たちが自分の命を狙ってくるということは想像に難くない。



 であるからして、このままこの街に居続けることは魔族に居場所を知られた状態になってしまうため具合が悪いのである。



 そして、最後の理由としては秋雨がひた隠しにしてきた能力―――本人は隠し通せているつもり――を他の人間、特に権力者に勘付かれてしまったことだ。



 基本的に秋雨は、王侯貴族やある一定の権力を持った人物と深く関わることを毛嫌いしている。理由は至ってシンプルで、無理難題を吹っ掛けてくるからだ。



 難易度の高い依頼を出されることはまだマシな部類で、最悪の場合隷属魔法などの行動を制限する魔法を行使され、権力者たちの操り人形として生き地獄のような日々が待っている可能性もありえるのだ。



 そういった問題を遠ざけるため、秋雨はこの世界にやってきてからそういった類の人間との接触を極力抑えてきた。だが、それを完全に遮断することはできず、冒険者ギルドのギルドマスターと街を治める領主であるランバー伯爵とその妻キャメロに顔を覚えられてしまっていた。



 頼みの綱であった記憶の操作ができるメモリーエディターはすでにサファロデによって封印されてしまったため、彼らの記憶から秋雨の情報だけを消去することはもはや不可能となってしまったのである。



 よって、これ以上彼らとの接触を避けるためには他の街に拠点を移すのが最も効率的であると判断し、他の街に拠点を移すことを決めたのだった。



 以上の理由から秋雨が拠点としていた街を出て行くことになったのだが、その理由に本人がたどり着いたのは街を出て行ってからというなんとも珍妙な状況が作り出されていたのである。



「ま、まあ街を出て行く理由もわかったことだし、次の街に行こうじゃないか!」



 誰に向けて言っているのかわからないような言い訳を呟きつつ、秋雨は改めてその足を目的の街に向けたのであった。










 ――後日談 マーチャント・ランバー・キャメロ――




 秋雨がグリムファームを去ってから三日後、マーチャントは彼との約束を果たすべく領主邸を訪れていた。



 いくら商人として腕利きのマーチャントであっても、そう易々と領主に会うことはよほどの理由がなければ困難である。しかし、その理由が特別なものでない限りはという注釈が付くが……。



「マーチャント殿、それは本当なのか?」



 ランバーは、マーチャントがやってきた内容に目を見開いて驚愕した。普段の彼であれば、その突拍子もないような内容に不審な目を向けることになっていただろうが、その内容は彼にとって聞き流せるものではなかったのだ。



「はい、先日私の元にとある薬師が来られまして、この街の領主であるランバー伯爵が謎の病に罹っていることを症状も含めてお伝えしたところ、瞬く間にこちらの薬を作ってくださいました」



 そう言いながら、マーチャントは持参した鞄の中から五本の薬瓶を取り出す。その薬こそ、秋雨が街を出る前日に彼に渡していたイビル病に効く薬だった。



「この薬があれば、本当に夫の病気は治るのですね!?」


「はい、ただしこの薬を使用する際に守ってもらわなければならないことがありますが、それを守れば必ずランバー伯爵の病気は治るはずです」


「その条件とは?」



 マーチャントは秋雨から聞いた薬の使用法を伝え、彼が残した使用法が書かれた紙も彼らに手渡した。マーチャントからそれらを受け取った夫妻は彼に心からの感謝を告げた。



 後日、マーチャントからもたらされた薬によって、ランバー伯爵は病から完全復活を遂げた。改めてランバー伯爵とキャメロはマーチャントに感謝の言葉を述べ、その謝礼として多額の褒賞金を支払おうとしたが、彼はそれを頑なに受け取ることはなかった。



 そして、薬を作ったという謎の薬師のことについても夫妻は彼に問い質したが、マーチャントからその薬師についての詳細が語られることは一度もなかったのであった。



 さらに病が完治し体調がかつての健康な状態にまで戻ったランバー伯爵夫妻のもとを再び訪れたマーチャントは、彼らにとある薬を授けた。



 その数か月後、ランバー伯爵の妻キャメロが子供を身籠ったことが街全体に広まり、住人たちは盛大に祝いの宴を数日間に渡って開催したのであった。



 のちのマリエンベルク家の歴史の中でもこの話は有名となり、マリエンベルク家の人間はまず初めにこの話を聞かされるほどにまで大きな話となっていった。



 ランバー伯爵夫妻に秋雨が調合した【妊娠薬】を手渡した帰り道、誰にともなくマーチャントはいなくなったある人物に向けてこう呟いた。



「不治の病の薬だけでなく妊娠薬まで作れるとは……。アキサメ君、君は一体何者なんですか?」



 彼の呟きに答えてくれる人物はすでに街にはおらず、ただただ空しくマーチャントの声が響き渡るだけであった。










  ――後日談 ローズ・ベティー・レブロ――



「な、なにぃ!? すでにこの街にはいないだとぉー!!」



 外にまで聞こえるほどの大音声で叫びながら、机に拳を叩きつける男がいた。グリムファーム支部冒険者ギルドギルドマスター、レブロ・フローレンスその人である。



 彼がなぜここまで感情をむき出しにしているのかといえば、とある一人の少年が関係している。



 レブロが久しぶりに出会ったとてつもない才能を秘めていると感じた新米冒険者が、突如として行方を暗ましたのだ。



 そのあまりの剣幕に、報告のためレブロの部屋を訪れていた受付嬢ベティーと彼女の元で受付嬢見習いとして働いているピンクちゃんことローズが肩を竦ませる。



 元Aランク冒険者の眼光は凄まじく、荒事に慣れているはずのベティーや荒事に巻き込まれ慣れているローズもその圧力に押し黙ってしまっている。



 彼女たちが怯えていることに気付いたレブロが咳ばらいを一つ吐き出し、彼女たちに指示する。



「突然怒鳴ってすまなかった。報告ご苦労、仕事に戻ってくれ」


「は、はい」


「うぅ~、怖かったです~」



 レブロの指示に従い執務室から退出した二人を見送ると、彼はさっそく今後の事について思案する。



「とにかくだ。あれほどの実力を持っている小僧ならば、ギルドの目を盗んで隠れて活動することは難しいはずだ。今からこの国にある全てギルド支部に向けて手紙を書いて、奴の情報を共有したほうがいいか……。くそ、まさかこの俺が後手に回ってしまうとはな」



 自身の失態に顔を歪ませるが、すぐにその表情は狙った獲物を逃すまいという鋭い狩人の目に変わる。そして、これからのことを考えながら、レブロはその顔に醜悪な笑みを浮かべ、逃げた標的に宣言する。



「ふふふ、俺からは逃げられても、ギルドから逃げ切れると思うなよ。待っていろ小僧。ギルドを敵に回すとどうなるのか、この俺“飛翔のレブロ”が教えてやる!」



 後日、バルバド王国に点在する全てのギルドにとある人物の情報が出回る。最初は半信半疑に思っていたギルド関係者たちだったが、この情報がグリムファーム支部のギルドマスターであるレブロからもたらされたものであるということもあり、その情報は瞬く間にギルド関係者たちに浸透していくこととなる。



 かくして、レブロの思惑通り秋雨包囲網が着実に広まっていくのだが、そのことを当の本人である秋雨はまだ知らなかったのであった。彼がこのことを知るのは、もう少し先の話である。

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