第67話


 ――すた、すた、すた……。



 一歩、また一歩と魔族の男に歩を進める。それは男の死を告げるカウントダウンであるのだが、男はそのことに全くといって気が付いていない。



 自分が世界でも上位の存在である魔族という絶対の自信と、相手が数多の種族の中でも脆弱な人族だという油断が男の危機感を鈍らせていた。



 その間にも秋雨は躊躇うことなく男に近づいていき、とうとう自分の間合いまで接近することに成功する。



 そして、男と視線を交わすと、秋雨は改めて男に問い掛けた。



「本当に殴ってもいいのか?」


「構わないとも、魔族たるこの俺ヴァルヴァロスが脆弱な人間如きに負けるわけがない。遠慮せず全力で掛かってこい」


「わかった(今まで全力を出してなかったからな。この際だ100%の俺を知っておくのも悪くない)」



 不遜な態度で仁王立ちのまま秋雨の攻撃を今か今かと待つその姿は、まさに誇り高き魔族のそれであった。



 だがヴァルヴァロスにとって誤算だったのは、今目の前にいる少年がただの人間ではないということだろう。



 ヴァルヴァロスの了解を得た秋雨は、腰を落とし正拳突きの構えを取った。元の世界では武術経験がほとんどない彼であったが、こちらの世界へとやってきたことで強化された肉体と頭脳により、自分の力を100%相手に伝える最適な方法を理解していた。



「いくぞ」


「こい」



 ヴァルヴァロスの言葉を受け、秋雨は拳に力を込めていく。全身の力を拳に全て乗せるかのように力を蓄えていく。そして、全ての力を右手の拳に集約させるとその勢いのままに腕を突き出した。



「はあああああああ、100%、全力パンチ!!」


(う、こ、これはまずい)



 秋雨が突き出した拳が、体に直撃する寸前で、ヴァルヴァロスは気付いた。秋雨の放った拳が、自分に致命傷を与えうるほどの威力を持っているということに……。



 だが、時すでに遅く、ヴァルヴァロスがそのことに気付いた時には、秋雨の拳はヴァルヴァロスの体に直撃する寸前であった。であるからして、そのあとの結末は言うまでもなく……。



「こぼぁ」



 秋雨が放った拳の衝撃によって、ヴァルヴァロスはとてつもない勢いで吹き飛ばされていく。十、二十、三十メートルと、その飛距離は留まることを知らない。



 吹き飛ばされている間、ヴァルヴァロスは何とか体勢を立て直そうと試みるも、秋雨の放った拳のあまりの威力と衝撃に、森の木々をなぎ倒しながらさらに吹き飛ばされていく。



 そして、森から何もない草原まで飛ばされたヴァルヴァロスだったが、そこでようやく重力によって勢いが衰え、その体を地面に叩きつけられる。しかし、それでも勢いは止まることなく、水面に投げた小石のようにバウンドしながら連続で地面と激突する。



「ぎゃああああああああああ」



 ここでヴァルヴァロスが、断末魔の叫びのうような声を上げる。その理由を一言で言うのなら“ツイてない”である。



 秋雨の拳がヴァルヴァロスの体に直撃する直前、彼は瞬時に全身の魔力を秋雨の拳が直撃する箇所に集め、拳の威力を軽減させていたのだ。いくら魔族とはいえ秋雨の全力パンチを食らえばただでは済まず、その体に風穴が開いていたことだろう。



 だが、それはヴァルヴァロスにとって最悪の結果をもたらしてしまったのだ。秋雨の拳によって吹き飛んだヴァルヴァロスだったが、そのまま永遠に飛ばされ続けるということはなく、いずれば地面へと叩きつけられるはずであった。



 重力がヴァルヴァロスの勢いを殺し、草原に到着した時には地面に叩きつけられ始めたのだが、彼にとって不運だったのは着地地点だった。



 体の制御が戻り始めたヴァルヴァロスだったが、それでも上手く体勢を立て直せず最終的に彼のとある部位がとある場所へと着地してしまう。



 ヴァルヴァロスが最終的に止まった場所には、高さが七十センチほどの細長い岩があり、ちょうど道端に佇んでいるお地蔵さんくらいの大きさであった。



 もうおわかりだろうが、ヴァルヴァロスが最終的に着地したのがその岩であり、あろうことか着地した部位が彼の股間であったのだ。



 彼の種族は魔族であり、この世界で上位の存在であることはまず間違いない。だが、魔族とてこの世界の一種族でしかなく、その繁殖方法も他の種族と変わらず“行為”による繁殖だ。



 であるからして、当然男であるヴァルヴァロスの弱点部位は普通の人間の男とほとんど変わらない。そのうちの一つが股間であるということも。



 いくら頑強な体を持っている魔族といえど股間までは頑強とはいえず、その部分に衝撃が加わればただでは済まない。



 かくして、男であるヴァルヴァロスにとって最悪の結果となってしまったのだった。男であるが故に、その“付いているもの”が原因で地獄を見ることになってしまったという、まさに“付いているけどツイてない”である。



 ヴァルヴァロスが今も地面で股間を押さえながら悶絶している間も、ゆったりとした歩調でヴァルヴァロスのいる方へと秋雨は歩いていた。



 この世界へとやってきてから始めて全力を使ったことに対し、秋雨はいろいろと考えを巡らせていた。



(全力で殴った割には拳を痛めるとかはないみたいだな、無意識に加減でもしたのか?)



 人間には過度な力によって肉体などの機能が壊れてしまわないよう、ある一定の力を出そうとすると脳がそれをさせまいと制御が掛かってしまう。秋雨は全力を出したのにも関わらず、拳に何の影響も出ていないことに対する答えをそう導き出した。



 そんな他者にとってはどうでもいい下らないことを考えていると、いつの間にやらヴァルヴァロスのもとへとたどり着いていた。



 秋雨がヴァルヴァロスの姿を視認して最初に思ったことはといえば、なぜ彼が悶絶しているのかということであった。いくら自分の攻撃が強力であったとしても、あれだけ自信満々だったのだからダメージはあるにしたってこれくらいは耐えるだろうと秋雨は予想していたのだ。



 しかし、今目の前にいるヴァルヴァロスといえば、何か激痛に耐えるような見ていてなんだか切ないような感情が湧き上がってくる。



(あ、まさかそういうことなのか)



 一体これはどういうことなのかと考え始め、何気なく周囲を見渡してみると、ヴァルヴァロスの悶絶する傍らにお地蔵さんくらいの大きさの岩を発見する。



 その岩と今ヴァルヴァロスの置かれている状況から一つの答えにたどり着いた秋雨は、未だ激痛から解放されぬ相手に向かって自分の推測を投げ掛けてみた。



「股間を強打したのか?」


「~~~~~~!」


「な、なんか、すまん」



 秋雨の問い掛けに、屈辱と怒りの視線を向けるヴァルヴァロス。その視線で全てを察してしまった秋雨は、思わず謝罪の言葉を口にしていた。



 いくら敵対する相手とはいえ、男としてやってはならないことはままあるものだ。その一つが股間への強打であった。



 それからヴァルヴァロスが立ち直るのに約十分の時を要したが、その間秋雨は相手への情けなのか一切手を出さなかった。



「貴様、よくもやってくれたな!」


「いや、一発殴っていいって言ったのお前じゃん。俺が殴った後でこんなことになるなんて誰が予想できる?」


「ぐ、だ、黙れ!」



 秋雨のもっともな正論にぐぅの音も出ず、ただの悪態と知りながらもそう切り返すしかないことにヴァルヴァロスは顔を顰める。今彼の中にある感情は、目の前の人間によって与えられた屈辱を晴らすべく、如何にして惨たらしい死をくれてやるかということだけであった。



「今度はこちらの番だ。この俺にこれほどまでの恥辱と屈辱を与えたこと、後悔するがいい!」


「……」



 ヴァルヴァロスの激昂に、なにも言葉を発することなく、ただただ秋雨は視線を交わす。彼の態度に秋雨の頭の中には再びあの言葉が浮かんでいた。その言葉とは、そう“殴っていいって言ったのお前じゃん”と……。



 そんなことを秋雨が考えている今も、体内の魔力を高めヴァルヴァロスは一つの魔法を行使しようとしていた。その魔法とは――。



「髪の毛一本残らず、消し炭となれ! 【魔法高威力化マジックハイポテンシャル】、【灼熱の煉獄炎バーニングヘルフレイム】」



 高められた魔力によって放たれた魔法は、もはや常識の範囲を逸脱していた。ただでさえ高い魔力に、高位の強化魔法である【魔法高威力化】という魔法の威力を高める魔法が加わって、その威力は数千の軍隊を一撃で殲滅できるほどにまで高められていた。



 圧倒的な暴力と呼べるほどの力が、秋雨に迫りくる。それは秋雨に考えを巡らす時間を与えることなく、彼に襲い掛かった。

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