第56話



 グリムファームから東に数十kmに位置する都市、【コンマーク】との中間にある【ヴェルカノ】という街。その街の中心部に領主の屋敷がある。

 その屋敷の執務室に佇む人影がいた。バラム・ウォン・ローゼンハイム。ヴェルカノ近郊一帯を治める領主であり、ケイトを攫った賊の黒幕でもある。



「うむ、今回の奴隷共は質が高いようだな、我が輩は満足だ。ぶひ、ぶひひひひ」



 不摂生という言葉がお似合いとばかりに、丸々と太った体に加え、老化の証でもある白髪は頭頂部がすっかり寂しいことになっていた。

 見た目は既に人間をやめたのではないかというほどに醜悪の極みを尽くし、女性が見れば十人中十人が生理的に受け付けないと答えるほどの容姿をしている。



 性格は傍若無人で自己中心的であり、貴族という出自も相まって自分の思い通りにならない人間は誰であろうと許さないというまさに悪の権化のような男だ。

 そんな彼の傍に佇む眼鏡を掛けた痩せぎすの男が口を開く。



「前回のこともありましたので、その失態を取り戻そうとしたのでしょう。尤も、どうやらそれも無駄になってしまったようですが」



 そう言いながら、眼鏡を上げるとニヤリと歪んだ笑みを浮かべる。だが、その笑みが霞んでしまうほどにさらに醜悪な笑みを顔に浮かべたバラムが彼の言葉に返答する。



「ふん、あのような役立たず共は死んでくれて一向に構わん、寧ろこちらが手を下す手間が省けて助かったほどだ」


「まさにその通りにございます」



 バラムの言葉に男は恭しくお辞儀をすると、自分の主人に対し同意の言葉を口にする。

 二人がそんな会話をしていたその時、ノックもせずに入ってくる人物がいた。よく見ると、バラムの屋敷の警備担当をしている兵士の一人であった。



「無礼者! いきなり我が輩の部屋にノックもなしに入ってくるとは、何事か!?」


「も、申し訳ありません! しかし、急ぎ伝えたきことがございましたので、何卒ご容赦を!!」


「……ふん、まぁよい。それで、その急ぎの件とは何だ?」



 部下の不敬な態度に腹を立てたバラムであったが、質の良い奴隷を手に入れて舞い上がっていた彼は、その行いを不問とした。

 だが、その部下によってもたらされた情報に再び声を荒げることになってしまう。



「申し上げます。我が屋敷に何者かが侵入し、奴隷達が連れ去られました!」


「な、なんだとぉおおおおおおおおおおお!」



 突然のことに頭を掻きむしるバラム。それによりただでさえ少ない白髪が一本、また一本と抜け落ちていく。

 そして、タイミングを見計らう様に眼鏡の男が声を掛ける。



「詳しい状況を説明するのだ」


「はっ! 屋敷に侵入した賊は、そのまま奴隷が収容されている小屋に侵入し、そこにいた奴隷達と共に行方を暗ましました。こちらの被害は、屋敷の敷地内を巡回していた護衛と小屋を警備していた護衛合わせて九人です」


「そうですか……バラム様、いかがいたしま――」


「追えー! 何としても、奪われた奴隷共を奪い返すのだあああああああ!!」


「は、はっ!」



 バラムのあまりの剣幕に兵士も腰が引けたが、なんとか了解の意を示すと、脱兎の如くその場から立ち去って行った。

 自分の思い通りにならないことに対するイラ立ちを、部屋に設置された事務机にぶつけるバラム。そのイラ立ちの程度が大きい故か殴りつけた拳から血が滴り落ちている。



 側近の男は、彼のその姿を見てこれ以上ないほどに侮蔑の感情を募らせるが、それを表に出さない方が得策だと心得ているため、表面上は無表情を貫いていた。

 しかしながら、これ以上この場にいてはバラムの八つ当たりを受ける可能性があると判断した彼は、現場の様子を見てくると言ってその場を後にした。



 執務室を出てしばらく歩いたところで、顔を顰めながら彼は呟く。



「まったく、あれほど度し難い存在も希有なものだな。……そろそろ、潮時だな」



 そう呟きながら眼鏡を掛け直す仕草をすると、ニヤリと顔を歪ませる。

 男はバラムの元から去る算段を頭の中で考えながら、奴隷がいた小屋へと歩を進めて行った。







 時はバラムの屋敷から奴隷が連れ去られる少し前まで遡る。

 時刻は既に夕刻を過ぎ、夜の帳が下りた街はすっかりと闇夜に包まれていた。

 


 そんな折、ヴェルカノの領主が住まう屋敷の様子を窺う一つの影があった。

 全身黒の装束を身に纏っており、顔自体も黒の布で覆い隠しているため、どんな容姿かは窺い知れぬものの、鍛えられたしなやかな体つきと慎ましいながらも胸部を押し上げる膨らみは、その人物が女であることを窺わせる。



「……」



 一言も発することなく屋敷の様子を窺う姿は、何かを待ち構えており、布から出ている瞳の眼光はとても鋭いものであった。

 彼女がその場で様子を窺い始めて三十分が経過したその時、何の前触れもなく彼女が動いた。



 領主の屋敷とあって、夜になってもそれなりの警備体制を敷いているにもかかわらず彼女はいとも容易く屋敷の敷地内に潜入する。

 時折見かける巡回の護衛をやり過ごし、やむを得ぬ場合は意識を刈り取って気絶させていく。



 しばらく敷地内を足音も立てず疾走していた彼女だったが、目的の場所に到着したためその足を止めた。

 みすぼらしいという言葉が浮かんでくるほどにボロボロの小屋がそこにはあり、そこから十数人の人の気配が感じ取れる。



 そのほとんどが衰弱しているようで、感じ取れる気配は弱々しいものであったが、そこに人がいるということは確かだ。

 小屋の扉の前に立つ見張りの護衛が二人いたため、物陰に体を忍ばせた彼女はしばらく様子を窺う。



「ふぁー、それにしても奴隷小屋の護衛なんて暇でしょうがねぇな」


「仕方ねぇだろ、これでも高い金もらって雇われてる身だ、これくらいのことはしないとな」



 二人の護衛の会話を聞きながら様子を窺っていた彼女だったが、大した情報――途中から、小屋の中の女の奴隷に手を出す出さないで揉め始めたので、それに嫌気が差した――は得られなかったため、音もなく忍び寄り二人の意識を刈り取る。



 周囲に人の気配がないことを確認した彼女は、最小限小屋のドアを開くとその体を滑り込ませた。

 小屋の内部には、敷き詰められた藁があり、そこには奴隷たちが体を預けて眠っていた。



 部屋の隅には糞尿を処理するための壺が設置されたいて、そこから漂う強烈な臭いに彼女は顔を顰める。

 奴隷たちも満足に体を清めることもできないため、その体からもすえた臭いが漂っていて、何とも言えない悪臭が小屋の内部に充満していた。



 だが、そんなことを気にしている場合ではないため、気をしっかりと持って眠っている奴隷の一人に小声で語り掛けた。



「……起きろ」


「うぅん……はっ! だ、誰ですか!?」



 まだ幼さが残る少女の奴隷に話し掛けると、体をピクリと振るわせながらおずおずと誰何の声を上げる。それに気づいた他の奴隷たちも突然やって来た来訪者に怪訝な表情を浮かべている。



「お前たちを助けに来た。ここからすぐに脱出するぞ」


「え、ほ、本当ですか!?」



 助けに来たという彼女の言葉に、少女の目に希望の光が宿る。それは他の奴隷たちも同じだったが、その中の一人が声を上げた。



「そんなこと言ってあたしたちを騙す気なんだろ!? ここの貴族は意地が悪いことで有名だからね。一度希望をチラつかせて、絶望の底に叩き落とすような魂胆なんだろ!?」



 確かに奴隷の女性が言ったように、ここの領主であるバラムは悪質といっても過言ではないほどに最低な人間だということは前情報として聞いていた。

 だが、その言葉を押しつぶすように彼女は宣言した。



「わたしの言葉が信じられないのなら、ここに残って殺されるのを待ってればいい。それが嫌なら、わたしと一緒にここを脱出したほうが、まだ生き残る可能性は高いと思うんだが、どうする?」


「うっ……」



 彼女の言葉に奴隷たちは迷っていた。だが、ここにいてもいずれ領主の手によって殺されるだけだという結論に至った彼女たちに迷いはなかった。

 奴隷たちを引き連れ、邪魔な護衛たちを気絶させた彼女は、誰にも見つかることなく奴隷たちの救出に成功した。



 そこから少し離れた場所に待機させておいた馬車に奴隷たちを乗せると、そのまま夜の闇へと姿をくらました。

 それから三十分後に巡回していた護衛が異変に気付き、何者かの侵入があったこと、奴隷たちの姿が消えていることが領主の元へともたらされることとなった。



 ヴェルカノの都市を抜け出し、馬車を走らせていると、奴隷の一人が彼女に問いかける。



「あ、あの、助けていただいてありがとうございました。……それで、あなたは一体何者なのでしょうか?」


「ただのお節介な人間だ。それよりも今は体を休めておけ」


「は、はあ」



 その後、彼女の手によって奴隷たちは元の場所へと送り届けられ、この一件は落着した。

 だが、奴隷たちが屋敷を脱出したあと、新たな事件が巻き起ころうとしていた。

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