8.信じたいと願うことは

 用意されたお茶は誰も手をつけないまま、冷めていった。湯気も出なくなったお茶のカップに手を伸ばす。持ち上げようとした指先が震え、無作法にも音を立てた。ソーサーに触れたカップを思わず両手で包む。


 私が死んだ後、そんな大騒動になったなんて。ごくりと喉を鳴らし、緊張で渇いた喉へ冷えたお茶を流し込んだ。両手で持っていないと落としそう。揺れたカップは、歯に触れて乾いた音を立てる。誰も何も言わず、沈黙が部屋を包んだ。


 ソーサーに戻すと音がしそうだわ。カップを膝の上に両手で包む形で下ろす。その手を優しく包んだのは、兄シルヴェストルだった。膝を突いて私の前に跪いた兄は、そっとカップを受け取ってソーサーに戻す。残された手を両手で包んで額に押し当てた。


「どれだけ後悔したか、ティナを救えなかったことは一生の汚点だ」


「シル兄様?」


 あなたにとって、私は一族の恥ではないのですか? 淑女の鑑と呼ばれながら、微笑みひとつ浮かべられない。政略結婚なのに婚約者の心を捉えておけない。情けなく不甲斐ない妹で申し訳ないと……常々そう思っていました。


「愚かな父親ですまぬ。わしはお前の未来を奪ってしまった」


 お父様まで。お兄様が握った手の上から重ねられた温もりが、伝わる気がした。私はまだフォンテーヌ公爵家の……お父様の娘やお兄様の妹でいることが許されますか? 前回はまったくお役に立てず、今回も震えるだけの私です。声にしたいのに、喉が詰まり胸が張って何も言えません。


 形にならなかった感情が溢れて、頬を伝う。雫となった感情を受け止めるように、お兄様は頬に親愛のキスをくれました。お父様も切なそうなお顔で、額に口づけを。それは幼い頃に戻ったようで、お母様がまだ生きていた頃の思い出をなぞる行為でした。


 まだこの顔が仮面のように凍り付く前、穏やかな晴れの日のお茶会。お母様とお兄様の間でお菓子を頬張る私に、仕事で遅れたお父様が手を伸ばし抱き上げた。家族が全員揃っていて、私はただただ愛されて幸せを感じていた頃のこと。懐かしい。


「いま……?」


「笑った、のか? ティナ」


 驚いた顔をするお父様とお兄様の様子に、私は包まれた手を解いて頬に触れた。僅かに動く表情を指先で辿り、紅で飾った口角が持ち上がっているのを確認する。笑えたのですか? 人形姫と呼ばれ、感情がないと蔑まれた私が?


 再び頬を伝う涙を指先で拭う父は、目を潤ませて頷く。剣術の訓練でぶ厚い兄の手のひらが緩く結った金髪に乗せられた。


「何も心配いらない。ティナはわしとシルが守る。今度こそ、命懸けで守らせてくれ」


 お父様の言葉がじわりと胸に沁みて、震える唇を噛みながら頷いた。守ってください、そう言えたなら可愛いでしょうが。これが私の精一杯でした。


「安心していい。王家は近づけないし、俺と父上がティナを見捨てることはない」


 誓ってもいいぞ。わざと戯けた口調で追加したのは、私の表情が綻んだからだ。そう伝えられ、感情が凍りついた人形姫の雪解けも近いかも知れないと、心の中が擽ったくなる。


 いつからか思い込んでいた。愛されていない、お前は政略結婚の駒なのだと――でも違う。お父様とお兄様がそう言うなら、まだ信じきれなくても信じたいと思います。

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