第4話【聖女エリス視点】

 大賢者様――レオン様が額を床にこすりつけ、必死に嘆願する姿に開いた口が塞がりません。

 甘い妄想と現実の落差に脳が停止してしまったからです。

 言うまでもなく唖然とする私ですが、次の瞬間にはサァーと血の気が引いていました。

 レオン様が私に――私ごときに『土下座』をしていたからです。

『土下座』というのはレオン様独自の謝罪・依頼方法です。

 幼い頃からヤンチャだったレベッカ(現剣聖)が暴れ、周囲に被害が及んだとき、大賢者様は迷惑をかけた方一人一人にこうして謝罪の意を伝えておりました。

 レオン様の偉大さは私たちが一番近いところで目にしてきました。

 僭越ながらこの孤児院の孤児であり、娘であり、弟子である私たちが最もよく存じ上げていると自負しています。

 そんなお方にあろうことか膝をつかせ、頭を下げさせる。

 私は一体どれだけ恐れ多いことをやらかしてしまったのでしょう。

 失態に後悔と絶望を覚えるなか、さきほどの邪な考えが恥ずかしくなりました。

 なにが私たちの躰が目的、でしょうか。

 レオン様が一度だって見返りを求めたことがあったでしょうか。

 第一期生の巣立ち祝いの場でさえ、屈託のない笑顔で一人一人激励の言葉を送ってくださったというのに。

 それを深夜に招かれたからといって一人で勝手に舞い上がり、いよいよ求められるだなんて……恥を知りなさい聖女エリス! これでは性女ではないですか!

『覆水盆に返らず』

 これはレオン様のお言葉です。決して自分の失態を棚に上げるつもりはありませんが、やってしまったものは仕方がありません。

 それよりも私ごときに頭を下げ続けている現状こそなんとかしなければいけません。

 私はすぐにレオン様の傍にかけより、身体を起こしてもらうよう声をかけます。

「れっ、れれれレオン様⁉︎ おやめください!」

「いいや、やめない! 寄付を――寄付をしてくれるまでずっとこのままでいる!」

「……寄付、ですか?」

 レオン様の言葉に首を傾げる私。

 神セブンの中には大商人のシオン、発明家兼錬金術師のクウ、ベストセラー作家のスピアがいます。

 経済そっち方面には疎いですが、それなりに稼いでいることは私でもわかります。

 言うまでもなく現在の私たちがあるのはレオン様のおかげです。

 稼いだお金は彼に収めて欲しい。使って欲しいと皆考えていることでしょう。

 寄付などという形を取らなくとも十分に孤児院を経営していける資金が懐に――。

 と考えたところでふと思い出しました。

 巣立ちを祝う場でレオン様は神セブンたちに餞別だ、と口にしながらそれぞれにプレゼントを贈っていたことに。

 手渡されたそれはおそらく全員肌身離さず生涯大切にすることでしょう。

 私もレオン様からのそれに天に召すほどの喜びを覚えたほどです。

「まさか――彼女たちがこれまで稼いだお金を取っておいたのですかレオン様⁉︎ それを全員に返したから無一文になったと。そういうことですか」

「そうだ」

 その言葉を聞いた瞬間、私は再び猛省しました。そうだ。そうだったと。この方はそういう殿方だったじゃないですか。

 太陽のように温かい愛情を注ぎ、ひまわりのように明るい笑顔で私たちの成長を見守り、ときには厳しく叱ってくれる。

 己のことなど二の次。常に私たちの成長を第一に考えてくださった。

「……どうして、どうしてお金を返したのですか? みなレオン様に感謝申し上げております。懐に入れてくださっても誰も文句は――」

「――みんなが稼いでくれた大切なお金だ。労働の、労力の、才能の対価だ。。ましてや自分で言うのもなんだが彼女たちは自慢の弟子。天才だ。これから唯一無二の才覚を発揮するためには何かと入り用になるだろう。私はいっときの欲望で彼女たちの才能を潰すようなことはしたくないのだ」

 固くまぶたを閉じ、真剣な声音で告げるレオン様。

 彼の口から一言一言言葉が出るたびにドクンと温かい――多幸感が湧いてきます。

 ああ、この人の子を生みたい。孕みたいと子宮が疼くのを抑えられません。

 もしもレオン様にほんの少しでも私はここで押し倒し、半ば強引に押し迫っていたことでしょう。

 僭越ながら次代に引き継ぐべき種を受けとめるつもりでした。

 ですが、ここまで無欲で、紳士で――なによりこれからの孤児院のことを懸命にお考えになられ、たとえ娘であり弟子という、本来敬ってもらう相手にこうして頭を下げ、誠意を示す姿に感銘を覚えます。

 一体どうしてここで私が理性を取っ払い欲情をぶつけることができましょうか。

 それはレオン様――神に対する冒涜です。

 レオン様お一人ならきっと十代、いいえ百代は遊んで暮らせる大金を稼ぐことなど造作もないこと。

 それを私たち孤児のために――性奴隷としての道しか残されていないような女の子たちにそれ以外の道を歩んでもらうためにその才覚を孤児院運営などに……。

 正直に告白すればそれは実にもったいことだと思います。

 レオン様ならこの世をもっと楽しく、明るく、幸せなものにしてくれることでしょう。

 それを孤児院運営なんかに潰して――いえ、彼に育てていただいた私が大変烏滸がましいことを抱いているわけですが、それでもやはりもったいないと思わずにはいられません。

 レオン様の叡智は私たちの延長線上にあるものでなく、到底理解しきれないものですが、きっと世を良くするというその役割は弟子である孤児院から巣立った私たちに託したいということなのでしょう。

 それも慰み者になるしかない――無能で、無知で、厚顔で、この世界に失望と絶望しか抱いてこなかった幼い女の子に別の選択肢を与えることで。

 きっと寄付という形を取ろうとしているのはレオン様がいなくなったあとも無限の樹形図と感謝を広げていくためでしょう。

 巣立った孤児たちがお世話になった孤児院に寄付をする。またそこを巣立った孤児が先輩の意志と歴史を尊重し、次代のために寄付を寄せる。

 ああ、なんて素晴らしいことでしょう。

 本当にこの人が――大好きです。愛しています。神セブンのみなさんも同じ想いでしょうが、私が一番レオン様をお慕えしていると確信しました。

 だからこそ私は彼が求めているであろう言葉を、決断を口にしました。

「顔を上げてくださいレオン様。明日巣立つことにはなりますが、私たちは貴方とこの孤児院から受けた恩を忘れることは一生ありません。幸いにも私たちが立ち上げたエリス教にはこれまで法医術の恩恵を受けられなかった一般階級の方々から寄付をいただいてます。それをどうかこの孤児院運営のために使ってください」

「……エリス!!!!」

 ようやく顔を上げてくだったレオン様は目には涙が、鼻からは鼻水が。

 そんな表情で見つめないでください。愛おしくなって抱きしめたくなるじゃないですか。

 そんな下心など知るよしもないレオン様は突然私の両手をぎゅっと握ります。

「ふぇっ⁉︎」

 身に余る光栄におもわず素っ頓狂な声が漏れてしまいます。

 あっ、あわあわわわ……! れっ、れれれレオン様のお手が……お手が私を握って……いっ、いけません。

 これ以上握られてしまったら、この手はもう二度と洗えなくなってしまいます。

 レオン様がこれからの孤児院運営――慈悲のことしか考えておられないのに、こうして嬉しくなってしまうのはきっと私がはしたない女だからでしょう。

 突然の幸運のあまり、ニヤけてしまいそうな表情を必死に堪えて、レオン様の手の感触を味わうように――違います。

 ああ、この手でエリスの躰をまさぐられたら――あの、本能さん。どこかに行ってもらえますか。理性さんも全然機能していませんよ。

 いくら愛している殿方から両手を握ってもらっているからって時と場合を考えなさい!

 ……ああ、すごい綺麗な手。浮かび上がった血管がとても魅力的で、ゴツゴツした感触が気持ちいい――いや、だから発情しないで私!

 不謹慎な女だと、はしたない女だと思われないように何か言わなければ。

 願わくばレオン様の好感度が上がるような、そんな一言を――!

「こっ、ここ孤児院のことを大切に想っているのは私だけじゃありません。神セブンの娘たち全員の総意です。その、厚がましいことは承知してますが……他の皆さんにも寄付をしてもらうよう私の方からお願いしてみましょうか?」

「……本当か⁉︎ ありがとう! 本当にありがとう!!!! 私はエリスのような可愛い天使を弟子に持てて本当に幸せだ! 私でできることならなんでもする」

 そう言って私の手を離し(ああ、レオン様のお手が……しょぼん)、抱き着いてきました。

 えっ、だっ、だだだ抱き着いて――⁉︎

 ふええええええええええっ――⁉︎

 思わず喉を突いて出てしまいそうになる声を抑えられたことは素直に褒めてあげたいです。

 レオン様の体温が、心臓の拍動が、ちょっぴり汗くさい匂いが私を包み込みます。

 この幸運を、多幸感をしっかり味わなくては。

 そんな欲望が湧いてきた次の瞬間にはもう私の記憶はありませんでした。

 我が生涯に一片の悔いなし!

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