四日目「仕事、はじめる?」
2021年7月8日午前7時、喫茶『ガロ・ジュニア・スペシャル』。今日は朝食を純喫茶でいただいた。ブラジル産のコーヒーとフレンチトーストが名物である。大正ロマンを体現した外観と同様に、内観も本当に素晴らしい。アンティークの家具が実に良い塩梅で、私的文化遺産に登録したいほどだ。
「ここ、最高だな。クーラーも大事に使われているし、ライトも当時モノ」
純喫茶が好きな夫は、マスターに許可をもらって店内をしきりに撮影していた。待ち時間の楽しみ方は、やはり本職のカメラマンだと実感させられる。
「マスター、めちゃくちゃ美味しいですね」
「ありがとうございます」
フレンチトーストは甘さの加減が最高だったし、コーヒーは香りがこれまで飲んだものの中で一番といっていいほど素晴らしかった。こういう店、やっぱり良いもんだな。
私達は「長居したい」という衝動に駆られながらも、次のお客さんを待たせたくはなかったため、足早に退店した。何度でも訪れたくなる、最高の喫茶店だった。
朝食を終えると、私たちは帰宅途中で雑貨屋へ寄った。昨日、夫が困り果てていた食器類を調達するためだ。今回調達するのは必要最小限で、3食分の食器とカトラリーを揃えた。新居はあまり収納が充実していないし、ひょっとしたらすぐに引っ越すかもしれない。
私がレジへ向かおうとすると、夫はこちらにアイスクリーム用のスプーンを持ってやって来た。
「これ、買っていい?」
「ダメ。どうせ高いでしょ」
夫はしゅんとして返却した。2千円の代物である。簡単に許容できない。私たちは店を出るとあまりの暑さに慄きつつも、足早に帰宅した。
帰宅後、私は買ってきた食器類を収納に放り込んだ。あまり立派な収納は要らないが、ここまで簡素だと困ってしまう。「夫のおねだりを聞かなくて良かった」と心から思った。
一通りの家事を済ませ、ソファに腰をかけて二人でお茶を飲む。この時間は毎度最高だ。人間してる、という実感がする。夫は慣れない関西で仕事を得るため、SNSの運用を活発化させていた。昨年月賦で購入したライカは良き相棒となっているようだ。
「今月の生活は何とかなりそうだな」
パソコンを覗くと、待ち受けに夜明け前の東京が映っていた。雨上がりで、ちょっとした水滴が異様に美しい。いつ撮ったのだろうか。
「彩音は仕事見つかった?」
「定職はまだ」
私がこう口にすると、夫の表情が少し暗くなる。だが、私にアテはあった。夫には話していなかったが、これから本当の新生活が始まる。
「明日、ヒマワリ公園へ一緒に行ってほしいんだ」
この言葉で、夫の表情は一気に和らいだ。言葉にはしないが、何となく察しが付いたらしい。来月より、フリーランスの音楽家として活動する。山城さんの紹介で、これから一ヶ月の予定が埋まった。
夜、夫とビールを飲む。私は新生活が落ち着いたら飲むために、東京の地ビールをスーツケースに忍ばせていた。
「改めて、新生活を始めよっか」
「こちらこそ。頑張ってね」
夫は私の手を握った。手は柔らかく、ぬくもりに満ちていた。久々のビールは、ようやく私たちの引っ越しがひと段落したご褒美。美味しいんだなあ、これが。高価なだけあって。
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