第15話 200分間の敗北(3/3)

『デグナー首相。

 我がアメリカ合衆国は貴国ドイツ連邦に対して、国家戦略人工知能主義への賛同を求め、さらに国家戦略人工知能システムへの『接続権』と『利用権』を提供いたします』

「接続と使用の権利……」

『ええ。これはとてもシンプルなことです。

 我がアメリカ合衆国で現在、稼働している国家戦略人工知能システムに、欧州連合のネットワークを全面的に接続していただきます。

 そして実際に国家戦略人工知能システムを使っていただきます。行政、企業、さらには一般市民にまで。その素晴らしさを実際に体験してほしいのです』

「どういうことだ……どういうことなんだ、それだけか?

 賠償金は? 権益は? 領土割譲は? 軍隊の駐留は!? 他にも条件はあるだろう!」

『いえ、何も。

 強いて言えば、システムの使用に必要なリソース━━古典的な言い方をすれば、CPUやメモリですが━━それらはあなた方のコンピューター上にあるものを使用いたします。

 電気代だけ負担いただく、とお考えください』

「………………!!」


 恋人をからかうように、ハイ・ハヴ・毘沙門天クベーラはウインクして人差し指を口元へ当てて見せた。

 その瞬間、デグナー首相の背筋を熱い電撃が走り抜け、下腹部に一撃を加えた。


(そうか……くそっ、おのれ……そうか! このアバターは……そういうことなのか!)


 これは『性癖』なのだと彼は理解した。

 一体、どのように調べたのか分からないが、この人工知能は自分の性癖に直撃する姿と声と、そして表情をもって交渉に臨んでいるのだ。


(忌々しい……なんたる悪辣なまやかしか!)


 だが、デグナー首相の心はすでに一度防壁を突破されてしまっている。

 心地よい。あまりにも気持ちいい。彼と話しているだけで脳髄までとろけそうになる。

 55歳を超えてからすっかりご無沙汰だった、我が股間のビスマルク級戦艦38cm砲まで、今にも最大仰角へそそり立ちそうになる。


 この直接的な快楽にあらがうのは、たとえドイツ国民8000万を背負っているとしても大変な困難を伴う。


(ああ……だが! だが、私の決断に多くの人々の命がかかっていることも事実なのだ……!)


 ここで要求を突っぱねれば、アメリカ軍はさらなる破壊を繰り広げることができる。

 その点について疑いはない。


(一体、何人が犠牲になることか……どれほどの損害が出ることか!)


 行政組織はおろか軍すらまともに連絡がとれないところからして、反撃がほとんど不可能だということは確信できた。

 つまり、オーデル・ナイセ線は突破された後なのだ。確かに戦争は始まり、そして今やベルリンで最後の市街戦が繰り広げられている状態なのだ。


 ただただアメリカの謀略によって。あるいは、気遣いによって。

 もしくは、彼らの言うところ人道主義と国家戦略人工知能主義によって。


 人命を最大限に尊重した攻撃になっているだけなのだ。


(むしろ今……ネットワークが止まり、通信も出来ない今のうちに私が決断して、すべてを整えてしまえば……あるいは……私は……)


 迫り来る大破壊から交渉によってドイツを守った、大いなる防御の名手という称号すら得ることができるのではないか、と。

 デグナー首相がその可能性に行き着いたまさにそのときだった。


『ええそうです、デグナー首相。

 すでにアルダナ大佐がお伝えした通り、『戦争状態にあった』という事実すらも残さず消し去ることが可能なのです。

 そして、我々アメリカも……戦勝国として振る舞うつもりはいささかもありません。

 今や大陸間封鎖インターコンチネンタル・ロックダウンが発動され、欧州とアメリカの通信も絶たれています。

 事が露見する心配など、何一つないのです。

 あなたは2度とこのようなインフラ障害を引き起こさないために、アメリカの国家戦略人工知能システムを全面的に利用する決断をしたのです。

 そうです……あなたは果敢な決断を下した英雄となるのです』


 ハイ・ハヴ・毘沙門天クベーラは、まるで朝のベッドで優しく抱き留めるような声でそう言った。

 デグナー首相の膝から力が抜けそうになる。激しく首をふり、顔を両手で覆う。


 顔は赤く、息が荒い。

 だが、それは体調不良を表すものではなく、激しい行為の時のものだった。


(ふっ━━)


 アルダナ大佐はともすれば侮蔑の形へ緩みそうになる口元を引き締めながら、ドイツの最高権力者とは思えない変態性癖の男を見つめている。


(ドイツ首相のプライベートを探れと言われた時は、何の取引に使うのかと思ったが)


 デグナー首相の個人的事情はさすがに分厚い機密のガードに阻まれており『ハイ・ハヴ』の能力を持っても掴みかねていたが、そこで浮上したのが古式ゆかしきヒューミントによる調査であった。


 現代では敵性国家に対して威力を発揮しにくい人的諜報も、友好国相手であれば劇的な効果がある。

 アルダナ大佐は半年以上の時間と多数の機密費を費やして、デグナー首相が持つ『性癖』を突きとめた。彼が議員として無名だった時代から、足繁く通っていた『特定の男性向け』クラブの存在にすら、辿り着いていたのである。


 冷戦時代ならば、これはアメリカあるいはNATOの意思を西ドイツに強要するために使われたかもしれない。

 いわゆる脅しのネタだ。


(だが、これが国家戦略人工知能システム相手になると、まったく違う……)


 交渉相手が『性癖』そのものになって話しかけてくるのである。

 これは脅迫より遙かに恐ろしい。わざわざハニートラップにかける必要もなくなってしまう。


 しかもデグナー首相が感じるところでは━━実際、アメリカはそうなのだが━━悪意がまったくないのだ。


 ただただ、自分たちが奉じる主義思想に賛同し、そして国家戦略人工知能システムを使ってみてくれと言っているだけなのである。


『もちろん、我々の国家戦略人工知能システムがドイツ国民のお気に召さなかったのならば、拒絶もあなた方の選択肢です。

 すべてを選ぶ権利があなたには与えられているのです、デグナー首相。

 あなたは自由なのです』

「おお……おお……おおお……!!

 毘沙門天クベーラ……私のマイン毘沙門天クベーラよ……!」


 柔らかな陽光が漏れるカーテンを背に、モーニングコーヒーを手にした時のようにハイ・ハヴ・毘沙門天クベーラはそう言った。


 デグナー首相の表情は今や陶酔のそれだった。

 齢60を超えるれっきとした老人である。だが、男の欲望とはそう簡単に枯れるものではない。

 そして年を重ねればこそ終わりに近づけばこそ、その質は色濃くなり、決して引き返せないほど奥深いものとなっていくのだ。


『いかがですか、ドイツ連邦首相デグナー・フォン・リーベルッヒ。

 我々の手を取っていただけませんか』

私のマイン毘沙門天クベーラ……私は……ああ、私は……!」


 焦がれるように、許しを請うように。

 あくまでディスプレイで手を差し出しているだけのハイ・ハヴ・毘沙門天クベーラに対して、デグナー首相はそのリアルな右手と醜悪な舌を伸ばしていた。


 時にドイツ時間で2035年9月5日午後9時00分。

 すなわち『人工知能戦争』と呼ばれる戦いの開戦から、わずか3時間20分後のこと。


 ドイツ連邦共和国は停戦に同意した。

 欧州連合2巨頭━━その東の翼はバラのごとく羽を散らす。

 程なくして、フランスをはじめとした各国も続いた。


 公式の発表では『巨大インフラシステム障害とそれに伴う事故』と報告された200分間の敗北によって、彼ら欧州連合は国家戦略人工知能システムへの『接続』と『使用』を恐る恐る試していくことになる。

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