サイモン・シン『数学者たちの楽園―「ザ・シンプソンズ」を作った天才たち―』

 サイモン・シンは2004年に"Big Bung"(邦題『ビッグバン宇宙論』、文庫版『宇宙創成』)を発表した後、2008年にエツァート・エルンストとの共著で"Trick or Treatment? : Alternative Medicine on Trial"(『代替医療のトリック』、文庫版『代替医療解剖』)を発表。

 "The Simpons and Their Mathematical Secrets"は2013年に発表された。


 この経緯については巻末の謝辞にて軽く説明がある。もともとサイモン・シンは『宇宙創成』の次に『シンプソンズ』をテーマにした本を書くつもりだった。しかし2005年当時、イギリスではホメオパシーやカイロプラクティクなどが怪しい主張を繰り返していたようで、それを放ってはおけないということで『代替医療解剖』を書くことになったそうである。

 この件でサイモン・シンは英国カイロプラクティック協会に名誉毀損で訴えられ、さらには名誉毀損法改革キャンペーンに巻き込まれることになった。

『数学者たちの楽園』の発表が遅れたのは、そうしたごたごたがあったためのようである。


 そういえば2005年頃、イギリスの名誉毀損法が訴えた者勝ちみたない酷い法律で問題になっていると小耳に挟んだことはあった。あれにサイモン・シンが関わっていたことは知らなかったが。



『代替医療解剖』後、サイモン・シンが何を書いているのか、日本ではあまり情報が入ってこなかった。wikipediaのサイモン・シンの項目に『数学者たちの楽園』が追加されたのは、私が記憶している限りではつい最近、2022年になってからである。あまりにタイムリーだったので、私がサイモン・シンの著者について雑記を書いたのを見た人が追記したんじゃないかと思ってしまうほどだった。10人も見てない雑記にそんな影響力がある可能性はかなり低いが。


 wikiへの記載が遅れた実際の理由は、日本では『ザ・シンプソンズ』が有名ではないからだろう。

『ザ・シンプソンズ』は、名前くらいは知っている人が多いと思うが、日本では観る機会がほとんどない。私もほとんど観たことがない。興味はあるが、いまさら観ようとすると膨大な数のエピソードを一気見することになり、考えるだけで億劫になる。



『ザ・シンプソンズ』は基本的には下品なギャグアニメだが、結構きわどい社会問題や時事問題を扱い、実在の人物を登場させて皮肉ったりする。そもそも、主人公のホーマーが原発勤めでアホだというところからしてすでにヤバい。

 また、高度な科学や数学ネタが仕込まれていることでも有名。

 本作ではその、数学ネタをクローズアップして取り上げているわけだが、サイモン・シンは冒頭でこう書いている。


「しかしこれらの哲学者、心理学者、神学者、政治家たちはみな、世界中で愛されているこのテレビアニメ・シリーズに隠された、一番重要なものを見逃していた」


 それは数学ネタだ、というわけだが、この著作が書かれた当時は、数学ネタが隠されていることは知られていなかったのだろうか。私はリアルタイムで観ていないし、そもそもほとんど観ておらず、『ザ・シンプソンズ』にこういうネタがあった、といった感じで取り上げられた回をちょくちょく拾い観していただけだから、この辺のことはよくわからない。

 しかし、主要キャラのリサは数学が得意で、やたらと高度な数学を駆使することから、脚本家に数学者がいることは容易に推測できるし、となると、作品に登場する数式や数字には意味があるんだろうな、くらいは予測できそうなものだが。


 何でだったかは忘れたが、私は『ザ・シンプソンズ』で使われた数学・科学ネタに関する解説をしている番組か何かを観た記憶がある。あれがいつのことだったかは忘れたが、あの番組はサイモン・シンの著書が影響で組まれたのか、それとも関係ないのかは定かではない。たぶん2010年前半から中盤あたりだったから、この著書の発表年に近いのは確か。



 この著書は、サイモン・シンの著作にしては数式が多めで、専門的な数学の話も多い。そのため、彼の著作に特徴的な「専門的な話をわかりやすく書く」という点は控えめ。ちょくちょく読者が置き去りになりそうな章がある。

 また、『フェルマーの最終定理』で書かれていたエピソードがいくつか繰り返されている。


『ザ・シンプソンズ』をあまり観ていない人からすれば、この本を読む価値はあるのか? となるわけだが、それでもちょくちょく面白いエピソードはあるし、興味深い話もある。

 内容も『ザ・シンプソンズ』べったりというわけではなく、『ザ・シンプソンズ』のエピソードをきっかけにした数学雑談エッセイみたいなところがある。今までのように、数学や天文学の歴史を綴るような一貫性はないので散漫な印象は受けるが、各章ごとに気軽に読めると見ることもできるだろう。



 そもそも、数学の学位を持つ人達がギャグアニメを作るというところが面白い。

 一般的に理数系の人は冷たいとか、人間の感情を理解しないと言われがちだが、海外では理数系の学位を持つ人が小説を書くことも珍しくない。特にSF小説は本職の学者が書いていることも多い。

 なので、数学者がギャグアニメを作ることは不思議ではないが、その専門知識を中核となるストーリーや設定に活かすのではなく(もちろんそれがテーマになっている回はある)、一瞬だけ出てくる数字を何にするかを決めるために高度な議論を繰り広げるところに面白味がある。


 こういう、焦点やフレームの端にお遊びを仕込む手法は、小説では採りにくい。小説でこういうのをやると不自然になって目立ちやすい。本当はほとんどの人には書かれていることすら気づかれずにスルーしてもらい、わかる人にだけ気づいてほしいのだが、がっつり読まれた上で「意味わからん。つまらん」と思われがちなのである。漫画やアニメ、ゲームなどでこうした小ネタを挟んでいるのを見ると羨ましいと思ったりする。



 以下は、私が本書を読んで気になった点について、ざっと挙げていく。



 文庫版59ページによると、インディアナ州では1897年に、法律で円周率πの値を決めようとしたことがあったらしい。

 エドウィン・グッドウィンという医者はπ=3.2と計算して、インディアナ州の学校はπ=3.2を無料で使うことができるが、他州がこれを使うには使用料を払う必要があるという法案を提出した。

 この法案には数学の専門用語がめちゃくちゃ使われており、政治家達は意味が理解できず、法案はいろんなところにたらい回しにされ、そうこうするうちに法案は下院を通過してしまった。

 そんな折、たまたま上院にC・A・ウォルドというバデュー大学の数学部長が訪れ、法案に目を通してそのヤバさに気づいたことで、この法案の審議は無期限に延期となったそうである。

 それはつまり、何か間違ったことが起こると、この法案が上院で通過してしまい、インディアナ州ではπ=3.2になる可能性がある、ということである。


 πの値を法案で決めて使用料を取るというのもめちゃくちゃだが、その値が雑なのもおかしい。どうせ雑ならπ=3の方がマシな気がする。


 しかし、これは他人事ではない。日本でも2002年に、小学校でπ=3と教えることに決まったという情報が流れて大問題になったことがある。

 これには誤解があって、π=3.14と教えることは変わらないが、便宜上π=3で計算する箇所があっても構わない、という程度の緩和措置だった。



 第三章「ホーマーの最終定理」では、S10E2「エバーグリーン・テラスの魔法使い」で、ホーマーが黒板に書いた数式にイタズラが仕込まれていた件について触れている。


 3987^12+4365^12=4472^12


 これはよく見るとフェルマーの最終定理である。そしてこれを電卓で計算すると、この式は成り立っているように見える。

 この回が放送された当時、すでにワイルズがフェルマーの最終定理を証明していた。つまりこの等式は成り立たないはずである。

 どうなってるんだ? と一部で話題になったらしいが、これはわざわざ脚本家が計算して「できるだけぎりぎりフェルマーの方程式が成立しているように見える式」を作り出したらしい。


 科学者や数学者が登場するドラマで、黒板の数式をリアルに見せるためにアドバイザーとして専門家を雇うことは、海外のドラマではよくある。

 しかしこの場合、アニメにとっては黒板に高度な数式を書く必要はない。むしろ、一般人でもわかる簡単な数式にしたほうがウケはいいだろう。4桁の数字の12乗の式なんてわざわざ計算する視聴者などそうはいない。

 これは脚本家自身が隙あらば数学ネタを入れようとしているわけである。



 第四章「数学的ユーモア」によると、数学系でない脚本家が提案するギャグは、インスピレーションが湧いた時点で完成されていることが多いのに対し、数学系の脚本家のギャグは、提案された時点では未完成で、脚本家チームのミーティングによって完成するのだとか。


『フェルマーの最終定理』でも、数学者は自分の研究をオープンにして、同僚と話し合うのが一般的であることが紹介されている。ワイルズはフェルマーの最終定理を証明する研究を何年も隠していたが、これは数学では珍しいことだそうである。

 しかし、一般的にはワイルズの態度のほうが普通である。脚本にしても普通は一人で全部書き、買い取られた後に監督や演出が手入れする。


 しかし、『ザ・シンプソンズ』では、脚本家にあまりにも数学者が多いために、脚本の作り方まで数学者的なようである。


『ザ・シンプソンズ』の脚本家の一人であるコーエンは、数学の証明と脚本作りは似ていると語っている。

「数学的な証明のプロセスは、コメディーの脚本を書くプロセスと似たところがある。目的地にたどり着けるという保証がないところも似ているね。(中略)どちらの場合にも――ジョークを探しているときも、定理を証明しようとしているときも――それが自分の時間を注ぎ込んでやるのに値することなのかどうかを教えてくれるのは、直感なんだ」(92ページ)


 また、同じく脚本家のジーンは、アニメとドラマの違いについてこう語る。

「実写ドラマは実験科学に似ている。役者たちは、それぞれの考えに沿って演技する。そうやって撮影されたシーンをつなげて、どうにか作品にするしかないんだ。一方、アニメは純粋数学に似ている。あるセリフにどんなニュアンスを含めるか、セリフ回しをどうするかまで、徹底的にコントロールできる。あらゆることがコントロール可能だ。アニメは数学者の宇宙なんだ」(96ページ)


 この考えは面白い。日本が実写よりもアニメを得意としてる理由にも繋がる話のような気がする。日本人は細部まで手入れされ尽くした日本庭園を「自然」と捉える感性が根付いている。現実を観察するよりも、理想を追求するのを得意としているようなのである。

 子供のお絵かきでも、日本の子供はうさぎやくまなどをかわいらしいキャラクターとして描く傾向があるが、欧米だとリアル寄りの動物を描く。

 このことは「だから日本はダメだ」という文脈でよく使われる。確かにこのことは現実を直視できないという欠点にはなるが、一方で抽象化、モデル化が得意だと見ることもできる。


 それはキャラクターデザインやメカニックデザインなどにも影響している。海外のアニメはなぜだかダサいデザインにしたがるが、それは観察力があるが故に、常識が邪魔をして理想化を追求できないからだろう。常識に引っ張られて思い切った美化ができないわけである。


 ビデオゲームでもこの傾向はある。海外のゲームは、まずはリアルな箱庭を作って、そこで物語を展開させようとする。そのために箱庭での行動の自由度が高く、無理やり崖を上ってショートカットできたりするが、その代わり岩に嵌ったり、キャラクターが予想外の挙動をして虚空へとぶっ飛んで行っていなくなったりなど、変なバグが多い。

 一方、日本のゲームは、ストーリーに内容に合わせて箱庭を作る。スタート地点はここで、次にこの地域に行って、ラストダンジョンはここで、といった作り方をする。全てが制御されており、制作者が意図しないショートカットなどはまずできない。必ず制作者が意図した通りに進むことになる。その代わり、岩の間に挟まって動けなくなるなどのバグは圧倒的に少ない。


 日本の数学者がちょくちょく大きい貢献をしているのも、そういうところから来るのかもしれない。日本人は自然科学よりも数学向きの感性なのかもしれない。


 しかし面白いのは、現実世界のメカになると日本のほうが海外よりも現実を直視すること。

 欧州の車はカッコよく内容も豪華でハイスペックだが無駄に高価で壊れやすい。日本車はダサいし内装は安っぽいプラスチックだし地味なスペックだが安価で壊れにくい。日本国内では「壊れやすい」「トラブルが多い」と評判の車でも、欧州基準だと相当マシな部類になる。


 筆記具なんかも同じで、海外の筆記具は見た目はいいけど無駄に高いし中身は酷い。日本にいながら海外の文房具を褒めて日本の文房具を貶す奴は何もわかっていない。



 第六章「リサ・シンプソン、統計と打撃の女王」では、セイバーメトリクスに関してそこそこ詳しい概要が書かれている。

 セイバーメトリクスは『マネーボール』で有名になったが、統計で選手を評価するというのが冷たい印象を与え、批判的に扱う作品も多い。


 私が記憶しているものだと、アメリカのドラマ『ナンバーズ』のS1E11でセイバーメトリクスが扱われていたが、やはりネガティブな話だった。

 確認が取れないので間違っているかもしれないが、確か、ある博士がセイバーメトリクスを使ってどの地域に学費支援をするのが効果的かを評価し、支援価値なしと判断された出身の学生が、それを隠蔽するために教授を殺害する、という内容だったはず。やはり、統計ごときで人間を判断するな、というメッセージの込められた内容だった。数学者がその知識を駆使して犯罪を解決するというテーマのドラマであるにも関わらず、である。

 このドラマは総じて見れば面白かったが、いろいろ気に入らないところもある。NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)を無能扱いしたり、FBIとCIAの縄張り争いという、古典的でアホな話があったり。あと、数学者の主人公が霊能力者を頭から否定するのも数学的じゃないなと思った。数学者は霊能力がないと証明できない以上は頭から否定はしないだろう。

 数学がテーマのドラマなんだから、もう少しスマートな話にしてほしいのにな、と思うところはあった。


 しかし、セイバーメトリクス成立以前から野球は統計を利用しており、しかもその扱い方は間違っていたのである。

 本書によると、以前はエラー率を重視していたらしいが、これには明らかな問題がある。俊足の外野手がダッシュしてボールの下まで行ったが取り損なった場合はエラーに勘定されるが、足の遅い外野手が走ったものの、ボールに全然届かなかった場合はエラーにならないからである。


 統計というのは厄介で、データの取り方や分析の仕方によっていくらでも都合のいいデータを作れてしまう。しかも、ど素人でもデータ取りと分析ができてしまい、数字やグラフによってもっともらしく見せることができてしまう。信用できる、役に立つ統計データを取り、正しく分析を行うのは難しい。


 この章の末尾では、スポーツには分析と理解が必要なのか、それとも直感と感情が重要なのか、という疑問が提示されている。

 芸術家はしばしば、合理的な分析は芸術を壊すと考える。花は花として愛でればいいのに、科学者は花をバラバラに分解してただの物体にしてしまうのだ、と。

 こうした考えについて、リチャード・ファインマンが言及した言葉が章の最後に引用されているが、ここでは引用しない。


 これは文学でもよく言われる。作品を分析して論じる人はだいたい嫌われる。作品鑑賞は感情で行うもので、論理を持ち込んだら台無しになると思っている人は相当多い。

 それは、論理展開することが目的になっている人が多いことも影響しているだろうと思う。

 論理というのは物事を理解する上での手段であり、ツールである。作品の良さをより理解するために論理を用いるのは、作品鑑賞を台無しにすることにはならない。

 ただ、世の中にはただ理屈を言いたいだけの人もいる。理屈を言うこと、そうすることで自分を賢く見せたいことが目的になっている人は結構いる。哲学者や文学者の大半はそういう連中。そういう人が多すぎるために論理が嫌われるのはあると思う。



 第七章「ギャルジェブラとギャルゴリズム」では、フェミニズムの問題が扱われている。S17E19「女の子たちは足し算をしたいの」では、スプリングフィールドの小学校に新校長が就任し、新校長は女子を偏見から守るために男女別学にする。

 それで、女子の学校ではどういう数学の授業をするかというと、「数はあなたをどんな気持ちにさせる? +記号はどんな匂いがするかしら? 7という数は、奇数なのかしら、それとも単にちょっと変わっているだけかしら?」と、情緒に訴えるわけである。

 女子の授業ではまともな数学の問題はやらないのかと尋ねると、こう答えた。


「問題ですって? それが男のものの見方なのよ。彼らは数学をそんなふうにしか見られないの。数学のことを、挑むべきもの、そう、何かを"解き明かすべきもの"と考えているのよ」(149ページ)


 これは現代の日本文学でもよく言われている傾向。かつての日本文学は男性的で、作品を分析して批判ばかりしてきた。これからの日本文学では女性が台頭し、女性的な感覚で作品を扱うべきだ、と。


 これは一見、フェミニズムに適った論理に見えるが、実際は変な話である。女性は論理的な思考をしないと言っているに等しく、むしろ偏見だし女性蔑視だろう。


 しかし、もはや日本文学は実際に「女性的」になりつつあり、作品を分析したり、批判したりするのは「男性的」であり悪しき伝統だという風潮が広まりつつある。

 それはこのカクヨムでも広まっている。カクヨムでは投稿された作品を批評、批判することはできない。褒める以外のことができないシステムになっている。そういうコメントは削除対象になる。

 先にも言ったように、文学にはただ自分を賢く見せたいだけの馬鹿があふれているから、そんな連中から的はずれな批評をもらって傷つくよりはマシかもしれないし、褒めて伸ばすのも大事だろう。しかし、これだと永久に自分の作品の欠点について知ることはない。


 この件に関連して、「数学における問題の進化」というジョークが紹介されている。


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一九六〇年:材木の伐り出し人が、トラックいっぱいの材木を一〇〇ドルで売るものとする。材木を生産するコストは、価格の五分の四である。利益を求めよ。


一九七〇年:材木の伐り出し人が、トラックいっぱいの材木を一〇〇ドルで売る。コストはこの値段の五分の四、つまり八〇ドルである。利益を求めよ。


一九八〇年:材木の伐り出し人が、トラックいっぱいの材木を一〇〇ドルで売るものとする。コストは八〇ドルで、利益は二〇ドルである。二〇のところに下線を引きなさい。


一九九〇年:美しい森林の樹木を伐採して、材木伐採人は二〇ドルの儲けを得ています。こういう暮らしの立て方を、あなたはどう思いますか? 森の小鳥たちやリスたちがどんな気持ちなのか、グループごとに話し合いましょう。話し合いの結果を小論文にまとめなさい。


(149ページ)

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 一九九〇年の問題は、ほぼそのまま日本の国語教育だが、まさかヨーロッパの国語でもこんなアホな問題を解かせているのだろうか? 真偽のほどはわからないが、私は愕然とした。こんなクソ問題を解かせるのは日本の学校だけで充分である。


 どうでもいいが、この問題を解く場合、森の小鳥やリスの気持ちなどどうでもいい。重要なのは出題者の「気持ち」を読み解くことである。

 出題者は、森林伐採は良くない、自然環境を破壊するし、動物たちが住処をなくして悲しがっているよと言わせたがっているのは明らかだから、その通りに書いてやればいい。

 出題者は感性に訴えたくてこの問題を作るわけだが、解く時は結局理詰めである。問題文を本気にして、素直に自分の気持ちを表現したら馬鹿を見るという、ものすごく意地悪なトラップ。こうして子供の感性は傷つけられ、上司の顔色を伺って気に入るようなことしか言わない立派なイエスマンが生産されていくわけである。よかったね。


 だいたい、本当に感性を重視するなら、この出題に答えはない。「あたなはどう思うか」なのだから、立派な仕事だとか、森がなくなればせいせいするとか答えてもいいし、リスの気持ちだって好きに考えてもいい。

 しかし実は、この問題には正解があり、そういう答えは不正解なのである。だったら最初から「あなたの気持ち」とか訊くなよ気持ち悪い。正直に「出題者の気持ち」を訊け。


 しかしこれは、真面目にやる場合は面白い出題でもある。材木伐採人が暮らしていくには年間どのくらいの材木の切り出しが必要で、それによって森の面積がどの程度減少するのか、森に住む動物の生活環境への影響はどうなのかを調査する必要がある。



 215ページにはシンプソンのパラドックスについて解説がある。この場合のシンプソンはアニメとは直接関係がない。エドワード・H・シンプソンという数学者の名前から来ている。


 1964年のアメリカ公民権法の投票結果は、北部諸州では民主党議員の94%が賛成、共和党の賛成は85%だった。一方、南部諸州では民主党7%、共和党0%。

 つまり、北部でも南部でも、民主党のほうが共和党よりも賛成率は高かったのだが、これが、北部と南部の合計になると、おかしなことが起きる。民主党の賛成は61%なのに対して、共和党の賛成は80%になるのである。

 これは、北部と南部、それぞれの各党員の実数を知れば理解できる。

 民主党は北部154、南部94、総数248に対して、共和党は北部162、南部10、合計172。つまり、公民権法反対が優勢だった南部に共和党党員が少なかったためにこういう結果になるのである。


 これは、セイバーメトリクスのときにも取り上げた、統計の扱い方の問題に関連している。統計データではしばしばこういうことが起き、間違った解釈に繋がる。


 このデータに関して言えば、民主党と共和党を比較しても意味がない。ここから言えるのは、同じ民主党の議員でも、北部は大半が賛成したのに対し、南部ではほとんどが反対した、ということ。

 南部の共和党議員は10人と少なすぎるから何とも言えないが、もし仮にもっと多かったとしても、やはり民主党と同じくほとんどが反対しただろうと思われる。

 つまりこのデータで重要なのは、民主党と共和党の比較ではなく、北部と南部の比較の方。



 本書後半は、『フォーチュラマ』についての話に移る。『フォーチュラマ』は、『ザ・シンプソンズ』の原案者マット・グレイニングによるSFアニメ。当然のように『ザ・シンプソンズ』よりもさらに数学ネタが増えている。

 しかし、日本ではこの作品は有名ではないし、私も観たことがない。というわけで、作品について言及している部分はよくわからないことも多いが、扱われている数学の問題については、わかると言えばわかる。BASIC言語や宇宙語にみせかけた暗号、幾何学、タクシー数など。


『フォーチュラマ』の話で特に興味深いのは、アニメのストーリーを作るためにわざわざ定理まで作ったこと。

 S6E10には、脳みそと体を入れ替えられる装置が出てくるそうで、登場人物たちはいろいろ体と脳みそを入れ替えて楽しんでいた。

 しかし、装置が壊れてしまい、一度脳みそと体を交換した人同士とは再び交換ができなくなってしまった。この状態で、全員の体と脳みそを元に戻すには、未交換の人を最低何人連れてくればいいか? という話。


 単にストーリーの中でそれを解決するだけなら、具体的な例を考えるだけでいい。たとえば7人の脳と体がぐちゃぐちゃになっているなら、それを戻す方法を考えるだけでいい。

 しかし脚本家のケン・キーラーはわざわざ、n人の時に何人必要かを証明した。つまり、何人の脳と体がぐちゃぐちゃになっていようと、未交換の人が2人いれば、全員の脳と身体を元にもどせることを証明をしたのだとか。

 彼はその定理を学術誌には発表せず、打ち合わせの時に原稿の頭に3ページの証明を付けた。何人かの脚本家は、うんざりした顔でそれを読んだらしい。数学だから高尚に見えるが、オタクは面倒くさいということである。

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