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ネットサービスが余計な情報を勝手に寄越す

 かつて、私の家では読売新聞を購読していた。父親が巨人ファンだったのと、入っているチラシが多いからというのがその理由だったらしい。

 当時の読売新聞に政治色はなく、一般市民目線の記事が多かった。下世話な感じはあったものの、私はおおむね不満はなかった。


 事情が変わったのは21世紀に入ってから。確か9.11テロの後くらいからだったと思うが、読売新聞のコラムや社説の毛色が変わりだした。かつては比較的冷静な筆致だったのに、変に感情的な文言が入るようになってきた。取材して調べたことや、データを基にして分析したことではなく、「私はこう思う」的な無責任な文章が妙に多くなってきた。


 そしてそのうち、自民党にすり寄った論調を展開するようになった。一般市民の生活よりも、自民党政権を支持することの方が重要なのだという、変な主張をする新聞になった。購読者である一般市民を敵に回してどうするんだ? と思っていたら、国会で当時首相だった安倍晋三が読売新聞を宣伝した。なるほど、そうやって儲けるつもりなのかと納得した。

 国会で消費税が8%から10%に上げる議論がなされていたときは、消費税を上げなくては国家が成り立たなくなる、国民は国のために痛みに耐えるべきだ、みたいなことを言いつつ、新聞は生活に必須のものだから軽減税率を適用すべきなどとほざいていた。国民に痛みを強いるが、自分達はその税制で儲けたいそうだ。

 めでたく消費税が10%になったとき、お祝いに読売新聞の定期購読をやめた。購読費を消費税増税分に充てるためである。さぞかし読売新聞社も喜んでいることだろう。よかったね。



 ニュース番組も変わった。かつてはキャスターと専門家が登場して、淡々と地味にニュースを報道するだけだったのに、ニュースバラエティなる番組が次々と登場し、芸能人が個人的感想を述べるようになった。それにつれて、普通のニュース番組でも、自分で取材をしたわけでもないキャスターが個人的感想をべらべら喋るようになった。専門家でも事件の当事者でも現地で取材したわけでもない人が、ニュース番組で感想を述べる必要があるのか?

 そしてやはり、政治色が強くなった。番組によって親自民党か反自民党かという色合いを強く出して、「味方陣営」にとって都合の良いことや、「敵陣営」にとって都合の悪いことばかり報道するようになった。



 歴史的に見ると、もともと新聞はプロパガンダの側面の強いメディアだった。アメリカではハーストとピュリツァーの対立が有名だが、それ以外にも地元密着のローカル紙がたくさんあって、鉱山の所有者が新聞を発行して地元に配布し、政治的な地盤を固めるために利用したり、自分に都合のいい情報を流したりしていた。


 戦前の日本はいろんな立場や地域がそれぞれに新聞を発行していたが、戦時中に政府が紙不足を理由にそれらの発行を禁止した。そのために現代日本ではローカル紙がほとんどなくなり、いわゆる五大紙を中心とした体制になっている。


 戦時中は大手新聞が政府のプロパガンダに利用された。知りたければ図書館などで当時の新聞を読めばいい。戦況についてうそっぱちを書き、戦意高揚を目的とした素敵な紙面が作られている。今でこそ左翼的な朝日新聞も、嬉々として大日本帝国万歳している。


 戦後の日本ではその反省、もしくは反動から、新聞は政府寄りの論調を避けるようになった。産経新聞がどうだったかは調べたことがないが、朝日ははっきりと左翼的になったし、読売も当時は政府に批判的な立場だった。


 そして、21世紀に入ると、朝日、毎日が反自民、読売、産経が親自民という陣営色、対立色が露骨に打ち出されるようになる。

 この理由は、新聞の発行部数が減ったためだと言われている。インターネットの発達により、新聞を読まなくてもニュースが手に入るようになると、新聞の購読者数は減っていった。それで各紙は敵と味方を作り出し、プロレスごっこをするようになった。人間は幼稚な争いが好きだからである。

 戦後の朝日はもともと左翼的だったが、20世紀の朝日には信念があった。左翼的であることが日本のためになると信じていた。信念があれば虚報や誤報を広めてもいいのかと言えばもちろんダメだが、その批判はここでは措く。今の朝日は違う。金のために反自民を演じているだけである。それは他の新聞、ニュース番組についても言える。もはや報道機関に信念や正義感や倫理観などない。彼らが信奉するのは金だけである。


 この風潮は日本だけなのかと思っていたら、少なくともアメリカもそうらしい。やはり21世紀に入ってニュースバラエティ番組が増え、民主党派と共和党派に分かれて対立色を深めているのだとか。

 トランプ大統領が誕生した背景には、そうした幼稚な対立構造がテレビを介してアメリカ人の間に浸透していたことがあったようである。

 トランプとクリントンの大統領選のとき、ロシアはクリントンのスキャンダルを流したが、ロシアはあれでトランプが勝つとは思っていなかったと言われている。ロシアの意図は、アメリカを混乱させることでウクライナやシリアから目を逸らすことだったらしい。どうせクリントンが勝つだろうが、しばらくはスキャンダルへの対処で忙しくなるだろう。その隙に軍事行動を起こして優位に立とうという魂胆だったとされている。

 それが選挙結果にまで影響を与えたのは、アメリカが情報に対して脆弱になっていたため。その元凶は、アメリカの報道機関によって日夜繰り返されていたプロレスごっこだった。アメリカ人はニュース・バラエティのノリに慣れきっており、そのノリでトランプを選んだのである。



 少し時間が遡るが、2000年代に読売新聞やニュース番組がおかしくなったことをきっかけに、私は新聞やニュース番組を観るのをやめた。インターネットで事実を報道しているニュースを探し、それについて専門的な見解を述べているページを検索して複数閲覧するようになった。

 21世紀初頭のインターネットでは、情報を提供したところで何の見返りもなかった。星だのハートだの「いいね」が増えるわけでもないし、ページビューによって金がもらえるわけでもなかった。また、ウェブサイトを運営するハードルも高かった。自分でhtmlを手打ちしたり、FTPを設定して手動でWebスペースにデータをアップロードする必要があった。だからこそ、好きな者がただ好きだからウェブサイトを運営しており、充実したページが多かった。


 しかし、そんな時期はあっという間に終わった。ネットに金や欲が絡み、また、誰でも情報を発信できるシステムが構築されると、ネット上はゴミで溢れかえるようになった。読む価値のない文章で埋め尽くされた。



 私はネットでニュースを観るのをやめた。新聞を読まなくなり、ニュース番組も観なくなり、ネットでニュースを調べることもなくなった。



 今の私はニュースを得ようとしていない。むしろ避けようとしている。となると、私は世の中のことを何も知らないはずである。今の日本の首相が岸田だとか、小室圭が試験に落ちたとか、給付金が18歳未満にいくらだの、マイナポイントが面倒くさい手続きをしたらもらえるだの、そんなことは一切知らなくてもおかしくない。

 なのに知っている。それどころか、芸能人がどうしたとか、どこぞの議員が不適切発言をしたとか、しょうもないことまで知っている。なぜなのか。


 それは、ネットで何かやると、勝手にニュースの方からやってくるからである。


 Yahooでなにか買い物をしようとすると、Yahooのトップページにニュースが表示されている。そしてそのニュースのコメント欄では、利用者がしょうもない意見主張やレスバトルを繰り広げている。

 ニコニコ動画を観ていると、上部に次々とニュースが流れる。たまにカクヨムの小説の宣伝まで流れる。……あれ、いくらで流せるのかね。

 twitter検索を使うと、勝手におすすめだのトレンドだのが余計なニュースやハッシュタグを表示する。

 最近はYouTubeまで、動画検索すると勝手にニュースを紹介するようになった。ついでに、調べりゃすぐわかるようなことを長々と動画にした、すんごく中身の薄い情報動画を勝手に紹介してくれる。



 ネットのサービスがニュースを表示するのは、ニュースが利用者にとっていいものだという無邪気な観念があるからだろう。

 しかし、情報は無条件に有益なものではない。知らなくてもいいこと、知らない方がいいこともある。それを垂れ流すのは公害に等しい。少なくとも宣伝カーや暴走族程度には迷惑行為である。


 自然災害や政府の公式発表などの、公益性の高いニュースを流すのはまだいい。芸能人がテレビやSNSで差別発言をしたとか、政権批判をしたとか、そんなニュースを垂れ流す必要はあるのか? twitterがわざわざ炎上ネタを垂れ流すのは問題だろう。それとも何か、twitter社は利用者同士が延々と諍いを起こし、利用者みんなが不愉快な思いをすることを推奨しているのか? 推奨しているならそう明記すべきだし、推奨していないなら、しょうもないニュースや、敵対的な文言の含まれたハッシュタグをトレンドやおすすめに流すのをやめてくれないかね。システムが勝手に掲載しちゃうんですなどという言い訳は聞きたくない。IT企業ならそれくらいなんとかしろよ。


 結局のところ、Yahooにしろtwitterにしろ、結局は利用者同士による揉め事を望んでいるのだろう。その方が利用実績が増えるからである。だからわざわざ炎上ネタを喜んで提供する。邪悪で卑しい連中だ。



 ジャンクな情報が無数にやって来る現代では、情報処理技術を身につけることが特に重要になってきている。そうしないと、次々と勝手にやって来るしょうもない情報に、いちいち操られることになる。

 しかし、情報処理技術はなかなか教えてもらう機会がない。権力者にとって都合の悪い技術だからである。教師は生徒がバカな方が制御しやすいし、為政者はプロパガンダに踊らされる国民の方が都合がいい。経営者は賢しい労働者など望んでいない。低賃金で従順によく働く方がいいに決まってる。


 実際、私は大学でこの技術を学んだが、学んでしまうと、それを教えた教授の主張のウソや矛盾が見えてしまう。教えると、教えた人が損してしまうのである。

 その教授は、自分が敵対する思想に対しては技術を使って矛盾を見破って欲しいが、自分の思想にはその技術を使って欲しくないようだった。そして、学生は馬鹿だからそんな応用できる頭もないと思っているようだった。そうでも思わなければ教えられないのだろう。自分を倒す方法を教えるのは、正気でできることではない。



 調べなくても情報が勝手にやってくる現代は、便利になったと思っている人が多いだろう。私はそう思わない。受動的に得られる情報は利益どころか害になる。

 情報を活用するには、その真偽や精度を確認し、自分にとって必要か不要かを見極め、扱いやすいように整理・加工する工程が必ず要る。情報に対して能動的に接する必要がある。


 しょうもない例ではあるが、私が、攻略サイトを見れば書いてあるような情報を、わざわざノートに整理するのは、情報処理の工程を通すことで、自分にとって本当に必要な情報を精査し、それを扱いやすいように加工するためである。また、その過程で間違いもあぶり出せる。攻略サイトの情報はおおむね正しいことが多いが、たまに間違っていたり、バージョンによって異なる場合などもある。鵜呑みにすると大変なことになる。正しいかどうかを自分でチェックしておくのは大事なことである。


 あと、『ゴルゴ13』の、とあるエピソードを読みたくて、そのエピソードが単行本の何巻に収録されているのかをwikiで調べたことがある。たいがいの人はwikiの情報を信じて本屋に直行するだろうが、私はそれが本当に正しいかを、Amazonなどの本を売っているサイトの説明書きや、その巻を買った人が書いたレビューや感想などを調べて確認した。すると、wikiの情報は間違っていることがわかった。情報を鵜呑みにして本屋に直行していたら、間違った本を買ってしまうところだった。しょうもない情報でも一応確認することは重要である。


 しかし、受動的に得た情報は、努力して得たものではないだけに、そうした工程をすっとばして知った気になりがちである。ガセネタかも知れないし、間違いがあるかもしれない、自分にとって必要か不要かもわからず、自分が使いやすいように整理もされていない情報を持っていることで、賢くなった気分になる。これほど危険なことはない。にわか知識を得て偉くなった気分になるくらいなら、無知でいる方が遙かにマシである。「自分はものを知らない」と、正しく現状を認識できる。

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