例祭前日
一日明けた朝。
星那は真昼に連れられて、神社の片隅にある、今日一日斎戒の為に籠る場所……斎館へと連れられていた。
「それじゃ、一度入ったら明日まで出られないけど、忘れ物はない?」
「うん、大丈夫」
「決まり事は、きちんと頭に入ったかしら」
「うん、えぇと……」
禁忌とされているものは主に……
喪を弔ってはならない。
病人の見舞いをしてはならない。
獣の肉を食べてはならない。
罪人の罰を決めてはならない。
音楽を楽しんではならない。
穢れや罪に触れてはならない。
これらの六つとなり、斎戒中はこうした事から離れ、俗世の穢れから離れて暮らす決まり事となっていた。
その他にも、細々とした決まり事を一つ一つ確認していく。
「うん、大丈夫。それじゃ行ってくるよ」
「ええ、明日の晴れ舞台、楽しみにしているわ」
母に見送られ、斎館へと足を踏み入れる。
中は、ごく普通の和風建築に見えた。
とりあえず……今日、共に斎戒を行う中で最も年若いのは当然ながら星那である。
故に、皆が来るまでにあらかじめ雑事を片付けておこうと思ったのだが……掃除が行き届いている館内はただただ清浄な空気が流れていた。
「さすが母さん、手出しできるような事は無さそうだなぁ」
この斎館も、普段から真昼がこまめな手入れをしているのだろう。いまさら星那がやらなければならない事は無さそうだ。
そう判断し、とりあえず最初のお役目を果たそうと、浴室へと入る。
斎戒とは、穢れから身を清める為に行う事。
その中でのお役目とは、身を清める……つまり、お風呂である。それも、最低でも朝夕の二回。
更には、用を足した場合は再度身を清めねばならないという、厳しい決まり事まである。
他にも、教わった沢山の決まり事を脳内で反芻しながら、浴室……潔斎場へ続くドアを開く。
「……本当にこれ、お風呂だ……とと」
潔斎……湯によって身を清めている間は、声を出してはならない。慌てて口を塞ぎ、中に足を踏み入れる。
暖かいお湯が張られた、木製の湯船。
昔は冷水で沐浴していたそうだが、少なくともこの神社今はそこまで行っていない。今は夏だからまだいいが、冬であれば色々と危険だからだそうだ。
ただし、石鹸は使ってはならない。
また、湯船に浸かってもいけない。それでは穢れを落とす事は可能でも、洗い流す事はできないからだ。
この潔斎場においてお湯は、柄杓や桶で体を流すためにあるのだと、教わった手順をなぞって柄杓で湯船からお湯を掬い、体に掛ける。
「……んっ」
やや熱めのお湯が首元から胸へと、身体を滑っていく感触に、思わず声が漏れた。それでも、パシャ、パシャッと湯を体に掛け続け、しばらく無心に身を清め続ける。
――ここは、本当に静かだ。
そういえば、しばらく一人でお風呂というのは無かったのもあって、静寂がいたたまれない。
「……っ……んっ……」
敏感な柔肌を滑っていくお湯の心地良さから漏れ出る、吐息のような声。そんな声さえもやたら大きく聞こえてしまい、顔を赤らめる。
ふと顔をあげると、鏡に映っているのは湯によってうっすら桃色に上気した、黒髪の美少女の一糸纏わぬ白い裸体。
これを直視してもあまり気にならなくなったのは……はたしていつ頃だっただろうか。
浮かんだ疑念を振り切るように……星那は、桶で大量の湯を掬い、頭から被るのだった。
沐浴を終え、用意された綿の白装束を身に纏う。
一切染色されておらず、よく洗濯されたそれは清潔で肌触りも良く、身が引き締まる気がした。
長い髪に櫛を通し、ドライヤーは使えないためタオルで水を吸わせて乾燥させていると……
「……あら、先客がいましたか。今日はよろしくお願いしますね、瀬織さん」
「あ……
潔斎場に入ってきたのは、ニコニコと穏やかな微笑みを浮かべる、黒髪を肩あたりまで伸ばした女の人。
明日、一緒に舞台に立つ舞女の一人、『内宮 渚』という比較的近所に住む大学生のお姉さんだ。
「ええ、気にしないで。色々と普段の生活と違う決まり事に戸惑うかもしれないけど、あまり緊張しないようにね」
そう笑いかけて、自分も沐浴するため服を脱ぎ始める内宮。
……何年にも渡り巫女の役割を引き受けてくれているという古株である彼女は、言葉遣いが丁寧で、穏やかな雰囲気をした優しいお姉さんだ。
元々そういう人だから巫女のアルバイトをしているのか、それともこういうバイトをしていたからこういう人になったのか……いずれにせよ、星那にとっては見習う事も多いお姉さんだった。
その隅々まで綺麗な所作をポーッと眺めていた星那だったが……下着姿となったあたりで、慌てて目を逸らす。
自分の裸には慣れても、流石に他のお姉さんの裸にまでは、まだ慣れていない星那なのだった。
斎館での生活は、とにかく穏やかだった。
外界の音が入ってこない、静かに隔絶された中で、読書……主に古事記とか日本書紀とか……をしたり、同じ館内で過ごす人とお茶したり。
とにかく娯楽が少ないため、ゆっくりと流れていく時間。
そんな中……共にお茶していた内宮が、ポツリと口を開く。
「……きっとこういう体験も、いい思い出になるんでしょうね」
「内宮さん、どうかしたんですか?」
「ええ。私は、こうして巫女のお仕事をするのは今年で最後になるから……私、来年結婚するの」
なんでも、大学卒業と共に結婚する約束があるのだと、少し嬉しそうな顔で語る内宮。
巫女としてお役目に就けるのは未婚女性に限られるため、彼女が舞女として参加出来るのは今年が最後なのだと言う。
「それは、おめでとうございます」
「ふふ、ありがとう……星那ちゃんは、そういう将来を考えている相手は居るの?」
少し面白がっている様子で聞いてくる彼女。
その質問に、もじもじと指を絡めながら、頷く。
「……居るんだ!? あ、失礼……」
思わずといった様子で驚きの声を上げ、すぐに我に返って周囲に謝罪する内宮さん。
その様子をふっと笑って眺めながら、続きを述べる。
「それは……はい。学業が終わるまでは清い交際を、って言われているんですけどね」
「へえぇ、もう許婚がいるなんて、今の若い子は凄いのねえ」
「いや……周りで他に聞いたことは無いですけども」
驚いたように目を丸くする彼女に、星那が苦笑して返す。
――結婚。
そういえば、求婚されたのは入れ替わった初日だったなと、ふと懐かしく思う。
その後、色々戸惑いながら女の子として暮らしてきて……自分が将来お嫁さんになるという事はまだ実感は無いけれど、嫌かと言われると、今では抵抗感はあまり無い。
「大好きなのね、その人の事」
「……え?」
「星那ちゃん、幸せそうな顔をしていたから」
――そうなのだろうか?
ペタペタと顔に触れてみても、自分がどんな表情をしているのかはよくわからない。でも、きっとそうなのだろう。
指先に感じる熱がさっきよりも上がっているのを感じながら、そんな事をぼんやり考える。
その後も談笑したり、振り付けの確認をしてもらったりしながら、時間は流れていく。
そうして心穏やかな時間も過ぎ……とうとう翌日、例祭の日が訪れるのだった――……
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