白山家の勉強会②
勉強開始から、早三時間。
「ただいまー!」
玄関のほうから、元気な声。朝陽が小学校から帰って来たらしい。
「あ、柚夏ちゃんだー」
「おー、朝陽ちゃんお久し!」
リビングに入ってくるなり、たたたっ、と柚夏に駆け寄る朝陽。
二人は一度ぎゅーっと抱きしめあった後、パッと離れて……
「いぇー!」
「イェーイ!」
パァン、と両手でハイタッチしていた。
……うん、何だろうね、これ。
「あの、柚夏ちゃん、朝陽、この一連の流れは一体……」
「え? 意味なんてないよ?」
「ないよー?」
「あ、そ、そうなんだ……」
仲良く声を揃えて宣う様子から、とりあえず二人がとても仲が良い事は分かった。あるいは、波長が合うのだろうか。
その一方で、静かなのは夜凪と陸の二人。
星那がそちらの様子を伺うと……
「xが……yが……」
「………」
夜凪はなんだか虚ろな目でぶつぶつ言っているし、陸に至っては口から魂が抜けていた。
星那はまだなんとかヘロヘロになるだけで済んでいるが……もはや、二人が勉強どころではないくらいに煮詰まっているのは一目瞭然だった。
「あの、柚夏ちゃん。朝陽も帰ってきたし、今日はここまでにしておく……?」
「あー、そだねー……こんな状態で捗る事もないだろうし、初日ならこんなもんで勘弁してあげよう」
ゾンビの如き二人の様相に、苦笑しながら勉強会解散のお触れを飛ばす柚夏。
その言葉に、死に掛けだった二人がバッと起き上がった。
「それじゃお姉ちゃん、私ハチの散歩行ってくるね!」
「お、そういえば犬を拾ったんだったな。俺も付いて行っていいか?」
「あ、陸、お願いね。朝陽、もうすぐご飯にするから、早めに帰ってくるんだよ」
「はーい」
「おう、任せろ」
これでよし。陸が一緒ならば朝陽の方は心配あるまい。そう判断し、星那はいそいそとキッチンへ向かう。
「さぁて、どうなったかなー」
ウキウキとした調子で、キッチンに置いてあった金属製の大きなジャーみたいなものの蓋を開ける星那。
中には、さらに一回り小さな金属の鍋が、まるでマトリョシカのように収まっている。
それを取り出して、蓋を開けると……中には、形がほぼ残らないくらい煮崩れた、透き通るような大量の玉ねぎと、柔らかく煮込まれた大きめカットの人参。そして、ゴロゴロと大きな牛肉の塊が沢山。
これは、今日の夕飯にする予定だったカレーの具として、昨夜から仕込んだものだ。その様子を見て、星那が満足気に顔を綻ばせた。
これはシャトルシェフ……真空保温調理鍋という、星那の煮込み料理用の秘密兵器だ。
一度沸騰させた鍋を、断熱仕様の外鍋に入れて蓋をしておく事で、食材に余熱によってじんわりと火を通すこの調理器具。
圧力鍋は、鍋の高圧により短時間で火を通すための調理器具だが、こちらは逆。ゆっくり、じっくりと火を通すための調理器具。
時間はかかるが一度沸騰させたらあとは余熱任せでガスも電気も要らず、火でぐらぐら煮立たせないため食材の煮崩れがしにくいという利点が魅力の一品である。
それで星那が昨夜から仕込んでいたお肉は、今はその塊の形を保ったまま、舌で潰すだけで口の中でほろりと崩れる、そんな仕上がりとなっているはずだ。
「うふふふ……」
「……なんか、星那君は煮込み料理をしているときに怖くなるよね」
「うんうん、なんかいけないものがキマってる感じするよねぇ」
出来映えを想像してトリップしている星那の後ろで、夜凪と柚夏が何かヒソヒソ話しているが……今の星那には聞こえていない。
この真空保温調理鍋と、圧力鍋。この二つが、星那を煮込み料理の魔道に堕としたと言っても過言ではないのだった。
そんな星那が、しばらくして正気に還ってきた後。
「それじゃ、私はカレーの仕上げをするから、夜凪さんはサラダをお願いしてもいいですか?」
「オッケー、任せて」
星那の指示に、夜凪が先回りして冷蔵庫から出していたレタスを手で割って一口大に千切り、ざっと冷水に晒した後、氷と一緒にぶち込んだサラダスピナーで水気を切る。
「お皿、人数分出しておくよ?」
「あ、お願いしまーす」
サラダを盛る大皿を出すついでに、人数分のカレー皿をテーブルに並べる夜凪。
このところ、進んで食事の支度を手伝っていた夜凪。その動きはすっかり慣れたもので、二人並んでキッチンに立つ頻度を物語っていた。
「……なんていうか、新婚夫婦の料理風景みたいね、二人とも」
「そ、そうかな……」
照れて赤くなりつつも、満更でもなさそうな星那。
そんな星那は、先程の保温調理鍋の中身を、大鍋とやや小さめの鍋、二つに分けて火にかけていた。
大鍋の方が、皆のための辛口用。
小さめの鍋の方は、辛さにあまり強くない朝陽と星那、それと夕一郎用のための辛さ控えめに使用する分だ。
それぞれに、煮崩れしないよう別茹でしていたじゃがいもを投入し、沸騰したところで火を止めカレールーを投入。
その他、マンゴーチャツネや各種スパイス、隠し味数点を加え、火をとろ火に落とす。
陸と柚夏はよく食べる。それがカレーならば尚更だ。
故に、余ったら冷凍すれば良いかと、たっぷり一升炊きの炊飯器の八割以上まで用意して、タイマーをセットしていたご飯は……あと三十分ほどで炊き上がる。
これで、今夜の夕食……男子学生の大正義、ゴロゴロ大きな肉と野菜のカレーは概ね完成だ。
「よし、あとは朝陽と陸が散歩から戻ってきた頃にはいい具合に馴染んでいるかな」
「うん、お疲れ様」
そう星那に労いの言葉をかける、サラダに切ったトマトを盛った大皿にラップをかけ、冷蔵庫へと入れている夜凪。
「うーん、これこれ、このカレーのいい香り、これを嗅ぐとこの家に泊まりに来たって実感するわ……」
「もう、大げさだなぁ」
柚夏の言葉に、星那が苦笑する。
たしかに、二人が泊まりに来た時は大抵が初日はカレーである。前日から仕込みをするような手の込んだものを作る、格好の機会だからだ。
――早くみんな帰って来ないかなー……
早く人に食べてもらいたい一心で、しばらくそんな風情でそわそわしていた星那だったが。
「……あ、せっかくだしラッシーも作っておこうかな」
五分ほどで我慢しきれなくなって、レモン片手に冷蔵庫からヨーグルトと牛乳を取り出し始める星那。
「……なっちゃん、楽しそうだねぇ」
「星那君は、昨日からずっとあんな感じだよ。人のために手間暇掛ける事に幸せを感じるタイプなんだろうね」
「見た目は美人系なんだけどねぇ。ああしていると……」
「うんうん、可愛すぎてヤバいよね」
そんな、穏やかな普段とはうって変わって、落ち着きない様子の星那に……その姿を生暖かい目で観察していた夜凪と柚夏は、二人で苦笑するのだった。
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