第90話 陰陽
夜の海辺は暗く、時折月明かりで波間がキラキラと輝いていた。樹蒼は初めて踏みしめる日本の地をしっとりとした風のにおいと土の香りがアメリカと違うと感じながら一人瞼をそっと閉じた。樹蒼はこれが最後だと思いながら念を送った。相手は実の父フレデリックだった。
樹蒼(父上。父上・・・聞こえますか?私です。マリオンです。)
フレデリックはもう幾日も森の中で放心したように座り込んでいた。マリオンの声を意識の中に感じてピクリと動くと、その気の方向に意識を集めた。それはまだリリアが生きていた頃、幾度と無く交わした懐かしい意識の交換方法だった。今のフレデリックにはその懐かしささえ心を痛めるものだった。そんな自分を省みて苦笑しながらマリオンの意識に答えた。
(マリオン。もう私の前に話をしてくれることは無いと思っていた・・・)
座り込み別人のようにくっきりと赤黒い痣が半分に浮かんだ父親の顔をマリオンは労しく思いながら見つめ語った。
(父上。何も言わず城を出てこのような事態を招いたこと、さぞ驚かれたことと思います。しかしこうなってみて私はやはり思います。アメリカに暮らしていた時、私は居場所が無いように感じていた。その頃は半分はヤマトの血が流れることからそう感じるのかと思っていました。しかしここ、日本の地に降り立ってみても、やはりその違和感は消えません。半分は貴方の血が流れている私は全くのヤマト純血腫としては存在できない気持ちを、やはり抱え続けているのです。幼い頃から父上の中に感じていた孤独感。それが今はっきりと私は自分自信の中にも存在することを感じています。)
フレデリックは目を閉じマリオンへ念じた。
(人が生まれ落ちた時泣き叫ぶのはそれまで一体化していた母親と切り離され一人になった事を知る悲しみからだと言う話を聞いたことがある。)
マリオンは頷いて父を見つめ続けた。
(念の五方陣が開かれた中、皆がお互いの気持ちを自分の感情として受け止められていた時でさえ私はこの孤独感を消し去ることは出来ませんでした。父上。あの方陣の中、父上は母上以外誰とも意識を交わされることを拒否され、ご自身の考えを読み取られることを避けられていた。それ故に父上の大統領という席はあのまま健在に残されております。アメリカでは正常化を図ろうと軍部を中心に父上の捜索が始まっています。ご存じでしょうか?)
フレデリックは片頬だけで笑うと頷いた。やがてゆっくりと目を開けるとマリオンの思念を感じ取り、我が子を直視して言った。
(マリオン!私が、私にそなたらヤマトの民を日本を攻撃するなと言うことを頼んでおるのか?お前達が仕組んだあの空間!あれは攻撃ではないとそう申すのか!)
マリオン(樹蒼)も父のまなざしを見据えて答える。
(私の名前は、マリオンではなく樹蒼と言います。父上。あの方陣を作った所以は既に私の、また母の気持ちから父上にはご理解頂けているものと思っております。父上が今後日本を、私達ヤマトの民を攻撃されることがあるならば、私は父上と対決しなければならない。それをさける術を父上は既に知っておられるはずです。)
フレデリックと樹蒼の気持ちが一瞬ぶつかり合いはじけたように見えた。フレデリックはため息をつき樹蒼から視線をはずした。樹蒼はそんな父親の姿を見つめ続けながら念を送った。
(父上。あの方陣が開かれ皆何かを感じ取ったのだとしても、人はやはり変らないものだと思います。変らぬ明日が訪れ、いつもの朝を迎え、あの方陣は夢の彼方へ消え去ってしまう。しかしこの消え去らぬ孤独感。死ぬまで抱えて生きていくこの気持ちは、人が何たるかを考えさせてくれるための境界線なのでは無いかと思うのです。何の為とか正義とか、後からつける理由や正当性は人の知恵や知識が生み出した言い訳に過ぎず、本当に自分が行いたいことやり遂げたいこと行動したいことを自分自身で感じ取りつかみ取ってやる、そのために人とは異なる自分を感じるためのものなのではないかと思うのです。しかしそれは自分とは異なる人との共存の上に成り立つものだと言うことも知らねばなりません。孤独を感じ境界線が認識できてこそそれが実現するのではないでしょうか?我々が作り出したあの念の五方陣。全てを一体化させたあのカオスの中・・・あの中は一見人々が他人の気持ちを自分のこととして感じ取れる居心地のいい空間のように見えますがあれが永遠に続くとなると、どうでしょう?人はきっと身動きが取れなくなり前に進むことを止めてしまうでしょう。人はこれからも前へ進まなくてはならない。それを支え気づかせてくれるものがこの根底に流れる孤独感なのだと思うのです。それを誰より強く、誰よりも早く感じておられた父上だからこそ、またその犯された罪の深さも母上のお顔も既にお心の内に深く刻み込まれている父上だからこそ、世界のリーダーとしてこの世の中を導いてくださることを、今度は父上でなければ出来ない責務を果たされる事を、私は信じて願っております。)
フレデリックは再びマリオンの瞳を見つめた。その深い緑色の瞳の中に、今は無きリリアのほほえみを思い浮かべながら、我が子が父親を慕う気持ちも感じ取っていた。フレデリックはゆっくりと頷くと息子に告げた。
(もしまだ私のアメリカ大統領としての席が残されておるのならば、そなたの言うとおり今度こそ責務に見合う働きをして見せよう。それをどこからかそなたが見ているのだと私も感じ行動しよう。そなたからリリアから私は初めて愛をもらったのだから・・・)
フレデリックの赤黒い反面の頬に一筋の涙がこぼれた。フレデリックが息子へ力なく手を伸ばしかけた時後方からフレデリックを捜索する声が聞こえてきた。
「フレデリック様!フレデリック大統領!」
「ワン!ワン!」
けたたましく鳴き吠える犬の声と共に数名の軍部の人間が森の木立をかき分け近づいてくる音が聞こえていた。樹蒼は静かに父に別れを告げゆっくりと姿を消していった。
(父上・・・どうかお体を大切に・・・父上・・・)
フレデリックは息子の姿が消えると同時に自分も再び木に背を預けてゆっくりと瞼を閉じた。疲れ切っていたがフレデリックの心の中は静寂を感じていた。耳にはフレデリックを呼ぶ捜索の声が聞こえていたが返事をする前に意識が遠のいていった。
捜索の部隊は月明かりに照らされて微笑みながら木にもたれかかり座り込んでいるフレデリックを発見した。見間違うフレデリックの容姿に周りを取り囲んだ隊員達が呆然と立ちつくしフレデリックを見下ろす中、フレデリックは夢の中歌声を聞いていた。
恋いし愛しあの人を
夢見て今宵も幾千里
追うて駈けて行けどもや
姿は今宵も夢に消ゆ
どれほど思いをはせれども
叶うことなきわが思い
夢の中リリアが歌いマリオンを寝かしつけていた。それはやがて会ったことの無いフレデリックの母が歌いフレデリックを寝かしつけてくれる姿へと変わっていった。幸せそうに微笑むフレデリックの姿を高く昇った月が皎々と照らし続けていた。フレデリックの半分がくっきりと赤黒く変色した顔はまるでかつて紫苑が持っていた勾玉の形が合わさった陰陽の太陰対局図のようにも見えるのだった。
おわり
白い月の影 @fuji-shiro
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