逆じゃねえか……!
中ノ沢温泉、老舗旅館、平沢庵。
その中庭に、居心地が悪そうに顔をしかめる正文の姿があった。
「むぅ…………」
……何故だろうか?正文はどうにも落ち着かなかった。
胸が騒めく……。気持ちの奥底が逆立って仕方がない。
いつ団体客が来ても良いよう、玄関の掃除は済ませた。
客用のスリッパ全てに殺菌シートで消毒もしたし、売店の土産物の在庫確認もバッチリ。
いつも通り女湯を覗いて、いつも通り文子に見つかって蹴り飛ばされ、中居のハルナやナルミに『若旦那』ではなく『バカ旦那!』と生ゴミを見るような目で蔑まれた。
何時もの日常……。やるべきことはやった筈……なのに……。
それなのに何故……?何だろう……?この……?
「どしたのよアンタ?珍しくクソダサい顔して……?」
すると、煙草を吸いに来た母文子が裏庭に入って来るや否や、岩の上で胡座を組む正文を見て笑った。
もうちょい言い方ってものがあるだろうが……。
そんなことを思いながら、正文は美味そうに紫煙を燻らせ始める母を見る。
女湯覗きでも解消されない鬱憤は、
「お袋……お袋の
長男坊の催促に、文子は吸い殻を携帯灰皿に入れて、煙を風下に向かって吐きながらーー。
「良いけど……使い終わったらちゃんと綺麗にしといてよ?アンタよく汚すんだから……
「………………」
「……箪笥の中のあのカッピカピになったエッチなゲーム……ちゃんと
思春期真っ盛りの健康優良児なのだから、仕方ないだろう……。
ジト目で睨んでくる文子に、正文は「……ヘヘッ」と態とらしいはにかみ顔を見せた……。
ただでさえ端正な顔立ちなだけに、何処か癪に触る笑顔だった……。
****
軽快な走行音を奏でーー文子から借りた別嬪号に跨った正文は、風になった。
沼尻スキー場の看板を右側に見て、T字路を左折。遥か彼方に磐梯山を眺めながら、正文は心向くまま、一気に加速する。勿論、法定時速内で。
肌を強く吹き撫でる風の感触。換装した最新エンジンの振動と心拍とが同調し、否が応でも高揚する。
蚕養を駆け、熊野山を駆け、そして我が青春の猪苗代町へ!
別嬪号が巻き起こす風に、蕎麦畑の白い花弁が、パッと空に舞い踊りーー。
(…………助けて)
「……っ!?」
ふと、誰かに呼び止められた!……ような気がして……正文は磐越西線を跨ぐように敷かれた高架道の路肩に別嬪号を停めた。
エンジンを切り、正文は周囲を見渡す。
時刻は午後四時ちょうど。太陽は未だ高く、正文のやや汗ばんだ肌を照らす。
周囲には人の姿は見えない。
気の所為か……?首を傾げる正文の真下を、四両編成の列車が通り過ぎていく……。
(助けて……!寒い……!)
「だっ……誰だ……!?)
今度ははっきりと聞こえた。
周囲には誰もいないのに人の声が、女の声が聞こえたのだ!
「おいおい……!」
流石に正文も狼狽えた。
何処からか聞こえる女の声……。まさに真夏の怪談ではないか……。
しかし……。
正文は逃げず臆せず、身構える。
幸い此方には巫女の
おまけに宇宙人の
「かかって来い……!幽霊……!」
正文は道路の真ん中でファイティングポーズを取る。偶々通り掛かった観光客が、怪訝な目で正文を見ていた……。
「む…………?」
何やら……尻が熱い、と感じた正文は、お気に入りのデニム(一着、五万八千円)の尻ポケットを探る。
何か硬い、そして熱い物が手に触れた。
正文が尻ポケット内の物を取り出してみると……。
「あ、こんな所にあったのか……!」
それは、以前にカウナから貰ったルリアリウムの宝石だった。
貰ったきり仕舞い忘れて、カウナが再び来訪したのを機に探していたルリアリウムが……まさか尻ポケットにあったとは……。
「これは……!?」
そのルリアリウムが、今……正文の目の前で光り輝いていた。
時緒の翡翠色とは違う。鮮やかな紫色の光りを放っていた。
僅かだが、輝きの光量が明滅している。正文の精神力に感応しているのだが……正文にはまるで……心臓の鼓動のように……ルリアリウム自体が生きているように見えて……。
(助けて……!)
また声が聞こえた!
正文にもう恐怖心は無い。声の発生源が分かったからだ。
この石……ルリアリウムだ!ルリアリウムから声が発せられている!
しかも、この……助けを求める声は……鼓膜を通した音声ではない。
頭に直接届くような……これは……。
「これは……脳波……精神波か……?」
正文は呼吸を整えて、明滅を繰り返すルリアリウムを額に当て……。
そして……念じる。
(助けて……!助けて……!)
(…………俺様を…………呼んだか?)
****
(助けて……分からない……ここは……寒い……)
(落ち付け。大丈夫だ。心配するな。俺様が行く)
ルリアリウムを額に当てたまま、正文は高架道を降りて、その脇から、水田の畦道へと足を踏み入れ、歩き出す。
理屈で説明出来ないが、正文には何故か……何故か
この
(寒い……暗い……嫌だ……嫌……)
(大丈夫だ。任せろ。俺様だぞ?信じろ)
(………………)
青く色付く稲穂の海の中、正文は堂々と進み……。
やがて……高架道のちょうど真下……。
土手と柱の影になって、暗い……暗い……用水路の中に……。
波打つ長髪の少女が……倒れていた。
「お……おいっ……!」
正文はデニムもシューズ(一足、八万九千八百円)も泥で汚れること厭わず、用水路に入り、少女を抱き上げる。
「……っ!?」
正文は絶句した。
少女の脚は二本脚ではなく、泥にまみれながらも、鮮やかな朱色に煌めく鱗を持った、尾鰭……!
「………………」
弱々しくも、少女が息をしていることを正文は確認する……。
不思議と……家にいる時に感じていた胸の騒めきが……静まっていく……。
心が穏やかになる中、正文は好きな童話を思い出していた……。
ーー人魚姫は、嵐の海に落ちた王子様を助けましたーー。
「……逆じゃねえか……!」
続く
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