63 変化

「ジル、大丈夫か?」

 倒れたジルにそう声をかけたのはアルだった。

 ジルは辺りをきょろきょろと見回す。そこは夢の世界へ行く前にいたカストラ国の城の書庫だった。


「パティが目覚めたんだ。君のお陰だ」

 アルはにこりと笑んでいた。

 人の心を掴むようなアルの笑顔に、しかしジルは反応を見せなかった。

 アルはこの時、ジルのこの反応を気に止めなかった。ジルは大人しい性格で、必要以外はあまり話さないと知っていたからだ。



 ジルとロミオが現実世界へ戻る少し前、アルはいつの間にか書庫へ戻っていることに気付いた。

「アルタイア王子、お体は大丈夫ですか?」

 ライナは倒れたアルを、上から覗き込んでいた。軽く揺さぶられ、目を覚ましたアルは、ああ、と声を発する。

 バノン王とネオは心配そうにアルを見ていて、パティはまだソファで眠っていた。

 少し離れたところにグラシャスの死体が転がっている。死ぬと現実世界へ戻るようだ。


 アルはライナの声で、すぐにばっと起き上がった。

「ロミオたちも戻りました。パティ様は呼吸が安定しています。時期、目覚めるでしょう」

 ライナは安堵した様子で言い、ロミオとジルを交互に見た。ロミオとジルはまだ倒れていたが、無事らしかった。

 

 二人は、アルの少し後にパティの胸のあたりから出ている靄の中から飛び出した。怪我はしているが、二人とも無事だ。

 パティを包んでいた靄はもう消えており、今の彼女はすうすうと寝息を立てている。眠っているパティを見てアルは胸を撫で下ろし、近くへ寄った。


「パティ」

 と彼女を呼ぶと、パティはゆっくりと瞳を開いた。

 パティは、何だかもう随分長いこと眠っていたような気がした。

 パティがすぐに瞳を開いたのは、その声はパティがいつも一緒にいたいと思う、蜂蜜色の瞳の少年のものだったからだ。


「アル……、わたし――」

 アルはソファに横たわったパティの背中に腕を回して支えていた。アルの腕は温かく優しかった。

「君はチュリア村の店で気絶して、そのまま目覚めなかったんだ。覚えているか?」

「はい」

 パティはチュリア村で魔族の気配を持つ男の傍に寄ったことを思い返した。

「良かった、本当に」

 アルは横たわるパティを抱き寄せ、声を震わせていた。

 アルがぎゅっとパティを抱き寄せたのでパティの顔は赤らんだ。一緒に馬に乗った時のように鼓動が跳ね上がった。

 どきどきとするパティだが、不意にある違和感を覚えた。


 アルがロミオとジルに声をかけると、二人はすぐに目を覚ました。

 書庫にはロミオとライナにネオ、それにバノン王が、魔族を倒し、無事に皆が戻ったことに安堵し喜びの表情を見せていた。

 しかしジルは少し離れたところに立ち、無表情で瞳が陰っていた。パティたちの方を向いているが眼はこちらを見ていない。

 パティはジルから魔の嫌な気配を感じ取った。

「ジル?」

 パティはジルの方へと近づいて行った。



『お前はなぜ人を信じる? お前はこちら側の者だ。人ではない。その証拠に人はお前を虐げているだろう』

 グラシャスはもういない。しかしジルの脳裏にはもう死んだはずの夢幻魔の声が響いていた。

 その声は幻だ、とジルは思った。

 

 ジルの中に眠る魔の血が、彼を魔族の道へといざなおうとしている。ジルは心を弱らせ傷を負った。その傷はただ一人信じていたロミオにつけられた傷だ。

 ジルにはもう何を信じていいのか、どこへ向かえばいいのか解からなかった。


「う、煩い!」

 ジルは頭を押さえ、叫んだ。


(オレは要らない者……ロミオにとってオレはやっぱり、研究対象でしかなかった。オレは、生まれてはいけない者だった……?)

 ジルの血が熱く滾り始めた。

 感情がコントロールできず、身体が心の痛みと同じように痛み、体全てが燃えるように熱かった。


「くっ……うわあ!」

 ジルは頭を押さえてその場に蹲った。

「ジル、どうしたんだ!」

 ロミオはジルの傍に足を引き摺りながら寄って行き、ジルの体を押さえて顔を覗き込む。

 ジルは苦しそうに荒い息を吐き、倒れて体を揺さぶり、のたうつ。ジルはう、う……、と呻き、明らかに尋常ではなかった。


 それを見たライナは自国の王にジルから離れるように言い、ジルを睨むと腰に差した剣を抜き、その切っ先を向けた。

「ま、待ってくれ! ジルは、誰も攻撃などしない!」

「その混血の少年は明らかに様子がおかしい。何をするかわかりません。そこをどいてください」

 倒れたジルの前で腕を広げ、ライナの前に立ち、ロミオはジルを庇った。

 アルたちもその様子をはらはらと見つめ、何とかライナを止めようと、近くに寄っていく。


「ジルがいなければ魔族を倒せなかったし、ここへ戻っても来られなかった。僕が何とかする、だから剣を仕舞ってくれ!」

 ロミオは必死の思いで叫び、剣を取りだしたライナに叫ぶ。

「ライナ、僕からも頼む。ジルは、今混乱しているだけだ」

 アルもまた、必死になって言った。


「……正気を取り戻せなければ殺します」

 他国の王子に頼まれたことでライナはようやく願いを聞き入れ、剣を鞘に戻した。

 だがその時、ジルの体は異様な変化を見せていた。落ち着くどころか、ジルの容態は酷くなっていくようだった。呻き声から、叫び声に変わる。


 ジルの小さな体はいつしか大きくなっており、骨格や体の形が人間のそれとはまるで違う生き物へと変化していく。ジルの腕や足、他の部分も毛が伸びていき、彼の肌を全て覆い隠した。

 周囲で見ていた者はジルの変貌を間の当たりし、恐れ慄いた。


「自分を失くしては駄目、がんばって、ジル!」

 パティは誰かが止めるのも聞かず、前に出て、ジルに向かって叫んだ。

 パティの胸は、煩いくらいの鼓動が響き、ずきずきとした痛みが広がっていた。


 パティは、なぜか前にも同じようなことがあった気がした。だがパティの声も、ジルの耳には届かなかった。

 ジルの姿は鈍色にびいろの毛を持つ、一回り大きい狼のような獣の姿になり、漆黒の眼が鈍く光っていた。


「あの姿、まるで魔物ですね」

 ネオは、悪気もなく、そう口をついて出ていた。 

 ジルの姿が完全に狼に似た姿に変わると、少年はもう苦しまずに、警戒をしながら周囲を見回し、ぐるる、と喉を鳴らした。

「この、魔のものめ!」

 ライナは仕舞った剣を再び抜き、構える。

 その殺気を感じ取った狼のジルはライナの方を向き、走り出した。


「ジル、よせ!!」

 ロミオの制止を振り切り、ジルはライナに襲いかかった。


 ライナはかかって来るジルに剣を振った、が、ジルは剣をいつの間にか生えた牙で噛み、剣を食い止めた。

 ジルは獣の力で剣を押さえるライナを押していき、ライナはもう倒される寸前だ。


 アルがジルを止めに入ろうとしたが、

「ジル、やめろ! 僕を見るんだ!」

 と、ロミオの叫び声が響いた。


 ロミオは銃を構えていた。

 まさか撃つ気か、とアルたちはぎくりとしたが、ロミオは撃つ気などなく、ジルの気を引くために銃を構えたのだ。

 ジルはロミオの思惑通り、銃に向かい、ううう……、と唸り、吠えた。


「ジル、来い!」

 ロミオがジルを呼ぶと、ジルは眼を光らせ、ライナから離れると今度はロミオに向かって走った。


 ジルの獣の牙がロミオを襲う――。

 ロミオは銃をその場に置くと、腕を広げていた。

 ロミオは逃げるでも迎え撃つでもなく、ジルを、我が子を抱くように、抱き締めたのだ。


 ――皆が気付いた時には、ジルの太い牙は、ロミオの肩に食らいついていた。

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