62 帰還
焦る二人の少し後ろで、ジルは冷静にその光る切れ目を見つめていた。
「……大丈夫だ。何とかなると思う」
ジルは二人を見ずに、視線は上空の切れ目に向けていた。ジルは抑揚のない声音で静かに言った。落ち着いた口調だが、ジルの漆黒の瞳には感情が見えなかった。
「ジル、どういうことだ?」
「飛ばすんだ、二人を。あそこなら、多分届くと思う」
「飛ばすって、もしかして――」
ロミオは少し嫌な予感がした。
「ジルが投げてあそこまで飛ばすってことか?」
ジルはロミオを見ずに頷いた。
「まさか、そんなことできるのか? 二十メートル以上はある」
アルは言ったが、ロミオは、ジルの言葉は真実だ、と思った。
ジルは普段、力を押さえて暮らしていた。
どんな酷いことをされてもジルが耐えていたのは、恐れていたからだ。もし、憎しみに駆られ人々に自分の力を向ければ、取り返しのつかないことになると――。
今目の前にいるジルは、平常に見えるがそうではなかった。感情を失くしかけている。
ロミオはジルを見て、不安に駆られた。
(ジルは、魔族への道を進もうとしている?)
「ジルは怪我をしているだろう、無茶だ」
ロミオは、今はそれどころじゃないと考えを遮り、ジルがグラシャスから攻撃され、怪我した箇所を見て言った。
ジルの肩と背中は、服は破られ肌が露出していた。肌は赤黒く腫れ、血は止まっているが傷は浅くなかった。痛むだろうし、激しく動けば再び出血するだろう。
「大丈夫だ」
「ジル、僕たちを上手くあそこへ放れたとして、ジルはどうする? 切れ目を通らないと元の世界に帰れないんだぞ」
「オレは平気だ。こんな怪我は何ともない。あそこへも一人で飛べる」
ジルがロミオにそう言った途端、ぱりん、とすぐ近くで何かが割れる音がし、ぐらりとその世界が揺れた。
薄くなった世界が揺らぎ、立っていることもままならない。
「ロミオ、ジルに賭けよう。他の方法を探す時間がない!」
アルは揺らぐ足元に視線をやり、叫んだ。
ロミオも、もうそうするしかないと解っていた。
グラシャスの言葉が真実だとすれば、このまま何もせずここにいれば三人とも夢に閉じ込められ、死ぬことになる。
「ジル、頼む。飛ばしてくれ!」
ロミオがいうと、ジルは頷き、ロミオはまずアルから行くように促した。
ロミオは足を怪我しているので、うまくできるか不安があったからだ。
「アル、オレの腕に足を乗せて」
ジルとアルは切れ目の真下に立ち、ジルは両手をがっちりと組んでアルの前に屈んだ。
「わかった。ジル、いち、にのさんで飛ばしてくれ」
アルはジルの漆黒の瞳を見て、その肩に手を置いた。ジルは何も言わず、アルが足を乗せるのを待った。
アルがゆっくりとジルが結んだ両手の手の平に足を乗せた。アルはその時、なぜか、禍々しいような気配を感じた。
アルには魔の気配を感じ取る力はない。
それにパティはジルに魔の気配はするが嫌なものではないと言っていた。しかしどうしてか、アルは、ジルが普段の彼とは違うものに思えた。
ジルはアルが乗ると、いち、に、と小さく言い、立ち上がると同時にさん、と少しばかり大きな声で叫んだ。ジルはその瞬間力を込めて腕を振り上げた。
ぶわっ、と風切る音がし、アルはジルの力によって上空に飛ばされた。
ジルは真上にアルを飛ばし、その勢いは凄まじく、光る切れ目を随分と上回っていた。
アルは降りて来て、丁度切れ目のところに差し掛かると、そこで手を伸ばして切れ目を掴んだ。掴んだその腕の力で体を持ち上げて、切れ目の中へ足を踏み入れた。
ロミオはそれを見届けると、続いてジルに、同じように体を飛ばしてもらう。
ロミオの体は、さっきのアルよりも更に上へと飛んだ。
ロミオは何とか切れ目に掴まろうと、降りて来た時に腕を伸ばすが、態勢が崩れ、切れ目を掴み損ねてしまった。
(落ちる……!)
ロミオはごくりと唾を飲んだ。
真っ逆さまにロミオは落ちていく。しかしロミオはすぐに服の裾をがっ、と掴まれ、強引に引っ張られて体は上がっていた。
ジルが自分が飛び上がってロミオの体を掴んだのだ。ジルは、始めからそうするつもりで、アルよりも高くロミオを飛ばしていた。
現実世界に繋がっている切れ目の丁度前まで来ると、ジルはロミオの服の後ろ襟を掴んで片手に持ち、もう片方の手を伸ばして切れ目を掴んだ。
腕一本でロミオを掴み、もう片方は切れ目を掴んでいるため、ジルの小さな体には随分と負担がかかっていた。
腕に圧し掛かる重みで、グラシャスにつけられた背中が酷く傷んだ。しかしジルはその痛みはさほど辛くなかった。
ジルはあまり痛みを感じていなかったのだ。
ジルは知らずの内に魔の力を発動させていた。
ジルは腕の力だけで自分の体を切れ目までゆっくりと持ち上げ、ロミオもそのまま引っ張り上げた。
切れ目はもう消える寸前で、ジルとロミオを吸い込むと、色の薄くなった夢の世界と共に消え去った。
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