58 夢幻魔の囁き

 そこは不思議なところだった。

 見渡す限り草花が生い茂っているのに、白い、ふわふわとした浮遊物の上にそれが浮かんでいるのだ。


(これは……雲だ)

 アルは足元の草の下に広がっているものが地面ではないと気づいた。そこに土はなく、草も木々もが広大な雲の上に成っている。遠くからは川の水のせせらぎが聞こえる。


「どうやら、パティは天世界の夢を見ているみたいだね」

 背後から聞こえた声はロミオのものだ。ロミオはいつの間にか、また額にバンダナを巻いていた。

  彼の少し前には、きょろきょろと辺りを見回す少年・ジルもいる。彼らもアルの後から続いていた。

 雲は幾つかに分かれ、遠くまで続いていた。


「これが天世界か。美しいな」

 壮大な景色にロミオは感嘆した。

「急いで夢幻魔を探そう」

 アルは、天世界の美しさに見惚れるよりも急いでパティを助けなければ、ということで頭がいっぱいだった。


 一行は少し歩いたが、すると突如、靄が発生した。

「気をつけて。魔の臭いがする」

 ジルはきょろきょろと周囲を見回す。

 しかし白い靄が発生するばかりで、魔族の姿は見えなかった。風にのった靄は深くなり、景色はおろか、すぐ近くにいる筈のジルやロミオの姿も靄の中に消えていた。

「ジル! ロミオ!」

 アルは二人の場所を確認しようと叫んだが、返答はない。


『メイクール国の王子、アルタイア。我が根城に現れるとは、愚かな』

 女にしては低いが男にしては高い声が、まるで心に直接語り掛けるように響き、白い靄の中でその者の姿が浮かび上がった。


 その者は旅人のような格好をしており、白く短い髪に青白い顔、体は華奢で、派手な化粧を施していた。瞳は青くらんらんと輝いており、女のようでもあり、男のようでもあった。


「あなたは夢幻魔か? なぜ僕の名を知っている?」

 この魔族は心が読めるだろうかとアルは警戒した。

『ふふ、俺の名はグラシャス。そう呼ぶといい。王子、美しい魂を持っているな。強く気高く、優しい心を持つ汚れなき魂だ。だが、傷を負っている。しかしそれもまたいい』

 グラシャスが長い爪で顎を触ると、アルは腰から黒い刀身の剣を抜いた。

 剣は現実と同じに重く、握った感触も同じだった。


(夢の中でも変わらず剣を扱えるのか?)


 アルは剣を構え、グラシャスを見据え、切りつけた。

 しかしグラシャスは口の端を持ち上げ、霧となって消えたのだ。

(幻……!)


『アルタイア、よせ。お前を攻撃する訳じゃない。お前にとって良い話をしてやる。どうだ、俺と取引をしないか?』

 アルの背後で、グラシャスの声がした。

「取引だと? 馬鹿なことをいうな。魔族と取引なんてする訳がないだろう。グラシャス、あなたは多くの人の命を奪った魔族だ。僕が終わらせてやる」

 アルは剣を構えたが、先ほどは靄を切っただけだった。夢幻魔の実態はそこには存在しない幻のようなものなのかと思い、再び切りかかりはせず、アルは警戒するだけに止めた。


『偽りではない。価値のない者とは取引しない。逆に言えば、お前の魂には価値がある。その魂の輝き……、稀有なものだ。お前の悲しい記憶を封じてやろう。そうすれば、王子を苦しめるものはなくなる』

 アルの脳裏に、グラシャスの声は響き続ける。


『アルタイア、お前は自由になれる。心に一辺の悲しみのない、王となれるんだ!』

 アルは、声を振り払おうと頭を振った。

 だがその声は抗い切れない吸引力を持ち、アルの心の弱い部分を突いてくる。

『俺はお前を殺さないし寿命も縮めはしない。ただお前が寿命で死んだ時に魂を貰うだけだ。魔族にとってそれは遠い未来だとは感じない。だから俺は命が尽きる時まで待ってやろう。王子にとって悪い話ではない』

 無論、アルは契約する気など毛頭ない。自分の犯した罪も、大切な友を忘れることもない。

 しかしアルの脈は大きく波打ち、否定の言葉を口にできなかった。



(これは……魔族の仕業か)

 ロミオは何も見えない靄の中、周囲を見回し、銃を手に取った。


『お前は石を持つ人間か。やはり神が選ぶだけある、お前の魂もまたいい』

 靄の中から声が聞こえ、ロミオはびく、と肩を震わせ振り返る。そこには腕を組んだ華奢な者が立っていた。

「それはどうも。褒めて貰って何だが、お前を倒すぞ」

 夢幻魔の姿を認めたロミオは、平生を装い、銃口を向けた。


『撃ってみろ』

 グラシャスは笑ってそう言った。

 ロミオは銃を構えていたが銃口から弾が出ることはなかった。

『お前は撃たないな。そんなものを撃てばこの天使の身体はどうなるか知れたものではないからな』

 ロミオも解っていた。

 この空間がパティと何らかの形で繋がっている以上、無闇に銃を撃つことなどできない。


(夢の中という未知の領域ではこの戦いは不利だ。こっちは思うように武器も使えない!)

 ロミオは銃を腰のフォルスターに戻すと、短剣を取り出した。


『お前にはさらに長けた知識をやろう』

「何の話だ?」

『分かっているだろう。とぼけているな』

 ロミオは短剣を顔の前に構え、腰を低くする。

 ロミオは勿論解っている。魔族は契約をしようと言っているのだ。


「僕は知識が欲しい訳じゃない。人の探求心は自分の力で解明してこそ価値があるんだ!」

 ロミオは叫び、剣を手に駆け出し、グラシャスの前に突き出す。

 魔族はそれを避けた。続けてロミオは何度も短剣で切りかかり、何度目かにロミオは確実にグラシャスの肩から胸、腰までを切った。だが切った箇所から夢幻魔の身体は周囲を覆い隠す靄と同じものになったのだ。


 グラシャスは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。

『ロミオ、お前は本当は怖がっているな。あの魔族の血を引く子供を』


 それを聞いて、ロミオの空色の瞳に初めて迷いが浮かんだ。

『俺は解っている。俺の根城に現れた者の心は手に取るように見える。お前があの子を手元に置いておくのは研究のためだ。父親を殺した魔族を殺す道具を作るためだ』

「違う、僕は、そんなこと、思っていない!」

 ロミオの瞳は戸惑いに揺れ、彼は剣を持ったまま、一歩下がった。

「違う……! 僕にとってジルはー」

 ロミオは顔をしかめた。

 

 ロミオの感情の高ぶりに呼応し額の石が輝き始め、そのせいで彼は頭痛がし始めたのだ。

 ロミオは痛む頭を振った。石が熱を帯びたことでロミオの手は彷徨うように額のバンダナにのび、それを取ると、額の石が再び露わとなった。

 石は眩しいほどの光りを放ち、すると目の前にいたグラシャスは、ふっと、突然に消えた。


(やっぱり幻か)

 ロミオの額の光は彼が冷静さを取り戻した時に消えた。

 グラシャスが消えたと同時に周囲を覆い隠していた靄も消え、徐々に景色が見え、少し離れた場所にいたアルとジルの姿も現れた。

「二人とも、大丈夫か!?」


 ロミオが二人を見つけて叫ぶと、アルが頷いた。

 ロミオはジルの方に駆け寄り、ジルの背丈に合わせて屈み、両肩を掴んだ。

「ジル、大丈夫か?」

 ともう一度目を見て訊ねたが、ジルは心ここに有らずと言った様子で、目の焦点が定まっていなかった。だがロミオの声にはっとしたジルは、ロミオの腕を振り払い、

「……大丈夫だ。オレに構わなくていい」

 と、視線を避けるように背を向けた。

 ロミオはジルの態度に違和感を覚えたが、今はそれを気にしている時ではなかった。


『もういい、気が変わった。お前たち、皆死ね!』

 かっと眼を見開き、消えた魔族、グラシャスが突如上から現れた。

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