15 リサとアンソニー

 ダンの紹介で、二人はリサの店の二階に泊まらせてもらえることになった。普段は宿屋をやっている訳ではないが、客二、三人が泊まれるようになっていた。

 ダンが金を払ってくれていた。貴重なナイフを貰えた礼だそうだ。


「二人とも、来たわね」

 店のドアを開くと、栗色の髪の女性が明るく声をかけた。

 リサは仕事を終え、店を閉めて食器を棚に閉まったりテーブルを拭いたりしていた。リサは長い栗色の髪を後ろで束ね、ストンとした黒いワンピースにエプロンをつけていた。


「リサ、お邪魔します」

 パティは言い、ロゼスは、世話になる、とだけ言った。

「ダンの頼みだもの、遠慮しないで。お風呂沸かしたわ。入っていいわよ」

「お風呂?」

 不思議そうに繰り返すパティ。

「パティ、あなたお風呂を知らないの? 呆れたわね。汚れを落として体を洗って、温まるの」

「……水浴びのようなものでしょうか」

 パティはそう呟き、小首を傾げた。


「とにかく、入ってみなさいよ」

 と、リサはタオルを持たせて天使の背中を押した。 


(わあ。温かい。なんて気持ちいいのでしょう)


 人が一人入れるくらいの木の箱に湯が張ってあり、パティは服を脱いで浸かった。 

 その心地良さに感動した。水浴びよりずっといい。足先までじんわりと温まり、眠くなる。


 パティが風呂から上がると、片付けの終わった店で、リサは一人、カウンター席に座り、酒を注ぎグラスを傾けていた。彼女はそれを一口飲んだ。

 ロゼスはというと、パティが上がったので風呂に入りに行った。


 リサは酔っていて、頬を少し染めていた。

 しかし彼女の瞳は酷く悲しげで、何だか放っておけず、パティはその隣に腰かけた。するとリサは指で氷を回して静かに歌い始めた。


 あなたに会いたいのに、会えないの

 愛しいあなたは行ってしまった。遠くの国へ、遠くの街へ

 私のことなど忘れてしまって

 かわいい人と結ばれたのだと誰かが言った

 それなら私はどうすればいいの?

 あなたに会いたいのに

 なぜ何も言ってくれないの?


 それは悲しい愛の歌だった。

 口ずさむようにリサは歌う。彼女の頬には一筋の涙が伝っていた。

「リサ、その歌――」

「ええ、そう。私の歌なのよ。本当のこと」

 リサは俯き、悲しい瞳で語り始めた。


「私には愛する人がいるの。優しくて温かい人よ。あの人は私と結婚するためにお金を稼ぐと言っていた。でも旅に出たあの人は帰って来なかったわ。もう二年も経つのよ」

 リサはくすりと笑みを浮かべ、ばかでしょ、と言った。

「まだその方を待っているのですか?」

「わからないわ。いつの間にか時間が経ってしまった。ダンはね、国を訪れた時たまに来るだけだけど、私の事情を知っているの。彼は優しいのよ。もう待つのはやめろとか、そういうことは何も言わないわ。ただ私の話を聞いて、そうか、と相槌を打つのよ」

 リサは立ち上がり、涙を拭いた。


「でももう終わりね。私、国に帰ろうと思うの。こんな娘だけれど、母が待っていてくれるから」

 リサは、故郷に残した母に思いを馳せた。懐かしさと娘に会えずにいる母に申し訳なさが込み上げた。


「リサ……、わたし、何と言っていいか――」

「何も言わなくていいわ。困らせてしまったわね、パティ。誰かに聞いて欲しかっただけだから気にしないで。でももうこれで終わりよ」

 リサはそう言い、立ち上がった。

「何か飲むものを取ってくるわ。喉が渇いたでしょう」

 パティは立ち上がったリサの肩に、そっと触れた。

 リサは振り向いてパティを見ると、少女はそっと微笑み、そのままでいて、というようにリサを席に座らせた。

 パティは立ち上がり、カウンターテーブルの中に入り、目を閉じ、息を整えると瞳を開いて歌い始めた。


 かなしいことも、幸せなことも

 全て あなたを形作るもの。

 わたしにはわからない

 その痛みも苦しみも。

 でも わたしは知っている

 強く逞しい者ほど涙を流してきた

 誰が言ったのか どこから聞いたのか

 でも それはほんとうのこと

 わたしの歌で あなたを癒せたならいいのに

 わたしは 天使だから


 パティの七色にも見える瞳は煌めいていた。

 小さな天使の歌は、飛び抜けて上手くはなかった。元々パティは、天使が得意とする歌や踊りは上手ではなかったが、リサの目には涙が溜まっていた。


 パティの奏でる美しい澄んだ音色はリサの胸にすっと溶けていった。心に触れる優しい音色は、吸い込まれそうなほど美しいその天使の瞳の輝きにも似ていた。


「ああ、パティ、あなたって……」

 やっぱり天使なのね。

 そう言ってリサは涙を浮かべたままそっと微笑んだ。

「ありがとう、パティ」

 照れたパティにそう言ったリサの背後で、カランカラン、と乾いたドアの飾りの音が鳴った。


「すみません、もう、閉店なんですよ」

 振り返り、立ち上がったリサが見たのは、ぼろぼろの服を纏った傷だらけの男だった。


 パティは困惑した。

 男の片足は膝下がなく、松葉杖で体を支え、片方の腕は包帯で覆われ、片目は潰れたようで顔の半分近くも包帯を巻き、もう片方の目は虚ろに開かれ、リサを見ていた。リサも男に戸惑っていたが、パティとは違った理由だった。


「アンソニー……?」

 リサは男の目を見て、そう呟いた。

 アンソニーと呼ばれた男は無表情に彼女の声を聞いていた。立っているのがやっとなのか、息も荒く、ふらふらとしている。


「……リサ」

 男は僅かに唇と動かし、掠れた声を発した。

 アンソニーは少し微笑んだようにも見えるが、パティには、男からはまるで生気が感じられなかった。


 アンソニーは戦争で文字通り命を削る戦いを強いられた。彼は異国の地で金で雇われた傭兵となり、腕を折り、片足と片目を失い、内臓も損傷していた。松葉杖でようやく体を支え、老人のようにゆっくりとした足取りで歩き、ようやくここへ辿り着いたのだ。


「リサ……俺はもう、本当は君に会いに来るつもりはなかった」

 アンソニーは苦しそうにそう言い、夢も希望も失くした瞳でリサ見た。しかし次の瞬間、アンソニーははっと息を飲んだ。

 リサが駆け寄ってきて、彼の体を抱き締めたのだ。

 彼女の温かさと、自分より小さな体なのに、その力強さにアンソニーは魂を揺さぶられた気がした。


「戻ってくれたのね、アンソニー。それでも、私のところへ戻ってきてくれたのね……」

 リサは大粒の涙を流していた。

 アンソニーの変わり果てた姿を目にした悲しみと、彼が生きて戻って来てくれた喜びが入り交じり、彼女の頬を絶え間なく濡らしていた。


「リサ、俺は多くの金を手に入れられなかった。それだけじゃない、俺は何もかも失った。足も、目も、気力も、力も……。俺はもう何も持っていない」

 リサは、分かっている、というように頷き、アンソニーの胸の中から顔を出す。抱き締めながらも、ふらつく彼を支えていた。


「私は始めから、何も要らなかったわ。ただそばにいて欲しかったのよ」

 アンソニーは複雑な思いを抱えていた。

 リサのことは心から愛している。しかし一緒にいれば苦労をかけるだけだ。自分はお荷物にしかならない。リサは自分を捨てられない。だから彼女の元へ戻ることを躊躇っていた。


「アンソニー、あなたは何も持っていないことはないわ、私に生きる希望をくれた。だから、一緒に生きて」

「俺は足手纏いになるだけだ。分かるだろう?」

「それでもいい! それでもいいから、一緒に生きて。あなたにできることを私も探すから、一緒にいさせて」


 アンソニーの虚ろだった片目からは美しい涙がつうっと流れた。

 やがて二人は見つめ合い、キスをした。


 パティはそっと二階へと上がり、自分が泊まる部屋へと入る。


(二人はこれから一緒に生きて行く。けれど――)


 アンソニーは長くは生きられないかもしれない。

 パティだけではなく、彼の姿を目にした誰もがそう思うだろう。それはとても悲しく、痛ましい事実だった。パティは涙を拭った。


 朝になり、パティはロゼスと共に店を出た。

 リサはどこだろうとパティが思っていると、リサとアンソニーは寄り添い、店から少し離れた芝生の上に座っていた。


「リサ、もう行きますね。二人とも、お元気で」

 パティは二人に近づき、別れの言葉を告げた。不意にパティの脳裏にある方の言葉が閃いた。


≪人の命は儚い。だが人は命を繋ぐことができる≫


 それはパティの敬愛する、地の神バグーラの言葉だ。

 今思えばバグーラは不思議な神だった。まるでパティに地上に降りることを諭しているようなところがあった。


 命を繋ぐ――。

 それはアンソニーの命は、リサの心に宿る、ということだろうか。二人は年老いるまで一緒にいられなくても、今、一緒に生きることができる。それは正しいことなのだろうか。パティにはよく分からなかった。


「ロゼス、あなたは愛を知っていますか?」

「なんだと?」

 ロゼスは眉根を寄せ、何を言っているんだ、という目でパティを見た。

「さあな。俺にはよくわからない」

「そうですか」

 普段と違い、それ以上はパティは何も言わなかった。


「――あの二人のことか」

 ロゼスは全てを察したように、別れを告げた二人の男女を眺めた。


 ロゼスは、アンソニーの命は、長くてもあと数年だろうと思った。

 顔色が悪く、体中に巻いた包帯から内臓の一部を損傷していることは明白だ。

 あの男は望んで戦争に行った。そのつもりはなくても、命があっただけ運が良かったのだ。


 ロゼスも、かつて一度だけ戦場に赴いたことがある。メイクール国のマディウス王は戦争を嫌い、上手く戦乱から逃れてきたが、メイクールと友好条約を結んだ国からの依頼で兵士が派遣されたことがあった。主だった戦争は八年前のウォーレッド国とファントン国以来ほとんど行われていないが、隣国の小競り合いや領地拡大を目的とし、一部の国では戦争は起こっている。


 その時、メイクール国からは数百の兵士が戦争に赴いた。その中にロゼスもいた。しかし戦争はあっという間に若い兵士たちの命を容易く奪っていった。

 ロゼスはその無残な光景を未だに忘れることはできない。


「パティ、彼らを不幸だと思うか?」

 ロゼスのグレイ色の瞳は、いつもと変わらずあまり感情がなく、しかし強い眼差しだった。

「お前の物差しで測るな。彼らの幸福は彼らが決める」

 ロゼスはリサとアンソニーに同情してはいなかった。


「ロゼス、わたし……天使としてでしかリサたちを見ていなかったのですね」

 パティは七色の瞳を少し曇らせて言った。


(二人は不幸なんかじゃない)


 例え残された時間が少なくとも、彼らは生きる意味を知っている。愛を知っている。かけがえのない時を知っている。

 

 リサは、別れ際にパティと抱擁をした。

 彼女はもう悩んでいない。涙の影すら見えなかった。

「パティ、私、昨日の歌を忘れないわ。私、もう大丈夫よ。きっと強く生きてゆくわ」


 ――強く生きてゆく。

 パティは、リサは昨晩とは違い、力強さを感じた。


「リサ、アンソニー! 幸せを祈っています!」

 パティは少し離れてから、二人に大きく手を振った。

 

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