第4話 ティートゥリー
TP、Alb、GOT、GPT、LDHにHbA1c。
こんなに略号の嵐に向き合ったのはいつぶりだろう。
私の手術は2週間後に決まった。
医師から検査の必要を告げられたのは1ヶ月前の事だ。
CT、MRI、PET。
そうか、検査が始まったあの頃から略号の暴風警戒警報が出ていたのか。
幸い命に関わる状況ではないが、やはり手術は必要らしい。
手術までの間、風邪をひくことがないようにと注意を受けた。
以降、不織布マスクにガーゼマスクを重ねての2枚重ねマスク着用が絶対となった。
手術前の最終説明と承諾書などなどに加え、血液検査の結果も付け加えた書類の束を受け取ったのは1時間前だ。
そのまま家に帰っても良かったのだが、少し気分を変えたかった。どうせ夫は老人会の会合に出ているし。
道端にふと漂ってきたコーヒーの香りになんとなく足を止められ、入り口の意外に軽いドアを通過しテーブル席に座る。
客は私一人だった。
メニューからジンジャーティを注文する。
マスターは古いギターブルーズが静かに流れる店内を横切り、奥に引っ込んでいった。
マスクを外してないことに気づき、カバンにしまい込んだのだが、そのとき薄いピンク色の血液検査結果が目に止まった。
何気なく取り出し略号の嵐にもまれて、今に至る。
「お待たせしました。」
嵐を晴らす一言が聞こえた。
ガラスのティーポットの中で数種類のハーブとジンジャーチップが踊っている。
カップに移し替えたジンジャーティをひとくち含む。
軽い苦味と刺激が口の中で溶け合うのが心地よい。
ジンジャーの芳香が鼻に抜けるのがわかった。
頬杖をつき、血液検査に目を落とす。数値はすべて異常なし。
手術への航路は全く問題ないようだ。
眺めていても仕方がないことにハタと気づき、カバンにしまい込む。
そういえば、嫁が渡してくれた今日のガーゼマスクは不思議な匂いがした。
息子夫婦は私に手術の可能性があると聞き帰ってきていた。
休みを取ることができたらしい。
私を気遣ってくれるのはありがたいことではあるが、私は嫁に対してどうにも素直になれないところがある。
嫁は明るく、物怖じしない性格なのだが、ときにそれが鼻につく。
一緒にいるのは1週間が限界だ。おそらく、息子も私の感情を察しているのだろう。
家事をちゃかちゃかと済ます嫁を見て、「ありがとう」というべきなのはわかるが、つい当たり前という顔をしてしまう。
洗濯物を干している私に、手伝おうと声をかけてくれるのはありがたいが、私はまだ嫁に自分の下着を干させるほど落ちぶれてはいない。
夫は不機嫌な私をみて、いい加減にしろというオーラを発している。
わかっている。わかっているのだが。
これが数多の母親を支配してきた姑感情というものなのだろうか。
今日がおそらく入院前の最後の診察日であろうということは息子を通じて嫁も知っていた。
嫁は朝早く起き、夫や息子の朝食を整えていた。
私は朝食抜きを医師より命じられていた。
身支度を整え不織布マスクを着けながら玄関に向かう私を、手にガーゼマスクを持つ嫁が後ろから追ってくる。
しぶしぶと受けとり上から着けたのだが、そのマスクが不思議な匂いがしたのだ。
カウンターから出てきたマスターが何やらごそごそとしているなと思うと、夏場に時折見かけるガーデンミストのような音が小さく聞こえてきた。
わずかな空気の流れに乗り私のテーブル席まで届いた香りは、今朝のマスクと同じ香りだ。
マスターに問うと、小さな茶色のガラス瓶を渡してくれた。
瓶の横には何やらアルファベットで書いてある。
略号ではないが、しばらくはアルファベットを見たくない。
机に置くと、キャップにカタカナが書いてあることに気づいた。
ティートゥリー。
お茶の木?
再びマスターに問うた。
オーストラリアのアボリジニが件の木の葉を煮出して飲んでいる姿をイギリス人が見たとき、紅茶を飲んでいると勘違いしティートゥリーと名前をつけたらしい。
風邪予防にも良いとされるとのこと。
聞けば、マスク姿の私から同じ香りがしたため、これを選んだとのことだ。
マスクにティートゥリーで作ったスプレーか何かをつけておられるのだろうと思ったというのはマスター談。
おそらく、嫁の仕業だろう。
夫も息子もそんな気の利いたことをするわけがない。
マスターによると、ティートゥリーには気持ちを落ち着ける効果もあるらしい。
ガラスポットのジンジャーティは空になっている。
カバンからマスクを出し、顔を覆った。
一度軽く息を吸い吐き出した。
不思議な香りはまだマスクの中で続いている。
今日ぐらいは姑感情から私を解放してみようか。
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