第3話 フランキンセンス
青年は地元野球少年団のコーチだ。
カウンターに出されたカモミールティを見つめ、大きなため息をついた。
どうも最近物事が思うように動かない。
気持ちが塞ぎ込むことが多い。原因が何かはわかっている。問題は、それが複数あること。そして、餌に群がる魚のように同時に襲ってきたことだ。
何かの壁にぶつかることはあっても、それなりに乗り越えてはきたが、壁にぐるりと自分を囲まれたのは初めての経験だ。
壁その一はチームの選抜問題。
これは俺には直接の決定権はない。監督が決める。のに、チームの親たちは俺にうちの子をなんとかとアピールしてくる。直球で頼んでくるなら躱しようもあるが、遠回し遠回しに、しかしビシビシと選抜メンバーに加えてくれるよう押し出してくる。
それなりに真剣に向き合うのは後々の付き合いに関わることでもある。
腰を据えて話をしようとじっくり話しているとすぐに数十分の時間が経つ。
やれやれ、帰ろうかとすると遠巻きに順番待ちをしていた親に捕まり、気がつけば夕食の時間を過ぎていることもしばしばだ。
で、ここ数日は最後の逃げの一手で決定権は監督にあるを連発していたのだが、監督から「今回の選抜メンバーは君が選んでみてくれないか」とのメッセージがスマホに届いたのがつい三十分前だ。どうやら、親たちと話し込んでいた事が、親たちから信頼されているというとんでも無く迷惑な評価を下させたらしい。
速攻「無理です」とメールを送ったのだが、今回は試しにやってみてくれと有無を言わさぬ返り討ちにあった。
壁その二は家業を継ぐか問題。
実家は花屋を営んでいる。
最近ではインターネットでの受注も多く、それなりに経営はうまくいっているらしい。
子供の頃から植物に囲まれていたので、花屋独特の緑の濃い匂いも好きだ。門前の小僧もなんとかで、見よう見まねだがフラワーアレンジメントもできる。
弟はまだ学生で、時々店を手伝っているが、後を継ぐ気は無いと言い切っている。
「兄貴の方がセンスもいいし、第一俺が勉強しているのは花屋とは全く無縁の分野だ」というのが工学部に通っているあいつの言い分だ。
つい先月、親父が倒れた。正確にいうと、腰を痛めてしまった。一週間ほど入院しブロック注射でなんとか普通に生活できているのだが、めっきり自信をなくしてしまったらしい。今までは遠回しだったのだが、最近は、お前に継いでほしいとかなりはっきり言うようになった。
今の職場に入社し三年。それなりに仕事を覚えたつもりだし、エスカレーター式に後輩もできている。
タチが悪いことに、俺自身、今の会社にも実家の花屋にもどちらにも魅力を感じている。
一介の会社員で一生を終わるつもりであれば何も悩む必要はないのだが、いずれ家業を継ぐとなると、それは経営者になるということだ。
あまり悠長に構えていると、経営のノウハウを体得するタイミングが遅れてしまい、先々梃子摺ることになりそうだ。さて、どうする。
壁その三は恋人問題。
由香里は俺には過ぎた恋人だと思っている。
チーム、仕事、実家とそれぞれに振り回されてろくに会う時間を取ることもできないのに、良き理解者になってくれている。
彼女そのものには何も問題はない。むしろ、俺には過ぎた人だ。
問題は、彼女の仕事だ。
転勤の話が出ている。しかも離島だ。
遠距離恋愛になる。
自分の時間のコントロールすらできないお前に、遠距離恋愛なんぞできっこない。お互い自由になるのも彼女への愛情なんじゃないか。などという俺にとっては迷惑この上ない、でも頷かざるを得ないアドバイスをする奴もいる。
で、壁その四。
今月、少々金を使い過ぎた。月末ピンチだ。
もう一度大きなため息をつくつもりで、鼻から息を吸ってふと息を止めた。
ゆっくりと肺に溜まった二酸化炭素を鼻から吐き出しつつ、ことさら愛想がいいわけではないが、無愛想でもない絶妙な立ち居振る舞いで、カウンター奥の重い扉に手をかけたマスターに聞いてみた。
「マスター。この香りは?」
「フランキンセンスです。ストレスにいい香りだと言われています。男性の失恋にも使うそうですよ」
彼女との待ち合わせに数回使ったので、マスターも彼女を見知っているはずだ。多分、マスターなりのジョークなのだろう。
「大きなお世話です。」
カウンターに置いてある遮光瓶を手に取り、左手首に一滴付け右手首と合わせこすり合せる。そして、手のひらで鼻から口を覆うようにして深呼吸をする。
マスターに教わった嗅覚法だ。
目を閉じ、ゆっくりと香りを吸い込む。
俺に群がっていた魚がいくらか散っていった。
一つ一つ、乗り越えるしかないよな。
まずは、選抜からやるか。その前に、彼女の声を聞こう。少しゆっくり話してみよう。次の休みは実家に行くか。え〜っと、カネ、カネはもう少しセーブすれば今月は凌げるか。
目を閉じたまま次の一手を考える。
俺の頭もなかなか捨てたもんじゃない。
少々癖のあるフランキンセンスの香りとカモミールティはあまり相性が良くないなと感じながら、残りを飲み干し俺は店を出た。
外には芳しい珈琲の香りが漂っていた。
明日もいい天気になりそうだ。
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