第2話 ラベンダー・アングスティフォリア

 二席隣にいた女性が出てから十分ほどが過ぎていた。

 美容院後の定番ルートでこの店にいる。


 扉を開けた瞬間にローズウッド製アンティック家具とほんのわずかなコーヒーの香りが鼻をくすぐった。

 二〇代の頃にニューヨーク郊外で嗅いだ香りと似ている。

 流石のニューヨークも郊外になると庭にリスが顔を出すほど緑豊かで、朝靄のかかる中を少しだけ優雅な気分に浸りながら散歩したものだが、その香りと似ていたのだ。


 ブレンドのアメリカンを頼み、残り四分の一ほどが残っている。


 五分ほど前から軽く聞こえていた換気扇の音が止まった。

 マスターはディフューザーのボトルを交換し、ホーウッドが入っていたボトルを無水エタノールで洗浄し終え、カウンターの定位置に収まっている。


 「少し安易すぎますが、北海道におられたとお聞きしましたので」

 定位置から届いた声は、これ以上ないほど飾り気のない、それでいて心地の良い声だった。

 私は、少し急いで残りのアメリカンを飲み干した。


 数秒後に届いた香りはラベンダー畑のそれだ。

 目を閉じると、一昨年夫と訪れた風景が浮かんだ。


 チーズ用のミルクを採るための牛用の飼料を研究し販売するのが私の夫の仕事だった。

 チーズを直接製造しているわけでもないのに、夫は仕事帰りに意味もなく近くのマーケットに立ち寄りチーズを買ってきていた。

 どれほど違いがわかっているのか私には知る由もなかったが、同じメーカーのチーズを一口頬張り、軽く頭をひねる日もあれば、満足げに頷く日もあった。

 やがて退職し、夫のチーズを買う頻度は徐々に間が空くようになった。


 「ここに行こう」

 どこで見つけてきたのか旅行雑誌のページを開き、突然夫が声をかけてきたときは正直驚いた。

 夫が私のリクエストも聞かずに旅行の行き先を決め、半ば強引に誘うこと自体稀なのだが、それに輪をかけて、行こうと言い出した場所は夫が今まで全く関心を持っていなかったであろうラベンダーの咲きほこる丘だったからだ。

 とはいえ、年甲斐もなく気持ちが高まったのは否定できない。

 翌日、インターネットに苦手意識の強い夫を尻目に私は宿泊先から移動手段まで全て予約してしまった。同じ道内なので、ある程度土地勘もあるし、それほど大きく悩む必要もなかった。何より、夫の気が変わる前に既成事実を作ってしまいたかった。


 出発の前夜、寝床で本を読んでいた夫は姿勢を崩さずポツリと言った。


「最近、匂いがわからない時がある」


 夫は匂いには敏感だ。

 勤めていたときは、上司のタバコの匂いに辟易していたし、私が美容院に行った日は見た目より先に匂いで気づいていた。娘の香水が変わったのにもしっかり気づいていたし、鍋のやけ焦がしなど誤魔化し様がないほど素早く気づいていた。が、確かに最近は、訪問者のタバコの匂いに触れることもないし、鍋のやけ焦がしは私の方が早く気付く。美容院に行ったことに気づくことも少なくなった。


 「そう。そういう時もあるんじゃない?」

 夫が何を気にしているのか思いもよらなかったし、ましてや、頭の中は翌日の出発のことでほとんどが占められていたため、私の軽い一言で会話は終わってしまった。


 亡くなった母が晩年やたらと心配性になっていったのだが、年をとると少なからずその傾向が強くなるのだろうか。丁寧にしまってあった旅行鞄は数日前から準備を始めており、出発当日には持ち出すだけにしていた。


 車窓を通過する景色は、遅れてきた春をこれでもかとアピールしてくる。

 短い夏が近づいている。

 ふと夫の横顔を見る。つもりがまともに目があった。

 少しの間があり、夫は私の奥を通過する車窓へ視線を移した。

 「すまないなぁ」

 あまりに唐突の言葉だったのではっきりと聞き取れなかったのだが、そう言ったように聞こえた。普段から口ごもって話す夫の言葉は、聞き取りづらいことが多い。いつものことだと思い、いつものように相槌を打ち、私は車窓に目を移した。


 チェックインを済ませた初老夫婦はラベンダー畑にいる。


 丘を撫でる風に乗り、ラベンダーの芳香が鼻腔を刺激する。

 くしゃみをしてしまった。

 夫は隣で眼下に広がるラベンダー畑を見下ろしている。

 「ラベンダーにも種類があるんだな」

 これははっきりと聞き取れた。

 「一度本物を嗅いでみたかった。」

 本物?と訝しく思ったのだが、歩を進めラベンダーが玄関に置いていた芳香剤の絵と同じ種類に変わったところで気がついた。

 夫が通勤していた頃、玄関の芳香剤にラベンダー表示のものを使っていた。ラベンダーにリラックス効果があると何かで聞き、それ以降、ラベンダーの香りという触れ込みの芳香剤を選んでいたのだ。

 玄関に芳香剤を置かなくなり久しいのだが、夫にとって仕事前後の香りとして印象に残っていたのだろうか。


 「帰ったら病院に行ってみようと思う。」

 またもや唐突の言葉なのだが、これには適当に相槌を打つことができない。

 「どこか調子が悪いの?」

 夫は、匂いがわからないことがあり、認知症の初期にそういうことがあるらしいと述べた。

 他人が聞けば普段と全く変わりない口調だろうが、不安を極力押し隠そうとした話し方であることが私にはわかった。


 「もしそうなら、匂いがわからなくなる前に、お前と本物を知りたかったんだ」


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 夫の治療のことも考え、夫の故郷に引っ越して一年半になる。

 時が過ぎるのは驚くほど早い。




 あぁ、そろそろ夫の診察が終わる頃だ。

 今ここを出ると、帰宅する夫を迎えることができる。


 マスターからラベンダー・アングスティフォリアを購入した。

 玄関にディフューズする予定だ。

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