精油の薫る喫茶店 〜優しい人達〜

@KeiNak

第1話 ホーウッド

ヒールで痛む足を休めるために選んだ喫茶店の扉は、思いのほか軽かった。

 5、6人が座れるカウンターと4人がけのテーブル二組。

 抑えた照明と静かに流れる音楽はどこからどうみても喫茶店、いや”昭和の喫茶店”なのだが何か違和感を感じる。


 「どうぞ」

 BGMの間を縫うような穏やかな声でカウンター席を勧めるマスターは、白いシャツに黒の蝶ネクタイとこれまた昭和の喫茶店のマスターそのものだ。

 グラスを拭いている。


 エスプレッソを頼んだ。

 今思えばアウトドアに過剰ともいえる憧れを持っていた頃、気の合う友人が手に入れた直火タイプのエスプレッソ・メーカーで淹れたエスプレッソを、焚き火の揺らぎを見ながら飲んだのを思い出したのだ。

 薪の燃える香りと濃いコーヒーの香りが絡み合い鼻腔を通過した瞬間は、特別な空間に自分がいると錯覚させるのに充分な刺激だった。


 「少しお待ちください」

 マスターはカウンター奥の音楽室にあるような扉の奥に消えた。

 

まだ、違和感は続いている。

 

 静かに流れるのはJAZZだ。レコードが回っている。

 自称音楽マニアの上司によると、スマホで聞く音楽はファーストフードのようなものらしい。本当の音楽好きはレコードだよ。と力説していたが、私にその違いはわからない。


 扉が開き、視界にエスプレッソが入った。


 マスターは先ほどと同じ場所に立ち、グラスを磨いている。


 違和感が消えた。

 それが何かわからないが、確かに消えた。

 ごくごく平凡なエスプレッソ。いや、マスターの名誉のために言うが、あの時のエスプレッソよりはるかに美味しい。が、ごくごく平凡。

 

 レコードを裏返しにマスターがカウンターを出た。

 

焚き火の香りがした。


違和感。


 エスプレッソを飲む。


消える。


 軽い扉が開き、客が入ってきた。


違和感。


 客は常連のようだ。

 初老の女性。ショートに軽いウェーブの白髪。落ち着いたツーピース。

小さなハンドバックだけを持っているところを見ると、買い物帰りではなさそう。

 「ブレンドをアメリカンでお願いします。」

 上品な声。

 マスターは重い扉の奥に消えた。

 右目の端で女性が水を一口含むのを意識しつつ、エスプレッソを口に含んだ。

 女性は軽く深呼吸をしている。一度だけだ。ため息ではない。

 見えない何かを体内に取り込み、ゆっくりと体を巡らせてから惜しむかのように音もなく吐き出す呼吸。

 静かな時が流れている。


 「お待たせしました。」

 ブレンドが届いた。一口含み、目を閉じている。

 

 マスターは同じ位置で相変わらずグラスを磨いている。


 腕時計は正午半を指している。

 あと十五分はゆっくりできる。次のアポイントは午後イチだが、場所はすぐ近くだ。


 グラスについた水滴を指先でなんとなく撫でてみた。



 焚き火とエスプレッソの夜は、思わぬ雨で終了となった。

 ゲリラ豪雨というほど大げさな雨ではなかったが、二杯目のエスプレッソを諦めさせるには十分だった。焚き火を見ながら徹夜覚悟で話し込むつもりが、文字通り水を差された。

 女二人、テントを打つ雨音を聞きながら意味もなく笑っていた。

 翌朝、とっさにひっくり返して置いていたステンレス製のカップとエスプレッソ・メーカーは、雨か朝露か知らないが、水滴で彩られていた。



 エスプレッソを飲む。

 あの焚き火を思い出す。


ふとマスターがカウンターの奥に消えた。

鼻腔にまた焚き火の香りが届いた瞬間、違和感の正体に気づいた。


 人が動き、空気が動くたびに、ほのかに香りが変わる。

 いや正確に言うと、焚き火の香りが私のみぞおちの高さにあるエスプレッソの香りと絡み、押し出し、押し返され、私を記憶の世界へ誘う。

 ほぼ全ての喫茶店に巣食っている、珈琲芳香分子占領軍がこの部屋にはいないのだ。

 店の外には芳しいまでのコーヒーの香りが漂っているのだが、この空間にその香りがない。

 代わりに、焚き火の香りがしている。


 カウンターの上にある小さな遮光瓶。ラベルにはCinnamomum camphora CT LINALOL と表示してあり、キャップにはホーウッドと書いてある。


 違和感の正体。コーヒーの香りのしない喫茶店。そして、代わりに焚き火の香り。


 女性は遮光瓶を手にし、マスターと話し始めた。

 「今朝はこれの気分だったのですね。」

 「ふと薪風呂の香りを思い出しまして。少し酸味のある木の香りでしょうか。」




  友人はまだあのエスプレッソ・メーカーを使っているのだろうか。

  焚き火の香りの記憶に、わたしはあと五分だけ浸ることにした。

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