三十九章
無精髭の一見して
「別にあんたらのことが好きで助けようとしたわけじゃあない」
「陸郁!」
小福が嬉しげな声を上げて抱きつく。破顔して「久しぶりだな」と鷹揚に頭を撫で、それから瑜順を一瞥した。
「その様子だと俺がすでに
「彬州はあなたの勝手知ったる庭かと。我々が浮条からこちらまで来るのに見張りがいないわけはないと思っていましたし、あなたはよく
「初めて英霜に来た時からか。あんなに短時間の細い煙に気がついていたとはな。そう、
「陸郁、貴方は淮封侯の息がかかっていると」
知らなかったと言った旧友には頭を掻いた。
「言うべきか迷っていたが、結局なあなあだったな。なにせ気軽に言えることじゃない。といえ、口止めもしてなかったから宇福あたりがお前に俺の名を出すかと思っていたんだが」
「おれは信用されてなかったのか?」
まさか、とおどけて
「お前は本当によくやった。
一転
「避けられた衝突だったとは思いますし、命を落とした民にも仲間にも許されようもない。しかし、今言っても詮無い。それにそれほどまでに確信しての忠告だったのなら、そちらももっと早くに正体を明かして我らと協調するべきだった」
「何言ってる。俺は『耳』だ。子飼いの
そう、とさらに声が低くなる。
「そもそもおたくらの頭目が
「あそこで従っていたとしてもどのみち泉宮で謀叛に
「いいや。あのまま族主と接触出来ていたなら計画ではそのまま内密に曲汕に連れて行くつもりだったんだ。そうすれば少なくとも巌嶽に入り込んだ敵を揺さぶれ、尻尾を出すかもしれんと踏んでいた」
「曲汕に……?では、あの時すでにあなたも謀叛の
是、と陸郁は荷を降ろして
「淮州ではすでに州牧と刺史の根回しで角族を
「……それはやはり、侯のご意向だったのですね?」
「ああ。淮侯――
「なぜ封侯なんだ?泉主には弟もいるだろう?」
中樊が問えば陸郁は首を振った。
「姜謙こそがすぐ下の弟に
加えて侵掠を企む角族から国を守った英雄という栄誉も添えられる。そう顎を撫でた陸郁に、だが、と文統が継ぐ。
「淮侯に神勅が戻るのはやはり考えにくい」
「その通りだ。黎泉の神勅というのは厳正なものだ。おおよそ当人の技量や器なんかに左右されるようなものじゃない。越位されたからにはそうされた理由が必ずあって、黎泉に一生に一度の降勅を授けられる為の何かが姜謙には決定的に欠けているんだ。本来越位なんてのは滅多に起こらない特殊な事態だ」
「ではやはり降勅は王太子に?」
「俺でもそう考える。だから急がなきゃまずい。もしかすれば、もう泉主は黎泉に神勅を取り上げられるような状態にされているやもしれん。そうなれば強制的に
河元が飲み込めない顔をする。「そもそもすでに齢十四の王太子をなぜいまだに昇黎させていないのか……。
「それは必ずしも正解じゃない。現泉主が病でも死にかけでもないのに在位中に継承者が昇黎するってことは、見方を変えればそれは
「というと?」
「次代の泉根が昇黎を受けた直後に泉主が崩御する。ここ三代、それが続いた。だから朝廷では王孫ができるまでは昇黎させないほうがいいのではという意見が出た」
文統も頷く。「元来、昇黎は朝議に
「……ならば、陸郁どの。我らの請願を聞き届け協力して頂けますね?」
瑜順の視線に陸郁は一度、息継ぎするように唸った。そしておもむろに籠を引き寄せる。中から取り出したのは小さな白い壺だった。
それを両手で持ったまま、睨んで前屈みになる。
「この際だから言わせてもらう。俺は淮州の民と同じく角族をよく思っていない。むしろ不信感のほうが強い。今は国軍と協力しているが、この乱が収まればまた我儘勝手にこの国を
「俺たちとて、采舞でのことで怨みができた」
中樊を見返し、陸郁は、だろう、と呟いた。
「この乱を共闘して平定させたとしても我々の関係は今までの事を全てさっぱり忘れて一からいうわけにはいかん。引き続きいざこざは耐えないだろうし、また鬱憤が溜まって内乱が勃発する可能性を常に
「何が言いたいのです」
「ただでさえ互いに
壺の口紐を解く。小福に離れているよう硬く言い放った。
「これは俺がある者から奪った
聞いて周囲の男たちは腰を浮かせた。
「本物ですか」
「それを今から試させてもらう。薬があるのだろう?」
言わんとしていることを悟り皆一様に眉間を
「待ってください、陸郁。ここで今効薬を試すと言っているのですか」
河元がわずかに唇を震えさせた。そうだ、と陸郁は布を払った蓋の上に手を置く。中で、ちゃぷり、と微かに水音がした。
「俺の手を借りたいという。見返りの金も爵位も
「薬がなければ平定は不可能なんだぞ」
「もちろん、分かっている。だが悪いが俺はごくふつうの一泉民、いいや、無爵の
ひとつ、と瑜順は感情なく指を立てる。
「この乱を角族が国軍と協力して鎮めたあかつきには、一泉のどこかの土地を割譲してもらうという契約はもう交わされている。これもあなたにとっては企みのひとつなのですか」
「すでに公に取り決めた約定について俺は意見する立場にない。言いたいのはあんたらが自分たちの犠牲を惜しまず自民族本位の戦い方をせず、
采舞の悪夢だけでは足りないと言うのか。
「我々は再同盟の決議からもとよりそのつもりで泉地に来ました。……つまりは、それを飲めばいいのですね?」
瑜順、と強い禁止の声が上がり、向かいの男が身を乗り出す。
「俺が飲む」
「中樊」
「いいな?」
有無を言わせない迷いのない瞳に瑜順は顔をしかめる。陸郁はついに蓋を開けた。
「強く嗅ぐだけで
「瑜順、薬を」
じっとりとした重苦しい空気が漂う。はらはらと遠くで小福が怯えた目で成り行きを見守っている。
喉を鳴らして、中樊は丸薬を飲み込んだ。いちど大きく息を吐き、瑜順を見返す。
「俺は一族とお前を信じてる」
言ったものの、本能としての危機感は隠しようもない。うっすらと玉の汗を浮かべたまま、陸郁が裏返した蓋に小壺を傾けて液体を垂らすのを見た。
無色透明の、水と寸分
蓋を受け取り、まじまじと覗き込む。瑜順は思わずもう一度彼の名を呟いた。
深く一呼吸し、束の間目を閉じる。息を詰めて見守るなか、かっ、と
「――――‼‼」
文統が怒号を上げた。
「阿呆!ひと舐めでいいと言ったろう!」
がく、と屈強な体が力を失う。肩を揺らしてのたうち、陸に打ち上げられた魚のように体が跳ねる。小福が悲鳴を叫び、河元が庇って視界を遮った。陸郁は落ちた蓋を拾い素早く壺の口を閉め、驚きつつも毒を取り込んだ中樊の背をじっと見つめた。瞳孔が開いたまま口端に泡が浮かび、文統が険しい顔の中に絶望の色を
「瑜順、薬液を飲ませろ」
「あれは希釈していない。直接飲む為に作ったものではありません」
「ならばもう一粒丸薬を!死ぬぞ!」
「薬は摂取した毒の量にかかわらず効果を発揮するはず……でも、飲むのが早すぎたのかもしれない」
瑜順が中樊を仰向けに抱えながら蒼白な顔で分析した。倒れたほうは肌を青くさせ、いまだ意識戻らず震えている。
「嘘だ……薬だって……瑜順が、
小福が泣きじゃくりながら言う。一拍前まで誰しも思っていた。しかし、この様子を見れば。
医官を呼び、河元はそそけ立ったまま具合を観察する。
「……しかし、まだ息がある。即死してもいない。少なからず薬は効いている。戦場で今のように大量に毒を飲むことはありませんからこの状態ならば薬として成功しています。――瑜順どの。私にも」
袖をまくる。「陸郁、念の為、戦場と同じようにやってみましょう。刃に毒を塗り、身を斬って試しましょう」
「待て
「兵のほとんどは私と同じくただの泉民であり
「必要ありません」
瑜順が言を遮る。「泉人への効果は立証済みです。――――それに」
痙攣の収まった同胞を覗き込んだ。
「………………
瞳に光が戻ってきた。やった、と小福が濡れた顔を
「なんて顔してる」
「あなたが無茶をするからだ」
「このくらいやらねば心意気の
汗を拭って笑うと向かいは大きく息を吐いた。そして、頷く。
「やはり命知らずの豪胆な者たちのようだな。分かった。薬の効能はこの目で見届けた。さすがに泉宮へ入れはしないが剛州へもできる限りばら撒くようにする。しかし一刻も早く主泉に入れて安全を確保しなきゃならん。俺を攻略したからといって手を緩めるなよ」
源泉に混ぜられれば必ず人の口に入る。何よりもまずそれを目指さねばならない。
すぐに発つという陸郁を州城の門前まで見送り、瑜順は再度頭を下げた。
「何卒よろしくお願いいたします。私が持ってきたのは征南軍に渡す丸薬と薬液の余剰が少し。残りは
「駒麓を拠点にするつもりか。
問うても異族の青年は動じない。
「……淮侯ご自身は太后さまに逆らえはしないと聞きました。従事、小福、あなたの仲間の少年や重州刺史から聞いた話、かつての戦……液雍院の被害も先代と太后さまなどからお伺いして、今回の依頼に至りました。あなたは個人でも、太后さまと繋がりがある。そうですね?」
そこまで分かっていたか、と陸郁は馬に跨り、破れた笠を被った。
「つまるところ姜謙の『耳』とは
「泉宮で一度。太后府を守護する者たち」
「あれらの多くは淮州戦役で親を失った孤児たちだ。崔梓様がお召し上げになり我々『耳』から集めた巷談を彼女へと繋ぐ」
「あなたも子供たちを大層信用しているのはそういった事情からですか」
陸郁は少し首を傾げ、どうだろうな、と呟いた。
「確固とした理由なんてない。だがあいつら自身にも、平和を掴み取って楽しく暮らせる
「理解も共感も出来ます」
「なら良かった」
「ですが巻き込んで犠牲にしないと言えますか」
「あんたがそれを言うのか?
故意に
「――――言い過ぎたよ、すまん。でも俺は
今度は瑜順が首を傾ける。
「あなたはなぜそこまで封侯に肩入れを?封侯もなぜ太后さまの言いなりなのですか。太后さまが実母といえ理由はそれだけではないでしょう」
ひそめいた声に陸郁は嘆息した。
「親に従うのはもちろん姜謙の意思でもある。淮州が立て直せたのも、昔より富んだのも太后陛下なくば成し得なかったからな。……俺はあいつをほっとけない。頭が良いくせに不器用で、己の立場という力を上手く使えもしない、
測りかねてさらに窺ってきたのに微笑する。
「あいつが自分の命よりも守りたいものは、国でも泉主でも、母親でも地位名誉でもない。ただ一つだけ。――――自分の血を分けた娘だけさ」
目を
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