十九章
香州では禁軍の到着を待たずして州軍が動き州内の各郡を鎮圧、民にも被害が少なく済んだ。しかしながらいずれの二州牧も桐州牧と同じく州内の風紀の乱れを
時を戻す。桐州を引き入れ南下した征南軍は三方へ分かれたが、そのうち
払暁の光は垂れ込めた厚い雲に隠されて見えないまま、強い雨脚が地に打ちつけた。昨晩からじっとりと蒸していた外気はこれで少しは涼しくなるやと思いきや、重い湿気はそのままに見渡す水田は雨煙で白く
男はその様子を屋根に穴の空いた軒下に座り込みぼんやりと眺めていた。水田の向こうに佇む貯水塔によく溜まるようにと念じていたところで、脇から物音が近づいてくる。
「降って良かったな」
「ああ……」
「都水は予備の水槽も開けたそうだ。おりよく雨期になった。これであと二月はなんとか
「ああ……」
生返事を繰り返す男に、気安げに話し掛けたもう一人の男は首を傾げた。
「どうした。元気がないな」
「いや……そろそろ皆起き出すな」
そうだな、とあたりを見回して炊事の煙を探す。
「あちらはいまどの辺だろうな。しかし州軍も刃向かったぞ。もうけたなあ?」
すでに鷲州の北では人が死んでいると聞いていた。
「そう……だな」
「なんだ、もしかしてまだ食い物の心配をしてるのか?大丈夫だ。麦もおおかた収穫できた。納める分はないが」
座り込んだままの男は仲間が励ますのに、うん、とまたぼんやりと相槌を返す。ふいに家の中からがたりと物音がした。焦って立ち上がる。
「なにか、音がしなかったか?」
仲間も首を傾げ、それには慌てて言い繕った。「いや、さっき置き忘れた箒かなにかが倒れたんだろう。ではな、
「ああ。俺も田を見に行く途中だったんだ」
それで別れ、男は家壁を回り込んで戸口に立った。恐る恐る開く。
狭い室内、
粗末な
棚端に垂れ下がった髪紐をやっと見つけて苛立たしげにそれを掬う。
「あれ……俺……」
緊張感のない様子に男はほっとして近づく。
「良かった、起きたか。具合はどうだ?」
「……死ぬほど暑いな」
実際、青年の緩んだ襟元から見える首筋には汗がつたっていた。男は蒸しはするがそんなにか、と思いつつ
「
髪を括りながら気怠げに頷いたのにもうしばらく待ってろ、と言いおき一旦臥房を出た。
三日前、男は水田の脇の
となれば
悪い奴なら訴え出たほうがいいかと身構えていたがそんな様子もなくいまはまだどこか夢うつつ。ともかくもやっと目覚めたので挙動が怪しいようならまずは仲間に知らせるしかないな、と思い盆を抱えて戻った。
青年は
「お前さんは三日寝てた。溝にはまってたのを拾ったんだが、どこも怪我がなくて良かったな」
「――そっか。ありがとな、
「ここは
「それはどこだ?
依笙は鷲州の州都の名だ。男は首を振る。
「そっから歩いて五日ほど南だ。驚いた、じゃあ孩子は依笙にいたのかい?」
「いきなり州兵と暴徒の小競り合いが起きて誰かが振り回した棒で頭をぶつけたんだ、たしか。それに暑くてふらふらでさ、ついぼんやり川沿いを歩いてたから油断してた」
椀を差し出して男は目を伏せた。
「依笙ではそんなことになってるのか……」
「ああ。もう民にはなんの秩序もない。とりあえず手当たり次第壊して火をつけてるって感じだ」
さらに顔を曇らせた。しかし青年が
「お前さん、名まえはなんという?」
寝起きで潤んだ黒い目が瞬く。
「俺か?俺はコウセン」
「災難だったな。まだ依笙には帰らねえほうがいい。といってもいつまでこんななのか分からないが……それにしても」
改めて見た。「すごい汗だな。やっぱりまだ熱があるんじゃないか?」
「ごめん大哥、
おや、と内心警戒して窺った。「依笙の人間じゃないのか。どうしてまたこんな時にこんな遠くまで」
「
だから武器を持っているのか、と納得して棚に置いてある細長い包みに目を遣った。
「でも仕事はいちおう終わったところだったんだ」
「そうか。だがどのみち今は北には帰れないぞ。どこもかしこも危ないし街道も封鎖されてると聞く」
コウセンは頷く。男を観察するように見た。
「大哥はここの人か?」
「ああ。ここにひとりで住んでる」
「あんたは乱に加わらねえの?」
言葉に詰まった。コウセンは続けて
「
「ああ…みんな依笙に集まってるんだろう。俺はここで
言えば、ふうん、と鼻で相槌を打ってそれ以上は尋ねてこなかった。
青年はしばらく滞在したいようで、力仕事なら何でもやると申し出た。特に怪しい素振りもないので
宣言通り、薪割りに水汲みから洗濯まで、少々雑だがよく立ち働いた。三日もした頃には隣家の者がコウセンが手伝ってくれた礼に、と家になにかと置いていく。
ある日など、畑から戻ると姿が見えず、夜になって竹槍に仕留めた鹿を担いで帰ってきたときは驚いた。彼は穀物よりも肉や魚を好んでいて、焼いてやるとひどく嬉しそうにかぶりついた。
「お前さんを見てると弟を思い出すな」
昼下がり、少しでも涼むために戸口の前に置いた
「弟がいるのか?」
男は頷いて家奥に顎をしゃくる。「臥房の棚に小さい靴があったろう。弟のだ。もう死んじまったが、お前さんのようによく食べてよく笑う奴だったんだ」
「病か?」
「いや。もうずいぶん前、飢饉の起きた年に今みたいな雨が続いた日、朝起きてみるといなくて総出で探したら下流の魚網に引っ掛かって死んでた。おそらく増水した川に落ちて溺れちまったんだな。腐らないうちに見つけてあげられて良かったが」
つい感傷に浸って寂しげに笑った。「その前から麦も米も不作でな。ずっとひもじい思いをさせてた。最後くらい腹一杯食わせてやりたかったと嘆いたものだ」
「国から支援はなかったのか」
首を振った。「南は貧しい。泉畿から遠いからお
「そうか」
コウセンは見つめたまましばらく何事かを考えていたが、
「大哥も似てるな、俺の
と言われて首を傾げた。
「そうかい?」
「ああ。料理がうめえ」
予想外の返しに声を上げて笑った。
「お前さんが採ってきた魚だ。まだまだあるぞ。
「頼む」
男は待ってな、と機嫌良く家の中に入って行く。見送って向き直り、間近に迫る青々とした水田を感情のない顔で眺めつつ、串から香ばしい白身を噛み抜いた。
「……それに、善人ぶって笑うところもそっくりだ」
青年を滞在させて半月経った。男はいつものように夜明け前に起きた。近頃、真夜中に変な音がする。どう変なのか、言葉には表せないが、人の声のような、
「……
「流れ者だ。怪しい奴じゃない」
そう言ったが仲間はどうだかな、と険しい顔をした。
「あんまり気安くするんじゃねえぞ」
「大丈夫さ。……それより、」
ああ、と街道のほうを向いた。「もう来る頃だ。こっちはなにもなかったか?」
「平和なものだったよ」
そうか、と仲間は安堵して息をついた。男も問う。
「依笙はどうだった?」
「ひでえもんさ。州兵が叛乱民を盾に逃げ出しはじめてる。ありゃ早晩禁軍の勝ちだ」
「やはりか」
「そりゃそうさ。州兵っつっても無駄飯喰らいで糞の役にも立ちゃしない。態度だけは一丁前だ」
仲間は声を低める。「州兵が逃げてきたら」
「分かってる」
「万一だが禁兵も」
ええ、とそれには困って顔を上げる。「そっちはまずいだろ」
「どうせどこもかしこもてんやわんやでバレやしねえよ」
頼んだぞ、と肩を叩き仲間は行ってしまう。男はやれやれと立ち上がると水田に目を向けた。そろそろ点検しておくか、と明けてきた空を見上げる。雨は降らなそうだ。
泉国の貯水方法には幾つかある。大きくは二つでひとつは地下に穴を掘ってつくる貯水槽、もうひとつは地上に設置する貯水塔だった。貯水槽はそこから点在する郷里の
朽苅には古びた貯水塔が二つあり、そのひとつを見上げて男はあたりを見回した。人がいないのを確かめると塔に取り付けられた石の階を注意深く登っていく。里の境界である裏、
塔は頂上部から裾広がりに円周を大きくした形で、内部はもうひとまわり小さな円を描くように段差が設けられている。ふつうはそこに攪拌用の大きな木竹製の水車が架けられるのだが、今は取り外されていた。いつものように顔を突き出したところ、無人のはずの内部に居座る人影に愕然とした。
段差に腰掛けていた人物はいたずらっ子のように笑う。声が反響して不気味に響いた。
「やっぱり水じゃなかった」
「どうして……」
「訊きたいのはこっちだ。こんなに沢山の米やら麦やら、いったいどこから持ってきた?大哥」
彼の足元まで
なおもにこやかだったが、細めた青年の目尻は笑い皺をつくることはなかった。
「
「…………だからなんだい?」
当初の驚きから落ち着いた男は静かに見下ろした。
「どこの里も貧しい。こんな争いが起きたんじゃあ、今年は凌げても来年は食うものに困る」
「あんたらが盗ったぶん、依笙に住んでる奴らが飢える」
「それが?みすみす盗られるほうが悪いんだよ」
男は筵をすべて取っ払う。塔の
「この前も言ったが、南は貧しい。もともと土が良くないし、ろくでもない官吏ばかりが赴任してきて勝手をする。それなのに税は他のところと同じ。自分たちで育てているのにもう何年も白い米を食ってない」
「里の奴らも共犯か。貯水塔に隠してるってことは、都水台もか」
笑んだ。「常駐してる人はな。ここいらの都水台の官府は隣の県郷にある。黙っていれば食うに困らないから、わざわざ言い立てはしない」
「貯水塔まるまるひとつを穀倉にしたら、今度は水が足りなくなるんじゃないか?」
「予備の水槽を開けた。問題ない。……コウセン、悪いけど、知られてしまったからには出て行けとも言えなくなってしまった。吹聴されたら大事だ」
コウセンは片手で体を持ち上げると悠々と壁をよじ登って向かいに座る。好戦的な瞳が男を捉える。
彼は旅支度だった。背には拾った時と同じく剣を包んだ荷がある。どうりで臥房がもぬけの殻だったわけだと溜息をついた。そのまま去ってくれれば良かったのに。
「俺はここの守りを任されてる。見過ごすことはできないんだよ。鏢行なら腕が立つんだろうが、今は男たちが戻ってきてる。馬もないんじゃ逃げられはしないよ」
「でもこの里は壁がない。すぐそっちは森だからな」
男は目を眇めた。「森にも罠を仕掛けてる」
コウセンは声を立てて笑った。
「どうあっても俺を殺す気かよ。……弟を殺したみたいに」
言葉に弾かれて身じろぎし、対して向かいは面白そうに眺めてくる。
「あんたが川に突き落としたんだろう」
「……なんで」
俺は、と立ち上がって
「人を殺したことのある奴はだいたい分かる。弟の話をした時のあんたの目はそんな目だった」
「でたらめだ」
コウセンは脇に立って腰に手を当てた。
「別に殺したのを責めはしない。俺だってそうだからな。……でもな、俺が納得出来ねえのは大哥の弟がまだ小っせえ
男は色のない視線を向けた。
「…………人が惨めな気持ちになるのは、どんな時だと思う。いちばん辛くて悲しいのは、ひもじいときなんだ。腹を空かせて、空いてるのも分からなくなるくらいになって、起き上がることも出来なくなる。それを可哀想だとただ傍で見てることしか出来ない。そんな気持ちが分かるかい?
「あんたは自分が逃げ出したかっただけだ。本当に大事なら自分の腕を削ぎ落としてでも食わせてやれる」
「お前に何が分かるんだ!」
顔を覆った。「現実には、いつだって弱い者が先に死んじまう。自分が産んだ赤子を鍋にした母親も、子供を交換して
「あんただけが頼りだった弟はたいそう苦しんで死んだだろうなあ」
うるさい、と咄嗟に青年の脚を払った。ぐらりと傾いだ体は宙に投げ出されてそのまま落ちていった。肩で息をし、はっと我に返る。眼下で地面にうつ伏せた塊を恐々と見下ろし慌てて貯水塔を降りる。
予想は外れ、また雨が降ってきた。もともとぬかるんでいた地面に追い討ちをかけて水が叩きつける。男は動悸を速めて全く動かない青年の傍に寄った。一度見上げる。あの高さから落ちたのだ、もう死んでいるだろう。
そう思って屈むと少々後悔して泥から仰向けの体を起こしてやった。瞼を固く閉じた顔に一瞬弟の姿が重なって見え、思わず涙腺を緩ませた。震える手を顔に当てる。
「――――俺はあんたが『
突然の声に驚く。泥だらけの死体から声がした。目をつぶったまま、口だけが動いた。
「どうして二人で生き延びる方法を探さなかったんだ」
「コウセン……お、お前さんなんで……」
瞼を開き、青年はやれやれと立ち上がって泥を払った。上を見上げる。
「このくらいじゃ死なない」
けろりと言って
「ばかな……」
「大哥。俺はもう行く。世話になったな、礼を言う。あんたの飯
手を振りながら森へ入って行く後姿をぽかんと見つめ、男は見えなくなった頃に立ち上がった。よろよろと足跡を追う。雨粒が地に叩きつける音に混じって、このところ夜中に聞こえていたあの奇妙な音がまた聞こえる。それがするほうへと引き寄せられるように分け入り声を上げた。
「コウセン!森は、森はだめだ。罠が―――」
言いかけ、前方を見てはっとした。曇天で影の濃くなった木々の中、荷を負った彼の姿が見て取れる。その背向こうに巨大な黒い小山をみとめて棒立ちになった。気配にコウセンが笑う。
「ああ、言い忘れてた。こいつが仕掛けをあらかた壊しちまった。すまねえ」
「お前さん……何者だ。それは、何だ」
一見黒い大虎が低い唸り声を上げ、
「俺のことは全部忘れてくれ。あんたはあんたの居場所に帰るといい」
そう言って獣の背に飛び乗るのに畏怖しながらもさらに問うた。
「……お、俺たちのことは」
「心配しなくても誰にも言わねえ。あんたたちは自分たちが生き延びる為にやってることだ。俺には責められない」
最後にほんの少しだけ憐れむような視線を投げた。
「せめて、もう二度とあんたが誰かを殺さなくていい生き方が出来ることを願うぜ。それが
降り止まない雨の中、
「左翼は後退しろ。連中、今日のところは引き退りそうだが気を抜くな」
現在場所は依笙郊外。鷲州に着いた頃にはすでに州軍は蜂起して依笙を根城に陣を組んでいた。しかし理のなくなった暴徒が闖入していて城内もかなり荒れていると聞く。攻略はそれほど時間がかからないと踏んでいたのだが。
到着してすぐに交戦になった。州兵三営といえど禁軍とは練度が違うし、もう民も逃げ出しているなら囲って火攻めにでもすれば鎮圧はもっと早い。しかし五日足らずで押さえられるという予想は覆った。本格的に雨が降り出したのだ。しかも桐州から輸送する
邪魔だな、と黒い線を睨みながら顔をしかめる。だがあちらもかなり疲弊している。精彩を欠いた士気でそれは分かる。もう少しだ、と息をつけば予想どおり今日はもう撤収するらしく城の中へ入り始めているのが遠目から見えた。もう食糧もないのだろう、兵はふらふらだ。あれでよく戦う、と半ば呆れる。籠城すれば餓死するのが目に見えているから彼らは撃って出るしかないのだ。軍を割いていなければもっと早く楽にしてやれるのに、と思いながらこちらも自陣に駆け戻って来たところで、
「将軍!族主が戻られました!」
壱魴は驚きつつ馬から下り、急いで幕営のひとつに入る。すれば、おう、という気安げな声とともに着替えたばかりの韃拓が
「きみね、ちょっと見てくるとか言っておいて一体何日軍を離れたと思っているんだい?半月だよ、半月。
「悪かった。事故に遭ったんだ」
壱魴はまったく、と息をついた。
「しかもたったひとりで供もつけずに。まあ、八馗は問題なく動いてくれているけれど、きみがいなくては彼らも思い切った戦いが出来ないのは事実なんだぞ」
「戦況はどうだ」
「どうもこうも。あと一押しで片付く」
「よし」
悪気なく笑う。どこまでも屈託のない様子に無駄か、と肩を落とした。
「壱魴、ここはお前たちに任せていいか」
「今度はどこに行くつもり」
「――――応援が来た」
顔を上げた。「…ついにか。こちらにはまだ連絡はなかったが」
「裏技でな」
「それで数はどのくらいなんだい?」
韃拓は不敵に笑う。
「二万だ」
聞いて壱魴は細い眼をぱちくりとさせた。
「少ないな」
「全軍動かす必要はない。なにより春前にもう移動しちまったから準備して南下するのに時間がかかった」
「移動?」
「俺たちは夏と冬で住むところが違う。夏はもっと北に行く。それこそ
「八馗は八十万いると聞いていたから東二州は問題なく攻略出来ると踏んでいたのだけれど」
「八馗ってのは軍だが民でもある」
八十万というのは角族の全総数であり女子供老人も含め全員が八つの組織に分かたれる。つまり八馗というのは軍政組織であると同時に一族の社会区分そのものを指した。
「男しか戦わないから実際の兵は三分の一くらいだ」
「三十万弱のうちの二万か」
「夏の間は家畜を肥えさせなきゃならねえし冬までに蓄えを増やしたいから男手を減らしたくないというのもある。……それに、これはおそらく
壱魴は腕を組んだ。
「いまだ強力な先代当主か」
「つまり二万でやってみろってことだ。俺は試されてる」
余裕のある口振りに難しい顔を返す。
「角族は強いのだろう。二万で相応だと君たちが言うのならこちらも文句はないけれどね。でも仮にも現当主であるきみをまるで蔑ろにするかのような対応だな」
言われて韃拓はさらに笑んで地図を広げた。
「
壱魴は色石を置きながら、なるほど、と頷いた。泉国には
「だから信頼が桁違いでいまだ力があるのか。しかし優先はあくまでも現当主だから直接的な叛意は取らず圧力をかけてきた?」
「そう言えば大袈裟だけどな。別に先代はもう一度当主になりたいとは考えてない。あの人はこういうのが好きなだけだ。それに俺は実の子だから、なおのこと甘やかすようなことはしない。……でも、要求した兵数より少ないってのは気に入った。数ぴったりでも素直すぎて気持ち悪いし多くては馬鹿にされた気がする。悔しいが流石と言うべきか」
「……そんなものか?」
「そんなものだ」
では、と壱魴は石を移動させて試すように韃拓を見る。
「角族二万だけで
「伝令と案内役に何人か付けてくれるだけでいい。ちらっと見てきたが重州軍がもう鷲州の境界に迫ってる。応援の二万にはすでに進軍を指図したからこっちも早く合流したい」
「一体どこまで見に行ったんだか。しかしもう川の水量が少なくて
それは心配ない、と手を振った。
「早馬と連絡がついたからな。それに乗って行けば四日程で追いつく」
「頭でも打ったかい?」
「お前意外と厳しいよな」
「ふざけている場合ではないよ。半月かかるところを四日で行く馬なぞいるものか」
韃拓は頬を掻いた。「とにかく、こっちのことは心配するな。お前は確実に南三州を平定しろ」
それでも壱魴は首を振った。
「だめだ。そんな適当は今回は通じない。君たちが行く間に重州軍が鷲州の南に立て籠れば厄介だ。どういう作戦でどう攻めるのかをこちらにも共有しておかねば必ず不備が出る。今までは別行動でも許されたのだろうけれど、俺はきみの下についたのではないし、征南軍と桐州軍五万兵を預かっている。下手をすれば無駄な死人が出る」
「ああ、わかった、わかった」
韃拓は観念したように手を挙げた。しばらく沈黙して何事かを考えると頷き、顔を貸せ、と手招きながら出て行く。それについて布陣から少し離れた山林へと招かれ、壱魴は先行して揺れる黒い毛房を怪訝に見つめた。
「ねえ、韃拓」
「いいからしばらく黙ってろ」
そう言いおき岩の上に登ると、甲高く澄んだ長い指笛を鳴らした。立て続けに三回。
「……今はいねえかな」
しばらく待って夜闇になんの変化も見られず、ぽつりと呟いた彼に壱魴はさらに苦言を呈そうとした。だが突然吹いた風に思わず顔を伏せる。梢が枝を打ちつけ合った残音が静まり、何が、と庇った腕を下げても、景色は先ほどと変わらない。しかし、こちらを向いた韃拓は嬉しそうに鼻を鳴らした。
ぐらりと大きな影が射して手にした
「なんだ……⁉」
一頭の
「どういうこと」
「これで重州に行く」
まじまじと見返されて続けた。
「夜通し駆けりゃ三日ってとこだが、馬とも四不像とも違うから乗り馴れない奴にはきつい。それに群れをどのくらい招集出来るかも分からん。だから重州に何人行けるかもまだ何とも言えねえ」
壱魴は主に撫でられて途端に猫のようになった獣をまだ呆然としながらも観察する。
「これは……虎か?にしては縞模様がない」
「似ていそうで違う。これは
「狛?」
「俺たちはそう呼ぶ。ほんとうの種族の名は
壱魴は顎を落とした。
「狴犴……狴犴だって。――――これがかの有名な、
「まあ、一泉では見ないな」
「これに乗って、重州まで。群れを
韃拓は獣の首を荒く撫でながら否定した。
「こいつらは人の血に酔う。酔ったら手を付けられない。だからいつもは狩りには使わない。それにあまり泉地に降ろすなと言われてる」
「大体でいい、どのくらい召喚出来る」
問われて宙を見た。「普段畑やら宿営地の守りで数頭しか使わないからな、本気でこいつの群れを集めたことがない。――どのくらいいるんだよ」
最後は笑顔で獣に尋ねたが、黒い巨虎は大きく欠伸をしただけだった。とんだ隠し玉だ、と壱魴は生まれてこのかた一度も見たことのなかった奇妙な獣を興味深く見た。登場した時のおぞましい気配はどこへやら、喉を鳴らす様子は図体に似合わず愛嬌があった。
「きみたちが最強の戦闘部族だと
「喧嘩売ってんのか」
「妖をも従える力を持つ最強の馬鹿なのだなきみは……絶対に敵にはしたくないよ。これに乗った兵なら州軍も畏怖しよう」
侮蔑の意図薄く心のままに言っているのが分かり韃拓は肩を竦めるだけにとどめる。
「というわけで今こいつが自分の群れを喚んでる。明日までに集まった数が行軍人数だ」
「分かった。では重州のことは信じるよ。
「淮州軍はまだ南下してないな?」
おそらくは、と頷いた。「あちらは朴東で膠着状態だ。どう動くのかはまだ分からない」
「そっか。じゃあその合間に手っ取り早く重州を落とすぜ」
頼んだよ、と壱魴は狛を見つめる。自分を見返してくる大きな獣はなんの反応もなかったがまるでこちらの状況を全て理解しているようだった。しばらく主に甘えて擦り寄り、やがて務めを思い出したのか林の奥へと駆け去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます