十七章




『我らのいと――――』



 耳の奥でこだまする声は言葉とは裏腹にひどく冴えていた。



搬運はんうんきわみ九土てんかねがった我々の瑞祥きせき。我々のいわい


『愛されよ。お前は愛される為に生まれてきた』



 頭を滑った手も悪寒がするほど冷たかった。それでも、目を離せなかった。黒と茶と濁った紫の世界で、その色はとてつもなく鮮やかで一度見たら忘れられない美しさだった。


『そしておのが愛する者たちの為に尽くせ』







 繊細に曲線を描く銀の燭台は花鳥をかたどったもの、まるで実がっているように取り付けられた火皿の上で灯火が揺らめいている。壁際に並べられたこしかけのひとつに座した瑜順は橙色の光にぼんやりと物思いにふける顔を照らしていたが、小さな物音に黙想は遮られた。


「待たせた」

 房室へやに入ってきた女に声を掛けられ、そのままの体勢で軽く頭を下げる。

「出兵の準備はどうかえ」

「……万事、つつが無く」

「そうか。ちょ将軍は荒い気性ゆえ擦り合わせるのは大変であろうが、辛抱せよ」

「問題はありません」

 女は椅子に座しいつもと同じく暗色の衣を正した。瑜順は視線を合わせる。今日はこちらから本題を投げかけた。


「この間のお話の続きでしょうか、太后さま」

 葛斎は片眉を上げ、是と頷き煙管きせる盆に手を伸ばす。至極寛いだ様子でどこか遠くを見た。

「瑜順、西を収め次第、おぬしにはかの地に行ってもらう」

「しかし……軍を離れては」

「必要なら誅伐ちゅうばつのさなかでも構わぬぞ」

「ご冗談を」

 葛斎は口角を上げた。

「冗談ではない。今年の冬至までには必ず形は調ととのえておかなければならぬ」

 瑜順は俯いた。

「……あなたは、ご自分の民のことは二の次なのですか」

「自分の民?」

 可笑しげに見返す。「わらわは泉主ではない」

「都合の悪い時だけ責任逃れのような事を仰るお方とは思いませんでしたが」

「口が過ぎる。瑜順、妾が乱の平定よりも大望を重んじていると言いたいのであろうが、実際にこれは急がねばならぬことなのじゃ。分かっておろう?もういくらも時は残されていないのだ。この数十年、妾がどんな思いで待ち侘びたと思っておる」

 瑜順はわずかに苦悩を滲ませた表情で見返す。彼女はなんの拘りもなさげに頬杖をついた。

「おぬしは協力するとはっきりと申した。裏切りは許さぬ。すでに役割を悟った。それがおぬしの天命じゃ。逃れることはできぬぞえ」

「……分かって、おります……」

 うん、と葛斎は目を伏せた。

「なれば、今一度赴いて確認して参れ。元初よりそのかたちを保つ閉ざされた最後の希望の地。椒図しょうずの国、九泉くせんへ」







 呼びかけられてふっと意識を戻した。物を考えている時、まなこは何を見ているのだろう。瞼を開いているのに外の景色を見てはいない。ならば、眼は頭のなかを覗いているのだろうか。瑜順は顔前に振られている手を見つめてつかの間そんなことを考えた。


「どうした?」

「ああ、……いや」


 いぶかった中樊チュウハンは隆々とした腕を下げる。それは茶紺の襖甲よろいに覆われてはいても隠しきれないほど太い。肩を竦め、「見えてきたな」と言ったのに瑜順も相槌を打ち前方に目を戻した。


 ごう州の西と接する州であるひん州の州境に街道を繋ぐ関門が見える。剛州自体が要塞よろしく壁で囲われているつくりなので地平は灰色の線で覆い尽くされているが、こちら側からは緩やかに下り坂で舟の揺れに合わせてほんの少しだけ壁の向こう側が見え隠れした。


 舟というのはなんて速いんだ、と感心して平野を見渡す。四不像を疲れさせることもなく昼夜休まずに進みわずか五日で州境に到着したことに瑜順のみならず角族全員が感嘆した。といっても、舟縁ふなべりに蹲る者たちは景色など楽しむ余裕はないだろうが。

 そのうちの川に落ちそうなくらい頭を突き出しているひとりに中樊がまたかよ、とうんざりした。肩を押さえて瑜順は自分が行く、と目配せし歩み寄る。

郝秀カクシュウ、平気か」

 背に手を当てようと屈み、触るな、と呻かれる。

「それと、気安く俺の名を呼ぶな」

 起きなおった男は血の気なく、差し出された水囊すいとうを荒く取り上げた。瑜順は感慨なく見下ろす。

「失礼した、俟斤しきん

 郝秀は忌々しげに口端から零れた水を拭った。

「涼しい顔をして。俺がこんなになっているのを情けないと心の内で笑っているのだろう」

「思い込みだ」

 どうだか、と顔を逸らした。端正な横顔も鍛えられた体躯も美丈夫と言うに相応ふさわしい外見だが、いまは舟酔いでその威厳は半減している。

「気に入らない。なぜ俟斤の俺や中樊がお前の下のように扱われているのか」

 瑜順は首を振る。「そんなつもりはない。実際に兵を指揮するのはあなたたちだ」

「ではお前が蒼黄襖甲よろいを着ているのはどういうわけだ?」


 八馗は色による編成で分かたれる。大きくはこうはくくんらんで分けられた軍は一色ごとをさらに正軍とじょう軍に分けた。鑲に属する者は各色にふちどりの入った襖甲で見分けられる。郝秀の身に纏うものは色こそ瑜順と同じだが布端には赤いふさが縫いつけられている。


 なじられて返事に困り口をつぐんだ。


「いくら先代の養い子で当主と近しいといってもお前が正黄せいこうの襖甲を着るのは解せない。まあ、こんなことを言って器が小さいと思われても腹立たしいが、韃拓に付きしたがうばかりで特に狩りで功も立てたことのない自分の立場をもっとよく考えたほうがいいのではないか」


 どの色をもっとも重んじられる親征軍、つまり直轄軍とするのかは支配者の世代交代により変わる。当主である韃拓の軍は正黄軍だった。


「それに二十人も兵を委ねられたのだろう」

「それはあくまで護衛としてだ」

 郝秀は気に入らない、と再度吐き捨てた。相当機嫌が悪いな、と内心嘆息する。当たりが強いのは常だが今日のようにくだを巻くのはあまりない。出遇えばなんのかのと苦々しく文句を言ったあと、もちろんこちらは冷静に言い返しやがて彼は自分が論破出来ないと悟る。そうして捨て科白ぜりふに決まって声を潜めて言う。

「身の程をわきまえろよ。お前が妹にちょっかいを出しているのを郝伸おやじに言いつけてもいいんだからな」

「お招きにあずかっているのはこちらだ」

 郝秀は鼻を鳴らして聞かなかったことにした。彼も当の妹に嫌われたくないから父親には決して言わないのだと瑜順は知っていたが、さすがに毎回このやり取りはうんざりする。しかしながら大切な妹御に手を出しているのは事実で引け目があるから、こちらとしてもいつもの言いがかりは仕方ない、と流すしかない。


 そうこうしているうちに舟は関門の前の舟着き場に碇泊した。ここから先は陸路になる。すでに大拱門だいきょうもんは固く閉ざされており速い流れが門に当たって波飛沫を上げつつその先へと流れ込んでいく。鋼鉄の懸門けんもんは水に接したあたりから扉面を極太の柱の柵へと形状を変え、川底までを貫き細い隙間から急流を通していた。その巨大な門は上下に片引き扉になっており下部の鉄柵は重ね合わさった外門扉に付属する。鎖で揚げた内門側を全て降ろせば完全に水の流れを遮断できた。



 瑜順らが舟を降りて征西軍の中枢陣に近づくとなんとなく緊張が走る。ちらちらと警戒する視線を受けて中樊と目を見交わし、それらを無視して獅子ししの意匠の立派な肩呑かたあてを着けた男に近づいた。


 男は彼らを一瞥するも構わず図面を広げた。

「褚将軍。関門は開けられそうですか」

 すでに剛州の関は全て封鎖されている。

「今のところ近くに敵影はない。まあ、たとえ一師団が押し込んで来ても剛州軍が袋叩きにしてくれるが」

 配下が尋ねる。

「では大門を開いて彬州へ?」

「そうだな。入ってしばらくは荒地が続く。そこでひとまず布陣するか。彬州軍がどこまで迫っているかは実際に斥候を立てなければ分からんからな」


 西二州では太守たちは静観を決め込んでいる。とはいえ州軍は真っ向から叛意を示したから州牧配下といえど良識ある太守なら国軍に従ってしかるべきだ。各郡の郡兵を取り入れつつ征西軍は彬州叛乱軍の本拠である州都英霜えいそうを目指す。


「伏兵はそう遠くにはいないでしょう。すでに移動を開始して関のどれかを破る算段やも。もうすぐ巌嶽の水門が狭まります。我々も悠長にはしておれません。途中でそう州方面へ二軍割きましょう」


 当初五万の予定だった征西軍は征東軍から追加で五千を譲られた。測弋そくよくの奴め、と文統ぶんとうは若造に侮られたようで少し面白くない。だがたしかに西を収めるのは容易ではなく、泉畿により近いわい州のほうは最悪本営が助けに行くことも出来る距離だから、西ほど人員は必要ないということに納得はした。ただあの人を食ったような笑顔で言われるといけ好かない。そんなことを思い、記憶を頭から追い出して采配しようとしたところで異人の青年に遮られる。


「お待ちを。まず最初に使者を立てろというのが太后さまのご意向でしたが。ここからさき兵を入れれば真っ向から対立することになります」

 眉をしかめた。

「瑜順とか言ったか。ご意向はあくまでご意向なのだ。いま彬州軍は英霜兵三万七千五百。付近の郡のいくつかはすでに懐柔された。他の郡も味方につかせようと躍起になっている。すみやかに攻め落とさねばならんのだぞ」

「だからといって州牧刺史を助ける誠意も見せないのですか」

「誠意?」

 文統は小馬鹿にして目の端をひくつかせた。

「軍を掌握できず暴走させる無能どもを助ける為にこちらが譲歩しろと?いくら徳高く優秀な州牧と刺史でも、己らの配下から叛逆されるほどに支持が無かったということだ。特に州牧はな、ただ文治に通ずるだけでは役不足なのだ。軍権を正しく差配するにはそれなりの手腕と経験が要る」

「仰ることはもっともですがこのまま何もせず見殺しですか」

「すぐに殺さず人質にしているということはあちらはまだ要求を諦めていないということだろう。ほどよく攻め入ったところで命は保証すると言って投降を呼び掛ける」

「そのようなまやかしは通じません。大逆は如何なる理由でも死罪と決まっています。追い詰めれば自棄やけになり人質を殺す可能性もある。それまでなんの手立てもしなかったことを太后さまが知ればただでは済みません」

「……お前はなにか?今度は太后様の下僕になったのか?悪いが俺の軍からみすみす無駄死にを出したくないのでな、そうまでして開戦の前に使者を立てたいというのなら八馗の中から出せばいい。それなら誰も文句はない」

 ぞんざいな言に目を細めた。

「本気ですか?」

「当たり前だ。あとでしかばねくらいは拾ってやる。同盟軍としてな」

 無言で睨み合った。

「……分かりました。しばらくお時間を頂きます」


 やがてそう言うと場を離れる。中樊が慌てて追い縋った。

「おい、瑜順」「中樊。悪いが皆を集めてくれないか」

 待て、と繰り返し呆れて肩を掴んだ。

「褚将軍の言う通り使者などというのは得策じゃない。壁の外はもう敵地だぞ。行っても州都の州軍本営まで辿り着く前に絶対に殺される」

「そうとも限らない。決起と同時に要求を突きつけてきた西二州はまだ交渉の余地がある。乱が起きて既に半月近い。それなのに州境は空だ。あちらは我々が来るのを待ち侘びていておそらくもう一度要求を繰り返すつもりなんだ。四万弱なら国軍が鎮圧するのは容易い。それを分かっているのに関で待ち構えていないのはおかしい」

「……味方を増やせないならひとまず剛州のどこかの関門を押さえ、惣州軍と連繋を図ろうとするのがふつうか」

 顎に手を当てて考え込んだのに頷いた。「剛州軍はばらけている。特にいまは淮州州境に目が向いている。俺たちがここに到着するまでに関門を奪う隙はあったはずだ。しかしそれをしていない」

 甘いんだ、と壁を見た。「乱を起こしたのなんて初めてなんだろう、州牧刺史を人質にすればこちらが強い手は出せないと舐めている。しかし、褚将軍はそんなものにほだされるお人ではない。掃滅戦になる。――――でも、俺はあちらのその甘さに乗ろうと思う」

「……どういうことだ?」

 瑜順は俯き、息を吐いて片手を開閉してみせた。そして何かを決意するように拳をつくる。

「八馗を集めてくれ。話がある」

「なに企んでんだ?」

「中樊、俺が常日頃一部の奴らからなんと悪口を叩かれているか知っているか」

「そりゃ、まあ……」

 渋面をつくった彼の正直さに微笑む。「意気地いくじなしの瑜順」

「ただのやっかみだ。お前は身体からだが強くはないが、弓や剣の練達は皆知ってる。功を立てるのにがっついてないだけだろ。韃拓なんてお前がいなけりゃなんも出来ねんだぞ」

「あなたは良い人だな。さて、そういうわけで今回も弱腰を発揮させてもらう」

 溜息をつき、諦めた顔をしたものの中樊は、いいぜ、と頷いた。彼は物事の本質を見る眼を持っている。それを嬉しく思いながら曇天の空を見上げた。

「……黙ったまま言うことを聞くと思ったら大間違いだ」





 うっすらと伸びた下生えの荒地に土埃が見えそれは瞬く間に影を浮かび上がらせ近づいてくる。やぶの中から砂煙をすがんで凝視し、先頭の馬に取り付けられた旗をはっきりと確認し慌てて籠から鳩を取り出した。紙片に文字を書きなぐってあしに結びつけ、行ってこい、と囁くと勢いをつけて中空に離した。小さな相棒は灰色の空に舞い上がる。羽ばたきはあっという間に豆粒ほどの点になって消えた。


 目を馬影に戻す。あれは、とひとりごちた。疾走する馬は馬にあらず、それは一見して似ていたがよく見ればまったく異形の獣であることが見て取れた。騎上の兵も同様だ。目立つ色の不思議な甲冑に弓を提げている。しかし掲げた旗は自国の国旗と禁軍旗、それに使者であることを示す小旗が揺れていた。


 藪を離れる。窪んだ丘下に繋いでいた馬に飛び乗った。ほぼ間違いなく禁軍の使者の群れ――それはまちに入ることなく街道を疾走してゆく。少しでも距離を稼ぐ為だ。おいおい、と丘に駆け上がった。伏兵をまるで気にしていないかのような突っ切りぶりに半ば呆れる。群れは郷の郭壁のすぐ横を通っている。あそこで上から矢でも放たれればどう避けるつもりなんだ、と考え、意図を悟って忌々しく舌打ちした。上を警戒する素振りもない。もしや、こちらが使者を待っていたことがばれている?


 まさか、と焦って鞭打った。彬州と惣州は西への国々に繋がる街道がある。南西の州は霧界までの間に切り立った山脈が連なり街道がないからだ。乱を鎮めなければ隣国の九泉くせんと大泉地中央寄りの五泉ごせん、西の四泉しせんと果てはその向こうの二泉にせんとの間の物流は滞る。朝廷は絶対に看過できない。そのことを見越して起こした乱だった。


 それにしても彬州の要求が高すぎるのは認める、と苦く思いながら郷の閭門で馬を止めた。物見窓から覗く気配がして壁上に続く小さな脇戸が開けられたので内部にかれた石の階段を上へ上へと駆け登る。郭壁の歩道に出てそのまま四隅に設けられた角楼のひとつへ走り、今度は木板を並べた階を大きく軋ませた。


烽火のろしを焚け」

 最上階に控えていた仲間に指図すると目立たないように物見台から先ほどの使者の行方を追う。土煙を逆巻かす騎影はまっすぐ延びた西の街道のすでに遠くをひたすらにはしっていた。

「まさか初めから斥候ではなく直接使者を送ってくるとは、西の鎮圧は誰が任されたか」

 二、三の影のうちひとりがぼそりと言った。

「禁軍右将軍」

「褚文統か。しかし、あの勇猛果敢な将ならわざわざ使者を送るなどというまどろっこしい真似をするものか」

 自分で言い置き先ほどの異様な姿を思い返す。

「さてこそ、あれは角族か――――」

「使者にするなら死んでもいい人間を寄越すでしょう。そもそもが形式ばかりの特使ですよ。右将軍を出してきた時点で西二州は国賊としてちゅうすると朝廷で決まったのです」

 当たり前ですよ、とひとりは落ち込んだように言う。「彬州の訴えはたとえ州軍が刃向かっても届かなかったということです……里が心配だ。今ならまだ子供らを連れて逃げられるかもしれない」

「逃げるって、どこへ」

「桐州にならまだ抜けられる」

 馬鹿言うな、ともうひとりが怒った。

「何のためにこうして伝令の任に就いてると思ってる。戦いはこれからなんだぞ。逃げるなどと腑抜けたことを」

「まあ、待て」

 手を挙げた。「軍兵でもないお前たちに無理強いする気は俺とてないんだ。限界だと思ったら出て行ってくれていい。だが、禁軍に通じればただで済むとは思わんでくれ。子供も無事ではいられなくなる」

 男たちは分かっています、と頭を垂れた。

「俺たちはあなたの為ならなんでもします」

「気持ちは嬉しいが危険なことはよしてくれ。お前たちは敵が来たら火を焚いてくれるだけでいい」

 立ち上がる。「俺はここを離れる。お前たちももし禁軍に手荒なことをされそうになったら迷わず棄ててくれ」

「逃げ足だけは早いんで。――どうか、お気をつけて」

 頷き返し、もと来た階を下りた。




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