第3話 ありがとう

 やはり気を張り詰めていたのか、ソフィーが深く長い息を吐きだす。彼女は魂の抜けたような表情で、椅子の背にもたれた。


<体が言うことを聞かないわ。膝ががくがくしちゃって、立ち上がれそうにないの>


<緊張から解放されて、体の力が抜けちゃったのね。歩けるようになるまでマーカス兄様が近くにいてくれるわ。いま、そっちに向かっているの>


 遠ざかっていくマーカスの足音を聞きながら、ミネルバは意識を集中してソフィーに呼びかけた。まあ、と聞こえないくらいの小さな声を漏らし、ソフィーが微笑む。

 その安心しきったような笑顔を見ながら、ジャスティンがぼそりとつぶやいた。


「……マーカスとソフィーさん、恋してるんだな」


「うん……これ以上ないくらい恋してるね」


 コリンが弱々しい声で答える。


「いやまだそこまで行ってませんし。ソフィーさんは恋愛に消極的になってるうえに、奥手で鈍感の三重苦ですし。ミネルバ様の兄という事実が加味されて、五割増しくらいに『いいお兄ちゃん』だと思われてるだけです」


 ロアンが鋭く突っ込んだ。


「まさかマーカスに先を越されるとは。おめでたいことなのに、どうしてこうもむしゃくしゃするのか。心のど真ん中で渦巻くこの感情は、悔しさ……?」


「僕も、嬉しいけどちょっとむかつく。十九歳の今日まで、一度も恋をしたことが無い自分が情けない。僕だって狂おしい情熱に焦がれてみたいよ……」


「ジャスティン様もコリン様も、人の話聞いてます?」


 ロアンが二人に向かって身を乗り出したが、彼らはまたもや無視した。うつろな表情を見るに、まったく聞こえていないらしい。


「マーカスは熱血漢で荒々しく見えるが、本当は優しいもんな。裏表なんかこれっぽっちもなくて、いつでも正直で公平だ。あんな口の悪い男のどこがいいんだとは思うが、あの率直さが、もしかしたらカッコいいのだろうか……? 弟が魂を分かち合える人を見つけたというのに、私ときたら……」


「ジャスティン兄さん、二十四歳にして人生を嘆くのは早すぎるよ。いつかきっと運命の人が現れて、愛のありかに導いてくれる。ソフィーさんのような素晴らしい人がマーカス兄さんと結ばれて、バートネット公爵夫人になってくれたら、後顧の憂いなく国政に邁進できるというものだよ」


「そうだな。父上はまだまだ現役だし、マーカスが家督を継ぐのはかなり先になっても構わない。ここグレイリングで、二人は何の問題もなく寄り添うことができる。あのカサンドラという女を見ていて、ミネルバを守るためだけにでもマーカスを残そうと思っていたところだし、ちょうどいい」


「いやー、精神がどこか遠くに逝っちゃってるなー。ルーファス様、ミネルバ様。この人たちの胸倉を掴んで、額に強烈な頭突きを入れてもいいですか?」


 ロアンに問われて、ミネルバは思わず笑ってしまった。ルーファスは彼らしい反応を返した。「どうしたものか」と言いながら、指先で眉間を揉み解したのだ。

 そのとき球体の中から、荒々しいブーツの音が響いた。それが何の音であるか全員がわかっていた。マーカスの足音だ。


『ソフィーさんっ!』


 ソフィーのいる部屋の扉が勢いよく開き、息を切らしたマーカスが飛び込んでくる。二の句が継げないらしく、しばらく荒い吐息だけが聞こえた。

 マーカスの姿を目にして、ソフィーが最初に感じたのは安堵だった──彼女と心が繋がったままのミネルバには、手に取るようにわかる。ソフィーの心が、一瞬にして不思議なぬくもりに満たされたことも。

 息を整えたマーカスは、扉が開いたままであることを目で確かめた。ひとえにソフィーのために、どんな誤解を招くわけにもいかないからだろう。彼は必要以上にソフィーに近づくことなく、体の前で拳を握った。


『ありがとうっ!!』


 マーカスの野太い声が、球体を通してびりびりと響く。


『ありがとう、本当にありがとう! 心の底からありがとうっ!!』


 マーカスは全力の笑顔でソフィを見つめた。


「おま、お前! ひざまずいてソフィーさんの手を取って、気の利いたセリフを言うべきシーンだろうが!」


「マーカス兄さん、他愛ない男女の会話が死ぬほど苦手だからって、それはないっ!」


 込み上げてくる感情を抑えきれず、ジャスティンとコリンが球体に向かって叫ぶ。しかしミネルバには、ソフィーの心が熱くなっていくのがわかった。マーカスが息を弾ませながら繰り返す『ありがとう』の言葉に神経が刺激され、鼓動も早くなっていく。


『マーカス様……』


 ソフィーが微笑んだ。初めは恥ずかしそうに、それから嬉しそうに。

 マーカスのありがとうは間違いなく、ソフィーに何かをもたらした。それが何かがわかる前に、ミネルバとソフィーを繋いだ心の紐のようなものが切れるのを感じた。

 千里眼の使い過ぎで、いよいよ限界が来たようだ。

 目の前に霞がかかって、室内に酸素が無くなったかのように頭が朦朧とし始めた。体のバランスを失い、背後で支えてくれているルーファスのたくましい体に、ミネルバは夢中でしがみついた。


「エヴァン、今回の千里眼は楽なものではなかったようだ。疲れのせいで体調が悪くなっている。いまの彼女にふさわしい薬を作ってやってくれ」


 ルーファスの焦ったような声がする。大丈夫だと言いたかったが、本当に体の具合が悪くなってきた。

 どうやら心の会話は、ミネルバのエネルギーを酷く消耗させるらしい。

 ジャスティンとコリン、ロアンとテイラー夫人が駆け寄ってきて、必死の形相で呼び掛けてくる。

 答えようにも全身に力が入らず、ミネルバは下へ下へと強く引っ張られるように意識を失った。

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