第3話 これから暮らす場所

「今日は夜まで予定が詰まっているけれど、まずは荷ほどきをしなくてはね」


 セラフィーナが温かく微笑む。


「ミネルバたちの案内が終わったら、ルーファスは私のところへ来てくれ。新しい政策について、お前の意見が聞きたいんだ。それ以外にも、留守の間に仕事がたっぷり溜まっているからな」


 トリスタンがルーファスの肩を抱いた。


「二週間の休暇があまりにも楽しすぎて、働きすぎは体に毒なのではないかと思うようになりました。正直なことを言えば、明日にでも結婚して新婚旅行に出発したいくらいです」


 ルーファスが眉間に皺を寄せながら答える。次の瞬間、周囲に兄と弟の笑い声が響いた。


(おいおい、ルーファス殿下が冗談を言ったぞっ!)


 マーカスが目を丸くして、ミネルバの耳元でつぶやく。ミネルバも少しばかり驚いていた。

 グレンヴィルが笑いながら、二人の息子の肩を順番に叩く。


「気持ちは分かるが、結婚式は伝統にのっとった威風堂々たるものでなければな! どんなに時間がかかっても、これだけは譲れない。私とエヴァンジェリンは、立派に儀式をこなすお前たちが見たいのだ。年寄りの我儘だと思って我慢してくれ」


 ルーファスが「わかっています」と微笑む。

 温かい歓迎に、傍目にも仲の良い家族。ミネルバはすでに、この宮殿が我が家だと思えるほど好きになっていた。


「ルーファス専用の翼棟で働く使用人は、信用できる者ばかりよ。教育が徹底されているから安心してね。ただ、年配の者たちばかりなの。全員が、ルーファスが結婚するまでは引退しないと言っていて……ミネルバさんの新しい侍女については、他の場所で働いている若い娘を移動させる予定だから、後日ゆっくり選定しましょう」


「はいお義母様、ありがとうございます」


 エヴァンジェリンの言葉に、ミネルバはうなずいた。


「それでは行こうか」


 ルーファスが手を差し出してくる。ミネルバは彼と手を繋いで歩き、ルーファス専用の居住棟へ向かった。ルーファスの誕生石が翡翠であることにちなみ、翡翠殿と呼ばれているらしい。

 エントランスホールに入ると、そこにも使用人たちが二十人近く並んでいた。一番若く見える者でも四十歳くらいなのは、ルーファスが生まれたときから仕えているからだ。

 ミネルバは彼らを見ながら、優しい笑みを浮かべた。


「執事のパリッシュさんに、侍女頭のメラニーさんですね。副執事のダンカンさん、施設責任者のクックさん、庭師のトビーさん、料理長のトーマスさん……」


 一人ずつ名前を呼びながら、ミネルバは丁寧なあいさつをした。使用人たちの皺の刻まれた顔に驚きが浮かぶ。

 幼少期のルーファスを守ってきた人々の名前と身体的特徴は、一番最初に覚えていた。エヴァンやロアンにも協力してもらって、彼らの人となり経歴、特技や趣味などを把握した。

 特に執事のパリッシュはかつての教育係で、侍女頭のメラニーは乳母でもある。だからこそ敬意を払いたかったのだ。

 オリヴィア王妃からも、使用人を侮ったり、邪険にしてはならないと厳しく教育された。忠実に働いてもらうためには、目配りと気配り、そして心配りを忘れてはならないと。


「この翼棟に、これほど美しいお方がおいでになっただけでも嬉しいのに、なんとお優しい心をお持ちなのか……我ら一同、誠心誠意お仕えいたします。なんなりとお申し付けください、ミネルバ様」 


「ええ、ええ。人生を捧げることを誓ったお坊ちゃまが、こんなに素晴らしい婚約者様を連れ帰ってくださるなんて。ルーファス様の未来は希望に満ちておりますわ」


 パリッシュとメラニーがうなずきあう。


「翼棟内を見学なさっている間に、私たちで荷ほどきを進めておきます。お着替えとお化粧直しがすぐにできるようにしておきますわ」


「ありがとうパリッシュさん。ダナさんとゾーイさんもありがとう。荷物について細かいことは、私の侍女たちに聞いて下さいね」


 温和な顔をした古株の侍女たちが揃ってうなずき、ミネルバがアシュランから連れてきた二人の侍女を連れて去って行った。


「それではルーファス様、どちらから回られますか?」


 パリッシュが鍵束を手にしてルーファスを見る。


「まずは共用施設をざっと見て回ろう。共用とは言っても、私とミネルバ、マーカスやソフィ、そしてロアンたちだけのプライベートな空間だが」


 ルーファスの案内で廊下を歩きながら、ミネルバはじっくりと翼棟の造りを観察した。

 自分も一流の物に囲まれて育ったが、建物内の美しさは息をのむばかりだった。贅を凝らした造りは、グレイリングの経済力と技術力の表れだ。

 大広間や食堂、娯楽室に舞踏室、小劇場などを見て回った。どの部屋もとても素敵だった。調度品は選び抜かれた最高級品、内装の色合いは落ち着いた暖色系で気持ちがなごむ。

 謁見室にはミネルバのための玉座が用意されており、マーカスに冷やかされながら座り心地をたしかめた。


「さて、次はマーカスの部屋を案内しよう。気に入ってくれるといいんだが」


「ちょおおっとお待ちください、ルーファス様。まだ『肖像の間』を見てませんよ! 新しい住人にアレを見せないなんて、歓迎していないのと同じことですっ!」


 後ろからついてきていたロアンが、芝居がかった口調で叫んだ。


「ロアン、またお前はよけいなことを……」


 ルーファスが指先で眉間を押さえ、唇を噛む。

 ミネルバは小首をかしげながらロアンに視線を投げた。ロアンがこちらの心を読み取ったかのように答える。


「毎年のルーファス様のお誕生日に、デュアートで一番大きい公園に『ご近影』が飾られてきたんです。なんたって第二皇子様ですから。二年前にトリスタン様が即位して代替わりしたので、それ以降の肖像はありませんけど。国民が見たことのない下絵とかも飾られてるんで、見ごたえたっぷりですよ!」


「つまり肖像の間には、ルーファスの幼少期から二十歳までの人生が並んでいるということ……?」


 ミネルバは神に祈るように両手の指を組み合わせた。そして熱意と期待のこもった眼差しをルーファスに向ける。

 自分の知らないルーファスの姿が見たくてたまらない。断られてしまったら、肖像の間のことが頭から離れなくて、夜も眠れないに違いない。


「……肖像の間に行こうか」


 ルーファスの承諾に、大きな喜びが体を駆け抜けた。

 私的空間の中でも最も特別な場所は、廊下の一番奥のあまり日の当たらない部屋だった。美術品収納庫を兼ねているらしく、しっかりと鍵がかかっている。パリッシュが鍵を開け、一同を中に案内してくれた。

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