第5話 純情

 ロアンが頓狂な声をあげた理由はすぐにわかった。

 ミネルバは爪先立って、自分の顔をルーファスの顔にくっつきそうなほど近づけていたのだ。今まさに口づけしようとしているかのように。

 至近距離でルーファスの睫毛が震え、唇か微かに動いている。ミネルバは恥ずかしくて顔から火が出そうになった。


「僕のことはお気になさらず。お二人は婚前旅行中だし、自然ないちゃいちゃこそルーファス様が求めるものですもんね。目を閉じて見ないようにしますから、いいかげん手の甲への口づけから卒業しましょう!」


「ち、違うのよロアン!」


 ミネルバは頭を後ろに引いて叫んだ。思春期のロアンは想像力が暴走しているらしい。

 首をぎこちなく回すと、彼は目を閉じるどころか穴が開くほどこちらを見つめていた。


「ごめんなさい、私ったら気分が浮き立ってしまって……」


 ルーファスに向かって急いで謝る。伸びあがっていたせいで体がふらついた。ルーファスが反射的にミネルバの腰を抱く。


「いや、その。ちょっと……もしかしたら口づけされるのかなと思って、かなりびっくりしたが……」


 ルーファスが口ごもる。彼は顔を紅潮させて照れくさがっていた。ミネルバはどうやら、めったに慌てない人を狼狽させることに成功したらしい。

 ジェムは先ほど何らかの指示を受けて出て行ったし、他の三名も違う任務にあたっている。護衛として残っているのがロアンだけでよかったと、ミネルバは心の底から思った。

 少しの間ひしと身を寄せ合っていたが、ルーファスが名残惜しそうに体を離した。


「うん、あの、何というか。やっぱり二人きりになれる時間がほしいな。尋常でない一日のせいで婚前旅行という感じがしないが、多少はその……いちゃいちゃしたいというか」


 ルーファスはそんな言葉を口にしたことに、自分でも驚いたような顔をした。きつく眉を寄せながら、眉間に指を当てる。


「ロアン、いま聞いたことはすべて忘れろ」


「その程度で照れるなんて……いやになっちゃうくらい純情なんだからなあ。やっぱりロバートの奴を追いかけて、腹に一発喰らわせとけばよかった。何が『殿下ほどのお人なら、恋の戯れのひとつやふたつしたことがあるでしょう?』だ。恋愛初心者かつミネルバ様一筋のルーファス様なのに!」


「それ以上からかうつもりなら、首根っこをへし折るぞ」


 ルーファスはロアンを睨みつけた。怒っているのではなく照れ隠しだろう。

 ロアンは浄化能力持ちの天才だが、浮浪児として放浪していたところをルーファスに保護されたという経緯がある。

 人目のある所ではちゃんと部下らしく振舞えるのだが、ルーファスと二人だけ、もしくはミネルバを入れて三人だけのときは、いたずらっ子の弟分に早変わりしてしまうのが困りものだ。


「からかってないですって。ルーファス様、あのとき内心で怒り狂ってたじゃないですか。『ミネルバ様が不安になったらどうしてくれる!』って思ってたでしょ? 僕としては、そういうのは正直に伝えていいと思うんですよね」


 ミネルバはびっくりしてルーファスを見上げた。彼の顔がまたもや赤くなる。


「あ、いやその、なんだ。ロバートの言ったことは事実無根だから。ロアンの言う通り、私のことをあんな風に言うのは遠慮してもらいたかったかな……。うん、でもミネルバは気にしていないよな?」


 ルーファスが消え入りそうな声を出す。

 カリスマ性を持ち合わせている彼の全身からは、いつも独特の威圧感と強さが滲み出ている。でもいまは、純情そのものの素顔が現れていた。


「大丈夫、私は気にしなかったわ。これから先、いじわるな誰かに何を言われても、絶対に信じない」


 気が付いたらミネルバは、ルーファスに向かて手を伸ばしていた。指先で優しくルーファスの眉間の皺を撫でる。

 ルーファスが「ありがとう」と目を細める。泣き笑いにも見えるその笑顔を、ミネルバは大好きになった。


「そろそろミネルバも身支度をしないといけないな。グレイリングでの初めての社交の場だ、しっかりやろう」


 ミネルバを見つめたまま咳ばらいをして、ルーファスが「行こうか」と言った。ミネルバはうなずいた。ロアンだけが残念そうに肩をすくめる。

 ルーファスの眉間を撫でた指先がほてっているのを感じながら、ミネルバは侍女たちの待つ部屋へと戻った。

 室内に足を踏み入れた途端、焦ったように二人の侍女が寄ってくる。直ちに化粧と着替えをしないと間に合わない時間になっていた。


「お美しいですわミネルバ様、非の打ちどころがありません」


「ええ、まさに女神のようです。こんなに綺麗な方は、グレイリングにもめったにいませんわ」


 侍女たちの奮闘もあって、姿見の中のミネルバは想像していた以上に華やかで、まぶしかった。アシュランの職人たちが心を込めてデザインしてくれたドレスのおかげだろう。最新の流行に加えて、故郷の伝統文化のテイストも漂っている。

 生地は薄紫のオーガンジーで、草模様の刺繍の上にシフォンで作られた小さな花がいくつも縫い付けられていた。

 主人を比類なく美しい存在にしようと、気合いを入れた侍女によるしっかり目の化粧が、さらにドレスを引き立てている。

 虚飾を嫌うオリヴィア王妃に教育されたこともあって普段のミネルバの化粧は薄めなので、あまりの変わりように自分でも驚いてしまう。


「ありがとう。あなたたちのおかげで、とても美しくなれたわ」


 ミネルバは心からのお礼を言った。本当に素晴らしい出来栄えなので、歓迎会でも胸を張っていられそうだ。

 侍女たちが嬉しそうに微笑んだ。まだ若い彼女たちは、ミネルバがグレイリングでの生活に慣れたらアシュランに帰国することになっている。


(新しい侍女を選ばなくてはいけないし、ソフィーが女官として側にいてくれたら心強いのだけど……)


 窓の外を見ると、城に吸い込まれていく大勢の人々の姿が見えた。歓迎会に出席するために、別宅から馬車で移動してきたのだ。

 男性陣は華麗な衣装に身を包み、女性たちは最新のファッションプレートから抜け出てきたようなドレス姿だった。この部屋からは見えないが、ソフィーと辺境伯夫妻が彼らを出迎えているに違いない。


(いまのソフィーには、心理的な負担が大きすぎる。私が力になってあげないと)


 ミネルバはもう一度鏡を見た。アシュラン王国の新しい王太子の妹でもある自分は、生まれ変わる故郷の広報官でもあるのだ。人々の前で無様な姿は見せられない。

 頭のてっぺんから爪先まで完璧であることを確認したとき、ノックの音がした。侍女が応対し、すぐにルーファスが入ってくる。


「これは……麗しいな。息をのむほど綺麗だ」


「ありがとう。ルーファスも、とても素敵……」


 礼装用の黒い騎士服の袖口と襟元に、ミネルバの髪の色と同じ銀糸の刺繍が入っている。胸の勲章がさらに華やかさを添え、王者然とした気品に溢れていた。鍛えられた上半身と長い脚が強調されて、強烈に人目を引くことは間違いない。


「やはりミネルバは、特別な人間だけが持つ気品を備えている。グレイリングの貴族は君に夢中になるだろう」


 ルーファスがミネルバの手を取り、会場である大広間へと導いていく。ミネルバは彼にふさわしくあろうと、優雅に滑るように廊下を歩いた。

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