第2話 不気味な男1

「ソフィー、僕にチャンスをくれ! 僕は……僕は君を愛している。それなのに尻軽女に誘われて、頭がどうかしてしまったんだ。もう二度と浮気はしないよ。愛などなかったのだから許せるだろう!?」


 なんて浅ましい男だろう。ロバートの顔には、良心の呵責など微塵も感じられない。ミネルバの中で、ロバートに対する怒りが膨れ上がった。


「なあソフィー、許すと言ってくれ!」


 ソフィーは黙って聞いていた。目をつぶり、静かにかぶりを振る。


「どうして! 僕は弄ばれただけなんだから許してくれよ。こんなに謝ってるんだから、それで十分じゃないかっ!!」


 謝ってすむ問題ではない。ロバートがいま踏みにじっているのはソフィーの心だけではないのだ。

 ギルガレン辺境伯の顔が怒りでこわばっている。ミーアは頭をがつんと殴られたような顔をしていた。

 ミネルバはロバートを真っすぐ見据えた。


「愚かな言動はおよしなさい。ギルガレン家の人々の心が傷つけられていくのを、これ以上黙って見ていることはできません。潔く非を認めるどころか子どもじみた言い訳をして、恥ずかしくないのですか」


 ロバートの顔がみるみる赤く染まっていく。


「あなたが我が物顔で弄んだのは、血の繋がった姉妹です。たとえミーアから言い寄られたのだとしても、良心がとがめなかったのですか? どんな悲惨な結果を招くか、想像しなかったのですか?」


 ミネルバのほうを向いたロバートの目に、憎悪の光が宿った気がした。彼は歯噛みしながら小さな声を出した。


「でも本当にミーアのせいで、僕は……」


「短い間ですが、私はミーアを観察していました。彼女の行動原理はわかりやすい。姉の持ち物を横取りしたい、ただそれだけです。一種の狂気に突き動かされているミーアが奪おうとしたのは、あなたという存在だけではないはず。未来のディアラム侯爵夫人という立場が含まれていなかったわけがありません」


 ロバートがぐっと息をのむ。道徳観念の希薄な男の顔を見ながら、ミネルバはさらに続けた。


「ミーアは勝利の味を楽しめるはずだと思ったからこそ、結婚前に純潔を捨てるという間違いを犯したのでしょう。結果として、高すぎる代償を払うはめになりましたが」


 ミネルバの言葉を聞いて、ミーアが椅子からすべり落ちた。床に膝をつき、手で顔を覆ってむせび泣く。


「ソフィーとの間に愛はないって、私と結婚するつもりだって言ったじゃない……結婚前に純潔を失っても不名誉にはならないって……。塔に呼んだのは私だけど、ソフィーがミネルバ様にかまけて暇だからちょうどよかったって……」


「僕は──僕はそんなこと言わない。言ってない」


「嘘よ! ロバート様は嘘つきのろくでなしよ! 大人しいくせに頑固なソフィーより、素直な私のほうが益があるって言ったわ。ソフィーに非がある形で婚約破棄するから、どちらの家族の非難も浴びずにすむはずだってっ! だから私、秘密の地下道のことも教えたのにっ!!」


 ミーアが髪を掻きむしる。ギルガレン辺境伯が拳を握り、自らの額に押しつけた。


「やはりそうだったか……」


 辺境伯は椅子から立ち上がった。ミーアの傍らに膝をつき、華奢な娘の肩を掴む。


「やはりお前は、地下に張り巡らされた秘密の通路をロバートに教えたのだな」


「お、お父様……痛い……」


 肩に食い込む指の力に、ミーアが顔をゆがめる。


「だ、だってロバート様が知りたいって言うから。この城が敵に包囲されたときのための、大切な抜け道だとは教えられたけれど、戦争なんて起こりっこないし──」


「たとえそうだとしても、お前は致命的な過ちを犯した。あれは皇族の方々と、ギルガレン家の当主一家だけが知ることを許されるものだ。辺境伯は常に有事に備えることが務めなのだと、何度も教えただろう。だからこそ毎年のように地下道の手入れをし、内部の仕掛けも変更しているのだ。その情報を軽々しく漏らすことは許されない」


「だって、ロバート様が教えてくれって何度も──」


「教えてくれと言われたから教えたなどという言い訳は通用しない。どうしてそんな愚かな真似ができたのだ。地下道の秘密が暴露されるわけにはいかない、直ちに工事を入れる」


 辺境伯は凄みのある目でロバートを睨みつけた。


「ロバート、君は不誠実極まりない男だな。若気の至りとして闇に葬るには、少々やりすぎたようだ。まさか、我が家の秘密まで狙われているとは思わなかったよ。今回の件を前向きに考えるなら、どちらの娘も君と結婚せずに済んでよかった。苦労するのは目に見えているからな。遅かれ早かれ、泥沼の離婚劇が始まったことだろう」


 ロバートの顔がひきつる。辺境伯の声には、激しい怒りが滲んでいた。


「洗練された貴公子という評判は、うわべだけでしかなかったのだな。見抜けなかった私が愚かだった。地下道についてのメモがあるなら、すべて出していけ。いつでもディアラム侯爵が助けてくれると思ったら大きな間違いだぞ」


 ロバートは青ざめ。震える指先で胸元から手帳を取り出した。手の震えがひどすぎて、黒い革張りの手帳がテーブルに落ちる。

 辺境伯が手帳を引き寄せ、中身を確認した。


「ぼ、僕が無理やり聞き出したのではありません。僕の気を引くために、ミーアが自分から教えてくれたんだ。ろくでなしの嘘つきなのは娘さんのほうですよ。何しろ閨でのことですからね、彼女の言葉が正しいと証言できる人間などいない」


 そう言って、ロバートは小さく口元を歪めた。


「僕のほうこそ、身持ちの悪いミーアと結婚するなんてまっぴらごめんだ。ソフィーだって、口さがない社交界の連中の噂の的になる。せめてソフィーだけでもまともな結婚をさせたいなら、僕を追い払うべきではない。後悔しても知りませんからね」


 ミネルバはぞっとするほどの嫌悪感が込みあげるのを感じた。


(人の心を平気で引き裂いておいて、こんなことを言うなんて。ロバートは、生まれつき残酷なことができる性質に違いないわ)


 実際にロバートの態度は、瀬戸際に立たされている人間のものとは思えなかった。


「父さん、母さん、この程度のことで僕を廃嫡するつもりかい? 刺激的な火遊びを楽しんだその日に、たまたま皇族がいたというだけで。ああ、僕はなんて運が悪いんだ!」


 ロバートがいきなり高笑いを始めた。どう見ても異常だった。錯乱状態に陥りつつある息子を、ディアラム侯爵夫妻はぽかんとした顔で眺めている。


「ルーファス殿下、僕に同情してくださいよ。殿下ほどのお人なら、恋の戯れのひとつやふたつしたことがあるでしょう? 僕だけ落ちぶれるなんて不公平すぎませんか?」


 ロバートがまた高笑いをした。侯爵が硬直して青ざめる。侯爵夫人は唖然とし、手からハンカチを落とした。


「残念だが私は、同情に値する者にしか同情はしないことにしている。私は君に対して、軽蔑以外には何も感じない。君への処分はディアラム一族が決めるだろう」


 ルーファスの口調は辛辣だった。ディアラム侯爵が我に返り、慌てて立ち上がって息子の肩を掴む。


「ルーファス殿下に対して、何という無礼な発言を……これ以上我が家の名に泥を塗ることは許さんぞ、ロバート。おいお前たち、この馬鹿を拘束して馬車に叩き込め!」


 壁際に控えていた侯爵の従者たちが、ロバートの周囲を取り囲む。無理に引っ張って連れて行かれながら、ロバートは不気味に笑い続けていた。

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