第3話 宝物

「小さなころの私は、父や母が構ってくれないと泣きべそばかりかいていた。両親は五歳離れた兄にかかりきりで……私はいつも乳母や教育係とすごしていた。幼いながらも、我が身を兄と比べては嫉妬していたよ」


 ミネルバの肩に頬をすり寄せて、ルーファスが静かな声で言う。ミネルバは無意識に彼を強く抱きしめた。

 ソファに座って寄り添い合っている状態だが、ルーファスの体の重みがしっかりと感じられた。彼は本当に大きかった。よく鍛錬されたたくましい体が、ミネルバをすっぽりと包んでくれている。


「多くの属国を従えるグレイリングは、父の代ではずっと安定していた。唯一の不安材料は、後継者である兄の体が弱いこと。両親はグレイリングの勢力圏から医者や薬学研究者をかき集めた。兄の養育に細心の注意を払い、できることは何でもした」


 ミネルバの腕の中で、ルーファスの体が小さく震えた。


「夜となく昼となく……両親を独り占めする夢を見たよ。もちろん父と母は私を愛してくれていたし、私の養育を人任せにすることに対して罪悪感を覚えていることも知っていた。でも嫉妬というものは根が深くて、ずっと私の心を蝕み続けるんだ。どれほどの理由があっても、自分を納得させることが難しかった」


 ミネルバの体じゅうを切ない思いが駆け巡る。小さなころのルーファスのそばにいてあげたかったと、痛いほど思ってしまう。


「グレイリングは厳格な長子相続制をとっている。しかし4歳か5歳のときにはもう、自分が微妙な立場にいることを悟っていた。兄はいまでこそ健康だが、当時は生死の境をさまようこともあったほどで……グレイリングの有力者たちは、兄が成人まで生きられないのではないかと噂していた。そんな状況で次男の私が、人々のどんな感情に触れていたかは想像がつくだろう?」


「はい。野心と欲望ですね」


 ミネルバは小さな、しかしはっきりした声で答えた。そしてルーファスの背中に回した腕にさらに力をこめた。胸の痛みが大きすぎて、そうせずにはいられなかった。


「そうだ。兄がこの世を去ったら、皇太子の称号を受け継ぐのは幼い私だ。早いうちから私を取り込んでおけば、グレイリング勢力圏で圧倒的な影響力を持てる。自分や一族に莫大な利益がもたらされる。貴族たちのぎらつく欲望や薄汚い野心が混じりあって、私を中心にものすごい勢いで渦巻いていた」


 ミネルバは身を固くした。

 やむを得ない事情があるとはいえ、生まれたときから親に甘えられず、愛を求めて泣いていた小さなルーファス。服従と敬意をもって近づいてくる人間たちのお目当ては、彼がもたらすであろう長期にわたる繁栄や権力や財産だけ……。


「ほとんどの国と同じように、グレイリングでも妻帯せずに皇位を継承することが禁じられている。だから多少なりとも権力欲のある貴族たちは、私と自分の娘に……是が非でも繋がりを持たせたがった。たとえ皇帝になれないとしても、私が受け継ぐ予定の領地は広大な上に天然資源が豊富で、娘の婿として申し分ない。だから私に群がる人間は、兄よりもずっと多かった。両親は対応に苦慮し……幼い私に制約を与え、自由を狭めることにした」


 ミネルバを抱いたまま、ルーファスが少し体を引く。そしてミネルバの顔を覗き込むように目を合わせた。


「両親は幼い私に、己の立場がいかに不安定かを言って聞かせたんだ。海千山千の貴族たちの手にかかれば、たやすく餌食になってしまう存在なのだと。私は後継者ではない、選ばれた存在ではない、しかし私の行動のひとつひとつにグレイリングの平和がかかっている。隙を見せてはならない、兄弟間の危うい均衡を崩してはならない、兄が基盤を固めるまでは人を愛することを禁ずる……」


「そんな……」


「仕方なかったんだ。フィルバートには、欲がなくて不正を嫌うバートネット公爵という守護者がいたが、私にはいなかったから。襲い掛かる狼たちを追い払ってくれる忠義者の三兄弟や、高い倫理観と品位を保って行動する理性的な婚約者がいてくれたら、どれほどよかったか」


 ルーファスは額をミネルバの額に軽く押しつけ、薄く笑った。


「両親から警告を受けた日から私は、自分の殻に閉じこもるようになった。子どもらしい感情を表に出すことをやめた。父や母の言いつけを守るために、それ以外に方法が思いつかなかったから。兄よりも目立たないために黒づくめの格好をして……群がってくる令嬢やその父親を傲慢に突き放した。おかげで悪魔の申し子、暗黒の皇弟殿下などという二つ名で呼ばれるようになった」


 ミネルバは息が詰まりそうだった。目を閉じたルーファスが、傷つきやすい小さな少年に見えてくる。


「嫉妬というものは恐ろしい。取りつかれると、フィルバートのように人生が破壊されてしまうことがある。私は兄のことを、嫉妬する以上に愛していたからよかったが……一歩間違えば、フィルバートと同じことになっていたかもしれないな」


 ルーファスが目を開けて、小さく吐息を漏らした。彼の温かい息がミネルバの頬をくすぐる。


「心に鉄の鎧をまとっていても、成長するにつれ危険は多くなる一方だった。蹴散らしても蹴散らしても、女性たちは熱い視線を送ってきた。詳しいことはミネルバには到底聞かせられないが、私の妃になるために父親とグルになって卑怯な手段に出る者もいたほどだ。あまたの誘惑から、自らの手で我が身を救い続けた結果、守りを固める能力が人よりも発達したんだ」


 ルーファスがまた体を引き、長い指先でミネルバの前髪をかきあげた。


「15歳のとき、放浪しているロアンを見つけた。8歳とは思えないほどガリガリに痩せた小さな子どもだったが、恐ろしいほどの能力を持っていた。彼のためにあれこれと奔走しているうちに、自分に結界を作る能力があることに気が付いたんだ。新しい治療法で兄が健康を取り戻して、真剣に愛し合える人と家庭を築いて、跡取り息子が生まれて……兄の基盤がしっかり固まるまで、結界は大いに役に立ってくれたよ」


 ミネルバはルーファスの頬に手を伸ばした。指先に彼を慈しむ気持ちを込める。


「兄が即位したとき、謝罪の言葉とともに言われたんだ。これからは自分の人生を生きてくれ、と。鎧を脱いで愛する人を作れと。でも私はそれまでの生き方に、愛し愛される喜びとは無縁の暮らしに、すっかり慣れてしまっていた。さまざまな感情が麻痺していて、新しい人生を目指そうにもやり方がわからなかった」


 ルーファスの目が切なそうに細められた。


「あのときは我ながら混乱したな。特別な人が欲しいと思っても、捨ててしまった感情は永久に戻ってこないのだと絶望した。だから私は、それまでまとってきた心の鎧をまた引き寄せて、いままでどおりの暮らしを続けた。気持ちをわかちあえる相手など、一生見つけられないと思っていた」


 ルーファスがミネルバに回している腕に力を込めて、優しく体を近づけてくる。胸と胸が再び密着すると、彼の鼓動がさっきよりも早まっているのがわかった。


「だが、ときとして人生は思いがけないほうへ向かう。家族以外の人間を愛する気持ちを失ったはずの私が、初対面の女性に恋をしたんだ。私は恋心を失ったんじゃなかった、長い間心の奥に隠れていただけだったんだ。ミネルバ、君が私に新しい世界を教えてくれた。心の底から正直になる幸せを与えてくれた。ミネルバがいなかったときのことなど、もう思い出したくない」


「ルーファス……」


 ミネルバは胸がいっぱいになって、目に涙が浮かぶのを感じた。ルーファスを愛する気持ちが募って苦しいほどだ。

 格上のグレイリングに嫁げば、つらいこともあるかもしれない。それは覚悟している。でもルーファスがくれた言葉さえあれば、何があってもミネルバの愛が薄れることはないと思えた。


「私は生涯……ミネルバを愛し続ける。君が望む通りの夫になれるように努力すると誓う……」


 ミネルバの肩に顔を埋めて、ルーファスが少し眠そうな声を出した。今日は朝早くから活動している上に何度も結界を使っているから、いよいよ限界が来たのだろう。


「私も生涯ルーファスを愛し続けます。私の愛は、どんなことがあっても負けません。だから愛しい人、ほんの少し休みましょう。起きたらまたたくさん話しましょう。15分……いえ、30分たったら起こしますから」


「15分で構わない……ミネルバの膝枕なら、最高級の寝具で眠るよりも回復するに違いないから……」


 そう言ってルーファスは身体の向きを変え、ミネルバの腿に頭を乗せてくる。

 ルーファスの髪はすっかり乱れていた。ミネルバは彼の端整な横顔を見下ろしながら、黒髪を梳くように頭を撫でてあげた。そして、彼が夢の世界に入っていくのを優しく見守った。

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