止める理由

 もし、そんなものがあるとしたら。一つ、現実的な案としては、やはり寿命であろう。死だけが筆を止めるのに確かな理由なのだ。他は全て、共有できない仮初かりそめの理由にすぎない。そうでなければ、僕は筆を折る際に途轍もなく強い意志を発揮する事になる。そしてそれは、夢物語と変わらないのだから。


 つまりは妄想なのだ。筆を折った所で、結局は新しいものを買いに行くだけなのだ。自己というものを嫌悪の末に投げ捨てて、わざわざ取りに戻るようなものだ。僕は何度もそれをしてきたし、だからもうこんなつまらない事に時間を割くつもりもない。だから書く。ただ書く。僕はこれを強迫観念だと思っていたが、そうではなくて、実際には脅迫であったのかもしれない。


 これをしなければ、自分は殺されたも同然なのだ。殺したも同然なのだ。どちらが正しいか……そんな事はこの際どうでもいい。結局、そこで一人朽ちていく事に何の変わりもないのだから。僕は、即身仏になるつもりはないし、そう成り果てるまでに自分を律する事もできない。だから、筆を折るという事が、途轍もなく強い意志の下の行為であると、そういう訳だ。


 自分よりも上手い人がいて、自分よりも強い人がいて、それで自分なんてのが生きなくても済んでしまうのなら、初めから自分など一度も生きていなかったという事だ。止めるも何も、始めていなければ終わらせようもない。だから、自分というものを生きている筈だ。今はただそれだけだ。それだけで、書いている……僕はこれを誇示し続けるぞ! 絶えず誇示し続ける! そうでなければ、どうしようというのだ。初めてもいないのに止めるのか。そんなのはごめんだ。

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