第30話「無窮の練武」
いったいどれほどの時間が流れただろうか。
朦朧とする意識の中、腹を貫かれながら考える。
「立ち上がりなさい。戦いなさい」
目の前で妖艶に笑う魔王。彼女は黒い翼を広げ、手に槍を持っている。
始めて彼女と対峙した時、あの埃にまみれた迷宮で出会った彼女とは違う。最弱の魔王と侮られ、事実として多くの勇者の進行を許してきた、弱い存在ではない。
この、時の流れからも隔絶された迷宮において、彼女は唯一にして絶対の強者だった。
「うぉおおおおおっ!」
声を上げ、聖剣を掲げて走る。
風穴の開いていた腹は、いつの間にか癒えていた。
「斬るッ!」
突き出された槍を弾き、露わになった胴部に銀の刃を向ける。
腐肉を斬るような手応えの無さで、魔王ルビエラの脇腹に傷が開く。しかし、それも数秒で消えた。まるで時間を逆行しているかのようだ。
「もっと速度を上げなさい。肉体の限界を越えなさい」
彼女はまるで、俺たちを鍛えるかのように動いている。
当然、殺す気だ。しかし、刃が彼女の魂に届かない。
死ぬたびに“光の女神の加護”は強くなり、剣技は冴え渡り、肉体は屈強になるというのに。彼女の胸に剣を突き刺すことができない。
今や、俺たちは歴代のどんな勇者よりも遙かに強い力を得ているはずだ。剣聖と称えられたあの天才よりも、女神の寵児と持て囃されたあの聖女よりも、遙かに強力で濃厚な“光の女神の加護”をその身に宿している。
だが、届かない。
「もう少しよ。貴方たちの輝きが、近づいているわ」
ルビエラは、何を考えているのだろう。何を目指しているのだろう。
そんな思考の乱れは許されなかった。
「があっ!」
二つの槍が胸を貫く。左右に振り払われた槍の切っ先により、胸部が横に千切れる。
身を焼かれるような激痛も、飛んでいく下半身を見送る衝撃も、全て慣れきってしまった。悲鳴を上げ、涙は流れるが、心はすでに動かない。
「立ちなさい。そして、立ち向かいなさい」
それでも、彼女は赦さない。
俺たちが倒れ、心を折ることを赦さない。
ティナが泣き叫び、杖を投げ捨てても。メルトが女神に対して恨みの言葉を放とうとも。サラが拳を開き、膝を突こうとも。
――俺が、聖剣を落とそうとも。
「剣を拾い、挑みなさい。もう少しで、貴方たちの役目は終わるわ」
魔王の甘い言葉が耳に響いた。
暗い石の聖堂のなか、床に倒れていた仲間たちがよろよろと起き上がる。まさかと目を見開いて、震えながら立ち上がる。
「ほ、本当に? ほんとに、終わるの?」
杖に寄りかかりながら立ち上がったティナが、亡者のように覚束ない足取りでルビエラの元へ向かう。地獄の中で一本の蜘蛛糸を見つけたかのように、昏かった目に光が戻っている。
いったい、どれほどの時が流れただろうか。
恐らくは、数年。数十年。もしくは、百年以上かもしれない。しかし、時の流れからも隔離されたこの空間では、それを推し量ることすら無意味なのだろう。
俺たちが何千、何万、何億と戦い続けてきたという、その事実だけが、俺たちの心を蝕んでいる。
「終わるわ。貴方たちの役目も」
魔王ルビエラの甘言に、敬虔な信徒であるメルトですら笑みを浮かべている。サラは放心し、口の端から白い涎を垂らしていた。
「終わらせて。……はやく、早く終わらせてよ! わたしたちのこと、終わらせて!」
魔王の腰に縋り付き、ティナが泣き叫ぶ。彼女の絹を裂くような甲高い声が、石の聖堂に響き渡る。
メルトは肩を震わせて滂沱の涙を流し、魔王に向かって祈りを捧げている。
この、あらゆる世界から隔たれた小さな世界において、俺たちにとって、彼女こそが――魔王ルビエラこそが女神だった。
「この戦いが終わる条件はただ一つ。貴方たちが“光の女神の加護”を全て授かること。人の身では至れない神の領域へ、4人で到達すること。そのためには――」
「あぐっ!?」
魔王ルビエラが軽く手を払う。それだけで、目に見えるほど濃密な魔力の波が吹きすさび、ティナを後方の壁へと飛ばした。
強く背中を打った彼女は背骨を折り、口から血を流して死ぬ。そうして、生き返る。生前よりも少しだけ、“光の女神の加護”を強めて。
「全力で戦いなさい。その身に宿す全ての力を使い切りなさい。それでも尚、私には届かないことを思い知りなさい。そうして、貴方たちが信じる、光の女神に請いなさい。更なる力を――闇の女神を討ち滅ぼすだけの力を授けたまえと」
魔王が翼を広げ、槍を構える。
無数の魔術が展開され、彼女の周囲は堅固に守られる。
石の聖堂が揺れ動き、柱が崩れる。石を積んだ壁が崩れ、その向こうに広がる闇の中から、巨大な蛇が現れた。
この魔王は――この女神は――いったい、どれほどの力を持っているんだ。俺たちが嘲り赤子の手を捻るが如く簡単に打ち倒していた彼女は、いったい何だったのだ。
本能的な恐怖が、頭の奥底に強く刻み込まれた根源的な恐怖が警鐘を打ち鳴らす。それでも、俺は足下に落ちた剣を拾わなければならない。
「これで、終わるのね」
「これが……最後……」
「やっと、解放される」
無限に続く死の繰り返しに、肉体ではなく心が朽ちていた。絶望の暗い深淵の底に落ちていた。
そこへ差し込んだ、細く頼りない希望の光。憎むべき敵、悍ましき魔王から差し伸べられた救済の手。
俺たちに、それを掴まないという選択肢はなかった。
「全力を出しなさい。貴方たちが全力を出さない限り、光の女神は応じない。無限に力を小出しにして、往生際悪く引きこもる。命をすり減らし、喉を裂きながら叫びなさい」
魔王ルビエラが立ちはだかる。
ティナが詠唱を始める。〈奈落の廻廊〉へ落とされた時とは比べものにならないほどの濃密な魔力が、綿密に編まれていく。この戦いの中で、彼女は魔法史を数百年以上突き放すほどの研鑽を積んでいた。
メルトが女神に祈りを捧げる。聖堂全体に、聖域と呼ぶべき祝福の空間が広がる。骨が折れ、肉が断たれても、数秒と掛からず癒えるだろう。皮膚は鋼よりも硬くなり、膂力は龍のそれに匹敵するほど強化される。
サラの構えは、一分の隙もないほど洗練されていた。肉体は度重なる死と再生の中で極限まで鍛え抜かれ、彼女の拳はすでに音の壁すら打ち砕く。もはやそこに、彼女が習得した流派の形はない。それまで築き上げてきた技を全て、彼女は完全に昇華させていた。
「征くぞ、魔王」
そして、俺も。
聖剣の輝きはもはや眩しさすら越え、常人の目を焼くほどに溢れている。肉体は人間の、生物の限界を越えた。
あらゆる感覚が研ぎ澄まされている。爽やかに晴れた思考は、森の奥、早朝の湖面のように静かだ。
「来なさい、勇者」
魔王ルビエラが深紅の唇を弧にして笑う。
それが合図だった。
「ッ」
「ふふっ」
音を越え、光に迫る瞬間の初撃。
ルビエラは――圧倒的な存在は、それにすら余裕を持って対応してきた。
衝撃は横に反れ、その余波だけで壁の穴から現れた蛇どもを肉片に変える。それだけで飽き足らず、堅固に組み上げられた石の廟堂が粉々に砕ける。
形を失った破片は濃密な闇の中へと消え、そこに俺たちだけが残される。
落ちはしない。ここにいると信じていれば、世界はそれに答えてくれる。この世界であれば、俺たちは最高の力で戦える。
「――ッ!」
警鐘。
回避。
顔の皮膚が剥がれ落ち、瞬時に再生する。
そのあとで理解する。
ルビエラの放った攻撃だ。それは後方にいるメルトを真っ二つに切り裂き、構えていたサラの右肩を断った。
「それがどうしたっ!」
だが、俺は止まらない。
ティナの炎が降り注ぐ。
復活したメルトが再び聖域を展開する。
腕を取り戻したサラが俺の隣に現れる。
「何度だって甦る。そして、お前を――倒す!」
もはや死は戦いを止める理由にはならなかった。足を鈍らせる泥たり得なかった。
久しく忘れていた高揚感が胸の奥底から沸き上がる。
生命という炎が溢れ出す。
俺は――俺たちは――生きている。
「うぉぉおおおおおおっ!」
理性を捨て、獣のように吠える。
歯がぐらつき、喉から血が吹き出しても、止まらない。
聖剣を魔王の青白い腕に叩き込む。皮を裂き、骨を断ち、肉を斬る。
迎え撃つ槍はそのまま体で受ける。腹に刺されば、それだけで一瞬動きが鈍る。俺の体が二つに分かたれるまでの間に、一撃を入れることができるのだ。
「死ね、死ね死ね死ねっ!」
勇者とはなんだろう。
魔王を討つ存在だ。
ならば、今の俺たちこそが、史上最高の勇者だ。
「死ねぇ!」
胸を槍が貫く。
心臓が動きを止める。
それでも剣を握り、振り上げる。
心臓が再び鼓動を始め、剣を握る手に力が戻る。
「死ねェえええっ!」
自分の命すら考えることはない。
ただ目の前の存在を殺すことだけを考える。
メルトの魔力が、サラの暴力が、魔王を襲う。
メルトは聖域が意味を為さないと判断し、過回復による身体崩壊を狙った攻撃を始めた。
4人の勇者による、熾烈な攻撃が魔王を襲う。
しかし、それでも彼女は微笑みを崩さない。
嵐が巻き起こり、炎が吹き荒れる。剣撃を速度を増し、一刀のもとで複数の傷を刻むに至る。強引な回復魔法によってルビエラの腹が水にふやけたように膨れ、弾ける。
だが足りない。
「もっと、力を!」
「もっと、強い加護を!」
見ているのだろう。光の女神よ。我らが母よ。
俺たちの戦いを、俺たちの命の輝きを。
力を注ぎ込んだ器が乾いているのだ。まだ足りぬと叫びを上げているのだ。その鼓動が、御身にも届いているはずだ。
注げ、注げ。力を授けたまえ。
我らに悪を討つ力を。魔王を滅ぼす神聖なる刃を。
「あああああああっ!」
もはや意味すら乗らない絶叫と共に、聖剣をルビエラの胴に叩き込む。まるで大樹を叩くかのような重い響きと共に、銀の刃が食い込む。
胸が裂けそうなほどに息を吸い、実際に腕の筋が断ち切れるほどの力で剣を進める。
聖なる光は邪悪な魔王の肉を焼き、骨を焦がす。
俺の刃が、魔王の腹を断つ。
「――来たわね」
崩れゆく魔王の上半身。
長い髪を靡かせ、その下で彼女は笑う。
その時、俺たち4人の熱く燃える心臓が弾けた。
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