間話:最後の休息




「……眠れない」


 仮眠のためにログアウトして、早くも一時間が経過しようとしている中……もう何度目か、紅は布団を蹴飛ばしてむくりとベッドから起き上がる。


 どれだけ早く寝なければと思って目を閉じても、不安が頭の中をぐるぐると周り、じっとしている事が耐え難い。

 高ぶったまま降りてこられずにいる神経は眠りに就くことを許さずに、今すぐ『Destiny Unchain Online』に戻れと急かしてくる。


『あの、お姉様、起きていますか……?』

「……む、ルージュ?」


 そんな、ふたたびベッドに倒れ込んでから早くも何度目かの寝返りを打った頃……不意に、ルージュにしては珍いことに、就寝中の紅へと声を掛けてきた。


『それが、来客みたいでして……こんな時間ですが、相手が相手だったから判断を仰ごうかと……』


 そう言って、ルージュは玄関前の映像を紅のNLDに転送してくれる。そこに映っていたのは……


「……聖!?」


 寝間着の上にコートを突っ掛けた格好で玄関前で待つ、思わぬ呼び出しの相手に……紅は飛び起きて、下着の上に寝間着用のロングキャミソールだけという今の格好も忘れて部屋を飛び出し、到着した玄関のロックを外す。


 今晩は両親もいないために掛けていたチェーンを外すのももどかしく、慌ててドアを開けると……聖は、少しだけ驚きの表情を見せた後、ふにゃりと笑顔を見せる。


「えへへ……ごめんなさい、眠れなくて、つい来ちゃった」

「来ちゃったって、聖……と、とりあえず入って、そんな格好じゃ冷えるよ!」


 三月、春とはいえ夜だ、外気はまるで肌を刺すような冷気に満ちている。


 慌てて手を引き家の中へ招く紅に、聖も素直についてくる。



 ……とはいえ、夜更かししている場合ではない。電子レンジで温めた蜂蜜入りホットミルクで暖まったあとは、すぐに一緒のベッドに入る。


 初めてではないとはいえ、聖と一緒のベッドで同衾しているという事実に破裂しそうな心臓を宥めすかしていた紅だったが……


「ねぇ……ちょっとだけ、こっちを向いてもらっていいかな?」

「聖、いったい何――むぐっ!?」

「あのね……大丈夫だよ、きっと」


 自分が、その胸の内に抱き込まれたのだと、遅れて理解する紅。

 だが、逃れようとする紅だったが、聖がそんな紅の頭を逃すまいとホールドしたまま、その頭を、優しくポンポンと撫でる。その感触に、思わず抵抗する力が抜けてしまう。


「きっと、紅ちゃんは眠れてないんだろうなって、心配で来ちゃったんだ……私は、紅ちゃんがリアルだと凄い繊細な子だって、誰よりも知ってるから」


 耳元から聞こえる優しい声に、紅がビクッと肩を震わせる。


「それでも、あっちでは皆のために強い『クリムちゃん』を必死に頑張ってることも、ずっと知ってる」

「聖……私……俺は……」

「だから……大丈夫だよ、私には全て曝け出しても大丈夫」


 聖の優しく諭すような言葉に、紅がこれまで堪えてきたものが決壊したように、表情を歪める。



 ……向こうでの紅は、『クリム=ルアシェイア』は、全てのプレイヤーのほぼ頂点に居る、今は皆の精神的支柱である存在だ。


 そして……今回の決戦に挑むことを決めたのは、紅だ。紅をはじめとしたたった四人のプレイヤーだ。


 その四人で決めたことに、全プレイヤーを巻き込んだ。


 そんな紅だからこそ――『クリム=ルアシェイア』という存在は、揺らぐわけにはいかなかった。



 ……その事自体に、後悔はない。


 同じ選択を今、あるいは今後突きつけられても、きっと紅は同じ選択をするだろう。


 だが……それでも、この決戦に何万のプレイヤーを巻き込んだ一人なのだ。


 負けたら、おそらくショックで引退するプレイヤーも大勢居るだろう……そんな決戦に巻き込んだ一人なのだ。


 だから、笑っていなければならなかった。


 悠然と、自信たっぷりに、時には戯けて笑われながら、それでもいつも通りに笑っている必要があったのだ。


 それは……昴などは気付いた節があって、さりげなくフォローしたりしてくれてはいたが……あまりにも、少女の双肩に乗せる荷物としては重かった。



 ――怖くて、当然だった。



 先日、責任感に震えていたユーフェニアを慰めるために語った言葉だって、全て自分に言い聞かせるためのもの。


 そうして恐怖とプレッシャーが積りに積もって、ついに今、眠れなくなってしまった精神を……しかし、柔らかく包み込んでくる聖の暖かい感触が、問答無用で溶かしてくる。


 先程とはうって変わり、どんどん霞がかっていく意識の中……紅はただ、縋り付くようにして少女の名前をうわごとのように口にしていた。


「……大丈夫だよ、紅ちゃん。あの世界を救いたいっていう人は、たくさん居るよ。紅ちゃんだけじゃない、今もシャオ君や、緋上先輩たちが頑張ってくれてる。だから……大丈夫」

「うん……そうだね……きっと……」


 そう、もはや声になっていない声で呟いたのを最後に……紅の意識は、安らかな闇に溶けて消えたのだった。






 ◇


 ――現実時間で、午前3時。


 クリムたちが仮眠から帰還した時……交代時間までに、シャオたち前半組は第五層を突破していた。


 そこから引き継いだクリムたちも、あるいは一度しっかり休息を取ったのが効いたのか、破竹の勢いで複雑な地形に無数のエネミーが潜む第六層を駆け抜けて……こちらも、後半組が仮眠から戻ってくるまでの間に突破して、第三のセーフポイントへと到達していた。





 ◇


 ――そうして、後半の仮眠組が戻ってきた、朝の9時。


 この場所に辿り着くと同時に語りかけてきたルシファーが言うには……これが最後のセーフポイント。


 以降、戦闘不能で蘇生を受けられずに死に戻れば、ここまで戻される。


 そんなピリッとした緊張が走る中で……仮眠から戻ってきたプレイヤーも勢揃いした中、次の層への転送のカウントダウンが始まった。



 ――やがてカウントダウンが終わり、転送された虚影冥界樹第七層。


「……雰囲気が変わったな」


 端的に呟いたクリムのそんな言葉に、周囲のプレイヤーたちに緊張が走る。



 第七層……そこはただひたすらに、空洞外周に設けられた、道幅が百メートルはあろうかという広い螺旋階段を登っていくだけの、一本道。


 だが……クリムにはあまりにもシンプル過ぎるそれが、ここから先はこの虚影冥界樹がギアを上げただけのように思えて仕方がない。


 そんな螺旋階段を少し上ったところにあった、半径五百メートルはあろうかという、広い広い半円形の踊り場で。




「こいつは――天使、か?」


 中心で待ち構えていた存在に、プレイヤーの一人から半信半疑の声が飛ぶ。


 巨大な、樹のような物質を縒り合わされて体を構成された、いびつおぞましい姿の翼持つ天使が佇んでいた。


 木の枝が渦を巻くようにして形作られた、目も口もなくただ螺旋らせん模様だけがある顔には発声器官らしきものは見当たらないが、何故かずっと聴こえてくるけたたましい音が、胸にぞわぞわと不安感を掻き立てる。


 他に、敵影は今の所見当たらず、だがそれがかえって眼前の天使を異質に見せていた。


「この……なんの音だ?」

「ラッパか、これは?」


 ざわざわと、聴こえて来る音に首を傾げているプレイヤーたち。そんな中……


「……天使に、ラッパですか? …………ッ、来ますよ、皆、散開を!!」


 不意に叫んだシャオの言葉に、クリムやソールレオンを始めとしたプレイヤーの皆が、訳もわからないままに押し寄せる危機感に突き動かされて散り始める。


「……上だ!!」


 おそらくは、スザクの声。

 それに反応してバッと顔を上げたクリムが見た物は……何故か、冥界樹の幹の中だというのに見える、赤と青の光瞬く満天の星空。


「星……いや、逃げろ――あれは全て炎と氷柱じゃ!!」


 そんなクリムの忠告――直後、プレイヤーたちに向けて、炎と氷のつぶてが、まるで豪雨のように降り注いだのだった――……

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