セイファート城の客人たち⑩
――ジェードの工房は、今、緊迫した空気に包まれていた。
ダアト=セイファートから薬草を分けて貰いにいったジェードと、そんな彼女の手伝いに付き従っていた、巫女と悪魔の凸凹コンビ。
その凸凹コンビ――ヴァーゴとリリスの機嫌が、アトリエに戻ってきた時には、絶対零度の空気を醸し出すほどに最悪だったからだ。
誰も彼もが沈黙する中で、ルキフグスが我関せずとひたすた机に向かい紙にペンを走らせている音だけが、アトリエ内にやけに大きく響く。
そんな、胃がキリキリしてきそうな空気が満ちるジェードのアトリエの中で……沈黙に耐えかねたクリムが、おそらく二人の不機嫌の原因と思われることについて、おそるおそる尋ねる。
「あー、ところでセオドライトは?」
「一度国へ戻りました」
「連れて行ってもらえませんでした」
ぴしゃりとそれ以上の会話を遮断するヴァーゴとリリス、その二人が放つピリピリした空気に、周囲の皆が顔を顰める。
――逃げたな、あやつ。
この場に居ないセオドライトの行動をそう評しながら、しかし、このまま二人がギスギスしているのも心臓に悪い。
そのためだろう――クリムが、リリスに対して提案をしたのは。
「……私の過去、ですか?」
きょとんと驚きの表情で首を傾げるリリスに、クリムは一瞬、迂闊だったかと後悔しかけた。
アスタロトやルキフグスの過去は、かなり凄惨だった。ならば、彼女もまたそうなのではないか……そんな考えが過った頃。
「構いませんけれど……私の話など、アスタロトちゃんやルキフグスちゃんみたいに劇的なものではないですよ?」
意外にも、気にした風もなく快諾してくれるリリス。その様子に、部屋の中の空気に安堵が流れる。
「それでも、こうして交流する機会があったのじゃし、お主が嫌でなければだが聞かせて貰えんか?」
「そうですか……では、お恥ずかしながら。これから語るのは、ある一人の世間知らずの『花』の物語です」
まるで吟じるようにそう前置きして、リリスは己の過去について、静かに語り始めたのだった――……
◇
「――お前は、私が籠絡して見せたお偉い貴族様の娘よ」
そう言ったのは、若い頃は人気の踊り子だったという、少女の母親だった。
普段は酒場に仕事で踊りに出ており、家では酒気が絶えなかったという少女の母親は、常々そう、娘に自慢するように語って聞かせていた。
……そんな母親の言葉が本当かどうかは、もう今となっては分からない。
だが……その言葉を与太話とは切り捨てられないくらいに、少女はまだ幼いながらも、その将来を予感させるほどに、美しい子供だった。
……故に、夜の仕事による負担の蓄積から体を壊して、仕事ができなくなった母親の抱えた借金のカタに、娘が好色家のお貴族様へと売られる事になったのもまた、自然の流れだったのかもしれない。
そうして、少女が母親から引き離され連れてこられたのは――同じように金銭で買ってこられた少女たちが暮らす、外界とは隔絶されたお屋敷。
そして少女の仕事とは、主人や、主人が連れて来る客人たちをもてなすこと。
そこでの生活は……意外にも、何も難しいことではなかった。主人が連れて来る客人たちは、皆、従順な少女には優しかった。
まだ幼い少女だ。膝に抱かれたり、撫で回さることはあったが、決して痛いことや嫌がることはされなかった。
可愛く笑っていれば、食事の量が増える。
可愛くしなを作っていれば、お菓子がもらえる。
早い段階でその事に気付いていた少女は、その温室で楽に生きる手段を知り、従順な『良い子』として評判になっていた。
他の子達みたいに、反抗して「お仕置き」を受けることもなく、大事に大事に、その時が来るまで蕾を育てられる日々。
蜜を溜め込み、色艶を蓄え……いずれ咲いた時には摘まれ、愛でられ、種を残してやがて朽ちていく……少女は、そんな花だった。
そんな穏やかに、しかし逃れようもなく定められていたはずの花としての運命は――ところがある日突然、消失することになる。
ある意味では、庇護者だったと言えなくもない主人……とある好色家の貴族の、不祥事による失脚。
次々と明るみに出る悪事の中の一つとして、方々から金で集められ、屋敷の中で飼われていた少女たちも救出される。
こうして、温室で大事に育てられた花は、自由という名の地獄へと解き放たれた。
だが、客を楽しませるための教養は詰め込まれていたが、それを自発的に活用することは教えてもらえなかった……誰かに依存して生きるしかない、温室の花。
一方で、手間暇惜しまず金に糸目を付けず、大切に、大切に育てられたその花は、在野にあっては芳醇な蜜をたっぷりと蓄えられた、虫たちにとっては垂涎の存在でもあった。
庇護者の僅かな隙をついて、そんな無垢な花を騙すなど……悪意ある者達には、容易いことだった。
そうして――花は、己が一時の快楽の為ならば人ひとり壊す事など何の躊躇もない者たちに、攫われた。
あとはもう散らされて、踏み荒らされるのみ。この後待ち受ける未来は、もはや真っ暗に途絶えていた……悪魔として覚醒したのは、そんな絶対絶命の時だった。
◇
「――ですが、そうはなりませんでした。私を襲おうとしていた者達は皆、気が付いたら私に傅いており、私が思うままに働いてくれました……これが、私が『リリス』となった最初の記憶ですわ」
そう、目を閉じて、胸元に手を置きながら、静かに話を締め括るリリス。
――重い。
クリムが、顔を盛大に引き攣らせながらそんな感想を抱く。
隣ではメイとジェードも、反応に困ったからとりあえず笑ってみた、と言った感じの表情を浮かべていた。
ヴァーゴはといえば、いつのまにか目覚めており、寝ぼけて周囲を見渡しているフィーユの耳を塞ぎながら、気まずそうに明後日の方向を見つめていた。
……彼女の場合、ほんの少し前まで誘拐され監禁されていた身である。似たような境遇だった悪魔に、他の誰よりも思うところはあるのだろう。
アスタロトやルキフグスとはまた別種だが、やはりというかリリスの過去もまた、絡み付いて来るような、粘度が濃い重さだった。
「ですが……こうしてなんだかんだで楽しく過ごせていますから、結果オーライですわね」
「……ふぅ、まあ、頭がピンクに染まり切っている人を心配するだけ無駄でしたか」
呑気なリリスの言葉に対し、そう冷ややかに言うヴァーゴだったが……しかしその表情と口調は、少しだけ柔らかくなっていたと、後にクリムは語るのだった。
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