波打ち際のひととき

 ――人目を避けるように、岩陰になっている砂浜へと移動した紅たち。




「あはは、ねえ聖、足元が流れていく! 何これ気持ち悪っ!?」


 波にさらわれて、紅の足元の細かな砂が流されていく。

 その足をくすぐる感触に笑いながら、ミントグリーンのワンピースを両手でちょんと摘んでたくし上げ、チャプチャプと波打ち際をはしゃぎながら歩く紅だったが。


「――痛っ」


 背後から聞こえた、そんな小さな悲鳴。

 慌てて振り返る紅の眼前には……指から赤い雫を垂らした聖の姿があった。


「あはは……ごめーん、岩に手をついた拍子に、フジツボの殻で切っちゃったみたい」


 なるほど、見れば聖の傍らにある岩の一部には、びっしりフジツボが付着している。


「大したことないよ、大丈夫」


 そう苦笑している聖に近寄った紅は、そんな彼女の手を取って怪我の具合を確かめると……


「ふぁ!? こ、紅ちゃん?」


 ……そのまま、ぱくり、と紅が聖の細く白い指を口に含んだ。


 聖が突然の紅の行動に驚きの声を上げるも、紅はそのまま一心不乱に、ちゅ、ちゅく、と唾液を絡ませるようにして指についていた血を舐めとる。


「あ、あはは、く、くすぐったいよ紅ちゃん!?」


 こそばゆさに思わず身体をくねらせ、目の端に涙を浮かべて笑い転げる聖だったが、紅は夢中でそんな聖の指に舌を這わせ、離れようとしない。


 その、可愛らしい少女がまるで熱に浮かされた様子で、もう一人の可憐な少女の指を唇と舌でねぶっている姿は……側から見て、どこか淫靡な様相を呈していた。




 母、天理が言うには――紅や天理など『ノーブルレッド』の唾液には、血を吸った相手の負担を軽くするために、再生促進効果があるのだと聞いていたのが、紅がこのような行動に出た理由の一つ。


 もう一つは……流れる聖の赤い血を目の前にして、紅はもはや衝動が抑え切れなかった。

 指から流れ出る僅かな血とはいえ、その滴は甘美な味わいを紅の口内に残し、胃に落ちてかっと熱くさせていたのだ。




 衝動に浮かされるまま、紅はもっと、とさらに吸い出そうとして……


「真っ昼間の外で何やってんだ馬鹿」

「あだっ!?」


 何処かに行って戻ってきた昴に、頭にチョップされて紅が悲鳴を上げた。

 自分が何をしていたのか今ひとつ理解していないらしく、衝撃で我に返った紅は頭にハテナマークを浮かべ周囲を見回している。


「はい、姉さん。消毒液に絆創膏と耐水フィルム」

「あ……ありがと」


 ふぅ、ふぅと上気した息を吐き、未だポーっと惚けている聖の指の傷を、昴は持ってきた救急キットで手早く処置しながら……未だ事情を飲み込めていない紅へ呆れたような視線を向ける。


「紅も、外で怪我したのをポンポン舐めるんじゃない、腹壊しても知らないぞ」

「う、ご、ゴメン」


 確かに昴の言う通りだと、反省する。


 そんな昴はというと……聖の指の絆創膏上から耐水フィルムを貼り終えながら、怪しく眼鏡を光らせて、口の端を吊り上げていた。


「……知ってるか紅、海の岩場で膝を切った子供がな、何ヶ月後かに膝の痛みを訴えたんだ。不審に思った親が病院に連れていったところ、膝蓋骨の裏にはびっしりと……」

「おい止めろ馬鹿ぁ……!」


 おどろおどろしく語る昴に、紅が目に涙を浮かべ、顔を青くしながらその言葉を止める。

 紅は昔、その話を聞いて夜心配で眠れなくなったことがある。科学的に否定されている話ではあるが、それでも、もしかしたらと思うと恐ろしいのだ。


 ……が、その被害は紅だけに留まらず。


「うう、今の話本当? 私、夜寝れないよぉ……」

「ひ、雛菊もそのような痛そうな話は専門外です……」


 たまたま近くに来ていたために、流れ弾で蒼白な顔をしている深雪と雛菊。その様子を見て、ほらみろと紅が昴を睨む。


「もう……昴、あまり面白半分に女の子を怖がらせちゃだめだよ?」

「いや……うん、ほんとゴメン」


 流石に年少組まで泣かせたとあっては、申し訳の無さが先立つらしい。昴は紅と聖、二人の責める視線にバツが悪そうにしていた。


「でも、怪我をするのは本当だから……二人とも、素足で踏まないようにね?」

「「はーい」」

「それと、何にでも面白半分に触らないこと。海の生き物は結構怖いのも居るから。あと……」


 なんだか手慣れた様子で子供たちに注意点を説明しているのは、様子を見て駆けつけてくれた委員長。

 彼女に年少組を任せ……準備体操を済ませた紅たちも、いよいよ海水へと踏み込むのだった。




 海水は思ったほど冷たくなく、ひんやりとした心地よさで、外のうだるような暑さの中で火照った肌を冷やしてくれた。


「でも、意外だったなあ」

「……ん? どうしたの、委員長?」


 雛菊たちに付き合って、海中でビーチボールを投げたりして遊び始めた紅たち。


 うっかり取り損ねた手に弾かれて飛んでいったボールに、紅が誰よりも早く追いつき、それを胸に抱えて泳いで戻ってきた時……佳澄が、驚いた表情でそんなことを呟いたのを、紅は耳聡く聞きつけた。


「満月さんって、泳ぎ上手だったんだね。てっきり……」

「……私、べつに運動音痴じゃないし」


 なんとなく彼女が言いたいことを察して、ボールを抱え直してぶすっと頬を膨らませる紅。


「……うっ、そんな顔しても可愛いのは反則じゃない?」

「……? 委員長、どうかした?」


 途端に挙動不審になった委員長に、首を傾げる。そんな追い討ちにもめげずに、顔を赤くした佳澄が、こほんと咳払いしたのち話し始める。


「まぁ、友達になってしばらく経つし、満月さんが運動苦手ってわけじゃないのは今まででよく分かったんだけど……」


 佳澄はそこまで言って、ボールを抱えたまま、まるでラッコのようにぷかぷか海面に揺蕩う紅の全身に目を通し、しみじみと続きを呟いた。


「ほら、イメージがね。見た目儚げー、って感じだからどうしても運動できる印象が無くて。いや、凄いのは知ってるんだけど」

「……あはは、ゴメンね紅ちゃん、私も佳澄ちゃんの言うことよく分かるの」

「こいつの見た目であの身体能力は、まあちょっとした詐欺だよな」




 例えば、体育の授業、体育館で行われたバスケットボール。


 吹き飛ばしたらどうしようとクラス皆で心配する中……そのクラスで一番小柄な体型と抜群の瞬発力で縦横無尽に相手チームの間を駆け回り、空中戦では巧みなハンドリングからのフェイントやレイアップ、そこからノーモーションでのパス回し。果てはその小柄な体でまさかのアリウープまで披露してゲームを引っ掻き回したのは、クラス皆の記憶に新しい。


 結果……久々の体育にテンション上がった紅が我に返ったのは、クラスの間で「コート上のしろいあくま」という渾名がすっかり浸透した後なのだった。




 ――閑話休題それはさておいて


「むぅ……なんなら、あの外壁まで泳いで競争する?」


 そう、負けず嫌いを発揮した紅が、何気なく提案する。


 見た感じモニターになっている外壁までは結構な距離があるが、すっかり体力も戻った今の紅ならば、200メートル個人メドレーだっていけるはずだ。まぁだいぶペースを緩めれば、あれくらいの距離ならばなんとか……


 そう思ったが故の提案だったのだが。


「いやいや、やめよう、ね?」

「うん、紅ちゃん、やめときなよー?」

「ま、僕にもだいたいオチが見えるからやめとけ、な?」


 引きつった顔で首を振る佳澄のみならず、聖や昴にも、やんわりと止められた。

 皆の様子に首を傾げる紅に、代表して昴が問題を突きつける。


「お前の水着、ガチで泳ぐやつじゃねーだろ」

「……あ」


 そうだった。


 昴の指摘通り、紅も勿論そうだが、佳澄も可愛らしいフリルビキニ……水辺で遊ぶための水着である。

 たとえ紅がどれだけ体力に自信があったとしても、可愛さに振り切った水着はガチなクロールやバタフライに耐えられるようにはできていないのだ。


 つまりは……高い確率で、ポロリする。


「そういうのは、競泳水着の時にしようねー?」

「うぐ……分かった」


 流石にそれはいただけない。

 聖に優しく諭されて、渋々と引き下がる紅なのだった。





「でも、よく考えたらゲームであんなに強いんだから、満月さんが運動できるって当然なのよね……」

「いや……どうかなぁ」


 委員長の言葉に、紅が何やら微妙な表情で首を傾げる。


「フルダイブゲーム……というか『Destiny Unchain Online』はさ、武道やスポーツ経験者ほど、自分の身体能力に自信がある人ほど、現実の体に引き摺られていると思うんだよね、私は」

「え……どういうこと?」


 紅が突然言い始めた言葉がよく分からず、佳澄が首を傾げる。


「例えば……そうだな。委員長、現実で海の上を走るって、できると思う?」

「いや……え? 無理じゃない?」

「そうだね。なら『Destiny Unchain Online』内なら?」

「い……いやいやいや、無理!」


 そう、何言ってるのと疑問の目で紅を見る佳澄だった。だが……


「それがね、できるよ。試してみたけど、だいたい【筋力】と【疾走】がそれぞれ70くらい有ればできたかな」

「嘘!? え、そんなハードル低いの?」


 ていうかまおーさま、水の上走れるんだ……そう唖然としている佳澄に、紅が苦笑しながら話を続ける。


「委員長みたいに武道をやってる人は、最初は強いよ。一般の人より体の使い方を理解しているからね」


 当然、戦闘でもなんの経験もないプレイヤーより動くことができる。そのために、ゲームのために剣道や空手道場に入門する者が結構いるのだ。


 だが……紅は、常々そこに疑問を感じていた。


「だけど、ある程度キャラが強くなってくると……それが足枷になってくるみたい」

「え、経験が邪魔になるの?」

「うん。現実を知っている分、本当はやればできることなのに『そんな動きができるわけない』って無意識にセーブをかけちゃうみたいだね」


 それは、程度の差こそあれども、一般人よりも己を識り、律しているがゆえの弊害。


「でも実際は、システムやステータスのアシストがある『Destiny Unchain Online』での私たちは、現実よりずっと反応速度も身体能力も上なんだ。それに、無茶な動きや、全力で撃ち込んだ際に返ってくる反作用も無いしね」

「それじゃ、無理って思い込んでいる枷を取り払えれば……」

「うん、動ける幅は広がると思う。守、破、離の『破』に、自分の常識を打ち破る段階に引っかかっているんだよ、今の委員長は」

「はー……」


 ちなみに……背後で感心したように紅の話に聞き入っている雛菊などは、教えるまでもなくあの年で既にその領域にがっつり踏み込んでいると紅は思っているのだが、彼女と比べるのはさすがに酷だろうと口をつぐむ紅なのだった。


「……なんて、理屈面はだいたいソールレオンの奴の受け売りなんだけどね」


 そんなオチをつけながら、目から鱗とばかりに紅を見つめていた佳澄へと笑いかける。


「だから、委員長はその楔を討ち破れたら、まだ強くなるよ。私が保証する」

「うん……満月さん、私、頑張る!」


 そうぱあっと表情を明るくした佳澄に、紅も釣られて笑顔を浮かべるのだった――……

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