紅の帰宅/ヴィンダム地下の異変

 ――買い物に出掛けた数日後、紅が退院する日。


「それじゃ満月さん、元気でね」

「はい、島崎さんも、お世話になりました」

「寂しくなるわね……同じゲームの話題で盛り上がれる患者さんは希少だから」

「あはは、また数日後には機能訓練に伺いますし、ゲーム内ではいつでも会えますけどね」


 見送りに来た理学療法士の島崎さんに別れを惜しみながら、軽く抱き合う。

 といってもまだしばらくは数日おきに通うので、頻繁に会うのだが。


「沙羅先輩も来られれば良かったんだけど……どうやら予定が合わなかったみたいで」

「まあ、仕方ないですよ。お忙しいみたいですし」


 結局、入院中にサラさんの中の人である、島崎さんの言う「沙羅先輩」とはあまり話ができなかった。

 また、その家族であるリュウノスケやリコリスの中の人にも結局は会えなかったのは心残りではあるが、まあ仕方ないだろう。



「紅さん、そろそろ行くよ?」

「あ、ごめん父さん! それじゃ、また!」

「ええ、満月さんも、お大事にね」


 そうして、島崎さんを筆頭に、目覚めてから今までの一か月近くお世話になった看護師の人たちに笑顔で見送られ……紅は、病院をあとにしたのだった。







 ◇


 街の郊外、閑静な住宅街という言葉がピッタリな街並みの一角に、満月家邸宅は存在した。


 そんな我が家に帰ってきた紅だったが――




 ――うちって、こんな広かったっけ?


 確かに一般家庭としては広い部類であろう満月家だが、豪邸という程ではなかったはずの我が家。だが紅はそんな我が家が妙に玄関が広く、天井が高くなったように感じていた。



「うわぁ……結構溜まってるなあ」


 紅が玄関を上がったところで呆然と考え事をしていると、背後からそんな宙の声が聞こえてきて、ハッと我に返る。

 なんだろうと思い、インターホンの記録を確認している彼の手元を覗きこむ。


 ――イベント記録67件。


 よほど長い間留守にしていなければ、そうそう無い数字の来訪者の記録が残っていた。


「父さん……最後に帰ってきたのっていつ?」

「ええと……紅さんが入院した直後、家の保守管理を業者に頼むついでに必要なものを取りに来た時以来かな」


 つまり、三か月ほぼ帰っていないと。


「いつも言ってるけど、父さんも母さんも二人とも、もっと休むべきじゃないかな?」

「……そうですね、気をつけます」


 心底心配だといった様子の紅の言葉に、さすがに申し訳なさそうに頭を下げる宙なのだった。




 荷物はとりあえず玄関に下ろし終わり、ようやく一息ついたころ。


「それじゃ僕は、紅さんの声紋登録してるから、部屋でゆっくりしていると良いよ」


 そう言って、家の管理アプリである『ハウスキーパー』に、道中録音しておいた紅の音声データを登録し始める宙。


 お言葉に甘えて二階の自室へと戻ると……ベッドシーツが綺麗に張り直されている以外、記憶のままの自分の部屋がそこにあった。


 机と、本棚が一つ。そしてベッド。

 比較的広い部屋にもかかわらず、そんな殺風景な部屋。

 欲しいものは仮想空間で入手するため、現実世界での物欲が薄い典型的なVR世代の様相を示す、そんな紅の自室。


「帰ってきたんだなぁ……」


 紅にとっては三か月ぶりの、久しぶりな自室のベッド。帰ってきたという実感が湧き上がり、慣れ親しんだそれに飛び込む紅だったが……


「……?」


 違和感に、スン、と鼻をひくつかせる。


 どうやら宙か天理がクリーニングに出してくれていたのだろうシーツや枕カバーは清潔なはずだが、なんだか匂いが違う気がする。


「……あ、俺の匂いが変わったのか」


 ふと、理解した。今まで気付かなかったが、女の子となって体臭が変わったのだろう。

 そのせいで、微かに残る元の自分の匂いが違和感となっていたのだ。


 そして、慣れ親しんだベッドの妙な広さが、今の紅が小さくなったことを否応無しに突きつける。


 やがてこの匂いも今の自分に上書きされ、痕跡さえも消えていくのだろう……そんなセンチメンタルな気分になりかけて、慌てて首を振る。



 明るいことを考えよう。そういえば宙が、制服はクローゼットに入れてあると言っていた。

 入学から二か月、ぼちぼち一学期も後半となろう時期にもかかわらず袖を通したことが無かったその制服をついに着ることができるのだと、意気揚々とクローゼットを開き……そして、膝から崩れ落ちる。


「そりゃ、そうだよね……今の俺、女の子だもんね……」


 クローゼット内に鎮座するのは……受験前に紅が憧れていた紺のブレザーとベージュのチェックのスラックスという男子制服ではなかった。

 代わりにそこに吊るされていたのは、緑がかった紺色のブレザーと赤いチェックのスカートという女子の制服。


「来週から、これを着て通うのかぁ……」


 進学先を決める際に、確かに可愛い制服だとはパンフレットを眺めながら思った。だが、それを自分が着るなどとは露にも思っていなかったのだが。


 複雑な気持ちでその制服を凝視していると……


「ねぇ紅さん、天理さんが退院祝いにケーキを買ってくるそうだから、せっかくだし聖君たちも呼んでピザでも頼もうと思うんだけど、何頼んだら良いかなぁ!」


 階下から掛けられる、そんな宙の声。

 どうやら凹んでいる暇はないらしい。二人は何が好きだったかなと考えながら、紅は一階へと降りていくのだった。






「そういえば紅さん、学校に行く前に、口調を直さないとね」

「あらまあ。確かに個性的で可愛らしいですが、ちょっと悪目立ちしますからね」

「むぐっ……」


 満月家と古谷家、東京に単身赴任中である聖と昴の父親を除いて勢ぞろいという、珍しい食事の最中。


 Lサイズのマルゲリータの大きさに苦戦しつつも、果敢に小さな口でムグムグと挑みかかっていた紅が、宙と茜の言葉に喉を詰まらせる。


「大丈夫? ほら、お水飲んでお水」


 慌ててそんな紅の背中を撫で、水を飲ませてくれる聖のおかげでどうにか持ち直した紅が、一息ついてようやく不満の声を上げる。


「えー……やっぱり直さないと駄目?」

「まぁ、社会人になったらどのみち私を使うことが多いしね、慣れちゃったほうがいいよ」


 もっとも、最近はネットワーク上での仕事が多くなってメッセージのやり取りが主流になったから、昔ほど気にされなくなったけどね……と締め括る宙。


「でもお前、ゲーム内だと魔王様ロールプレイ中以外は『私』だったよな?」

「そりゃまあ、あっちはゲームのアバターだったから。リアルの体で『私』はちょっと抵抗が……」


 昴のそんな疑問に、紅が反論する。

 ゲームアバターでの演技と、実際にリアルで演技するのは難易度がまるで違う。例えばゲーム内のクリムの『のじゃロリ魔王様』のロールプレイなど、現実でやらされたら三日は引き篭もって布団から出ない自信がある。


 ゆえに、なかなか『私』を使いにくいのだと、そう口ごもる紅だったが……


「すまんな聖、こやつはお主には頭が上がらんゆえ、登校までの短い期間じゃが、矯正を頼んでも良いか?」

「ちょ、母さん聖を巻き込むのはズルい!」

「はい、天理さん、任せてください!」


 母の、的確に紅の弱点を突いた人選。それを受けて完全に乗り気な聖を前に、紅にはもはや諦める選択肢しか存在しないのだった――……











 ◇


 ――始まりの街ヴィンダム、地下遺構。



「……なんだ、あいつは」


 彼……プレイヤーネーム『スザク』という青年は、身を隠した岩陰から身を乗り出して、その視線の先に居るエネミーの様子を窺っていた。




 ———————————


【墜ちたサーベルタイガー】


 密輸売人に捕まって秘密裏に搬入されたものが逃げ出し、街の地下で野生化したもの……の、成れの果て。


 強さ:推し量れそうにないほどの相手だ。


 ———————————




 元は美しかったであろう毛皮には、今は禍々しくのたうつツタのような紋様が浮き上がっている。

 目は濁り、血走っている。半開きとなった口からダラダラと涎を垂らす様などはまるで狂犬病に冒された獣のようだ。


 そして、全く見えないステータス。初期街地下などという場所で、有り得ないクラスの強敵。


 だが一方で、対象は確かにクエスト討伐対象のアイコンが頭上に点灯している。つまりターゲットはアレに相違ないらしい。



 ――さて、どうしたものか。



 念願叶ってこの『Destiny Unchain Online』にログインして、はやくも数日。

 スキル上げの傍らに、街のクエスト斡旋所で適当なクエストをこなして装備を整えるという基本的な初心者の行動を取っていたときに、たまたま見つけた変なクエストが、全ての発端だった。




【街の地下に変な魔物が住み着いた。どうにかしてほしい】


 討伐対象、不明。

 依頼者、不明。


 だがしかし、やたらと美味しい報酬ときた。怪しさ満点にも程があるが、一方で怖いもの見たさの興味もあった。




 そうして、「こんなクエストあったかなぁ?」と首を捻る斡旋所職員の受付の女性からその謎だらけのクエストを受注して、クエストガイドに案内されるまま進んだ先で待っていたのは……突然崩落した地面と、その地下にあった廃棄された地下水道。そして目の前の理不尽なエネミーだ。


 これは外れクエストを掴んだか。破棄しか手段は無さそうかなと考えこんだ……その時だった。




「……あなた、こっちに来て」


 不意に、彼の手に触れた滑らかで暖かな手の感触。

 驚いて振り返ると、そこにはフードを目深に被った怪しげな人物が居た。


「……今のあなたじゃあれに勝てない。だからこっちに」


 そう言って、スザクの手を引くその人物。

 たしかに、今はそれしかなさそうだと判断したスザクは、彼女へとついていくことにして腰を浮かせた。


 ――何かのイベントか?


 訝しみながらもスザクが連れていかれたのは……元は資材庫か何かだったと思しき小さな部屋。

 敵影の無いそこまで到着してようやく、謎の人物はフードを取り払った。


 ――NPCか?


 不覚にも、呆然としてしまうスザク。目の前に居たのは、それほどまでに、とても美しいと言って良い少女だった。


 ……だが、間違いなく人間ではない。


 何故ならば……その身体、そして赤から黄色へとグラデーションする紅葉を思わせる髪にはツタが絡み、そこから花を咲かせているのだから。


「こちらを……お貸しします。使ってください」

「……剣?」


 突然、少女が差し出した、一本の剣。

 促されるままに鞘から抜くと、そこには……仄かに赤い金属で作られた、精緻な紋様の刻まれた美しい長剣が収まっていた。


「……俺に?」

「はい……」

「君は、なんだ?」

「……分かりません。目覚めた時には何も覚えていなくて」


 ――記憶喪失か?


 だが、それならばなおのこと解せない。なぜ、彼女が自分に……まだゲームを初めて数日しか経っていない自分などに、このようなものを貸してくれるのか。


「私は何も思い出せないまま目覚めてからずっと、ただ焦燥に駆られるまま、この剣を作っていました。そして今、あなたに託さなければならない……そんな気がしたのです」


 やはり、何を言っているのかよくわからない。

 何かのイベントフラグを踏んだのだろうが、それも思い当たらない……だが、今の状況を打開できる手段が他にないのも確かだ。


「……分かった、ありがたく借り受ける。君の名前は? 名前くらいは覚えているか?」

「はい……それだけは、なんとか」


 そう言って剣を両手で捧げ持ち、改めてスザクのほうへと差し出しながら、彼女が名乗る。




「私は――ダアト=クリファードと申します」




 ――それが俺、スザク……『緋上朱雀』の人生を一変させる出会いとなることを、この時の俺は、まだ知る由もなかった――……

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