【三一七《信頼の中の一点の曇り》】:一
【信頼の中の一点の曇り】
「家基さん、来月号の特集記事の予算組み出来ました」
「ありがとう」
「指示通りで組んだのがこれですが、より低予算で出来るように考えたのがこっちです。指示通りのスタジオと同系統のスタジオで使用料がこっちの方が安いです。ただ中心地より少し外れてるので交通費は上がりますが、トータルで考えるとこっちの方が安く出来ます」
「添付されてる写真を見る限り、記事のイメージには多野の案の方が近いわね。このスタジオってうちで使ったことあった?」
「いえ、うちではまだです。別の女性誌でも使ってるところは見てません。ただ、前に男性誌では使ってるところがあって」
「担当のカメラマン達と話をしてみるわ」
「最初の案のスタジオよりも空き日が多いので、スケジュールは合わせやすくなるとは思います」
「ありがとう。助かるわ」
「いえ、じゃあ俺は戻ります」
家基さんの席から離れて自分の席に戻り、一度軽く背伸びをしてから再びパソコンへ向かう。次は帆仮さんから上がってきた毒舌男性編集Tコーナーのチェックがある。
「多野。もう昼休憩の時間よ」
「え? あっ、すみません」
画面に帆仮さんが書いた原稿を表示させてすぐ、後ろから古跡さんに声を掛けられた。
「油断するとすぐそうやって仕事するんだから。仕事に積極的なのは良いけどしっかり休憩はしなさいっていつも言ってるでしょ。ほら、一旦外へ出てゆっくりお昼食べてきなさい」
「すみません。じゃあ休憩してきます」
「いってらっしゃい」
後ろから強制的にパソコンを閉じられて俺が笑いながら頭を下げると、ニヤッと笑った古跡さんが軽く手を挙げて笑いながら歩き去っていくのが見えた。
机の上を軽く片付けてからスマートフォンと財布を持って椅子から立ち上がる。すると、目の前に絵里香さんが立っていた。
「凡人くん、お昼一緒にどう?」
「すみません。一人で食べたい気分なので、遠慮させて下さい」
「何よ~冷たいわね~。良いじゃない、お昼くらい」
「彼女も居ますし、女性と二人では――」
「聞いたわよ~。金曜に美優と二軒目まで行ったんでしょ~? 美優は良くて私はダメな訳?」
「そのことがあったんで止めようと思ったんです。今まで先輩の誘いだからとか断り辛いからって誘いに乗ってましたけど、それは良くないことなのは自覚があったんで。本当にすみません」
頭を下げて絵里香さんの隣を通り過ぎ、一人で編集部を出る。
古跡さんはゆっくりしてこいと言ってくれたが、適当に済ませてさっさと戻って来たい。
今のところ、仕事の進捗状況は順調だ。まあ、順調だとは言っても何もトラブルが起きない前提で尚且つ、金曜の残業まで掛かって終わるという毎週恒例のスケジュールにはなるが。
「今週も月曜から飛ばすわね~。毎週思うけどもうちょっと力を抜けば良いのに。凡人くんならそんなに急がなくても終わるでしょ」
「…………なんで付いてきたんですか」
本社を出て少し歩いたところで隣に絵里香さんが並んできて、当然のように話し始める。その絵里香さんに目を細めて返すと、絵里香さんは肩をすくめた。
「え? たまたま私の行く方向がこっちなだけだけど?」
白々しいという言葉がぴったりの言葉を何食わぬ顔で口にする絵里香さんから視線を外し、俺は正面を向いて小さくため息を吐く。
「朝、美優に言われたのよ。今日、凡人くんから絶対に目を離さないでって。それと、凡人くんが無理してたら止めてって。今日美優は午前中、外だからさ」
「別に俺はいつも通りですよ」
「美優は他にも言ってたわよ。絶対に凡人くんはいつも通りに見えるようにするから、少しの変化も見逃さないようにしてって。美優に読まれてるわね」
「別に俺はいつも通りにしようとはしてませんよ。普通にいつも通りなだけです」
視線の先に見えたチェーンの牛丼屋が見えて、今日の昼はそこで済ませようと決めて足を進める。その俺に絵里香さんは当然のように付いてきた。
「牛丼並盛りつゆだくに卵で」
「……チーズ牛丼大盛りで」
店に入ってからも、絵里香さんはちゃっかり俺の隣に座って先に注文をする。その絵里香さんに再びため息を吐きながら、俺も注文をしてカウンターの端にあった期間限定メニューの海鮮丼のポップに視線を向ける。
「今週もそんなに急いでるってことは、また地元に帰るの?」
「そうですよ」
「凡人くんもよく頑張るわよね~。私はそこまで頑張れないわ。他の会社で働いてる友達の話を聞いてても、うちって言うか編集の仕事って特殊で激務だし。それに凡人くんはまだ新入社員でしょ? 古跡さんも凡人くんに期待してるのは分かるし頼りにもしてるのは分かるけど、ちょっと働かせ過ぎよね。その期待に応えちゃう凡人くんの方にも問題はあるけどさ」
「俺がやってる仕事は編集さんよりは――」
「私達より楽な訳ないでしょ。明らかに私達よりも気にする範囲が広過ぎる。下に巽が付いてるって言っても、あいつに出来る仕事なんて凡人くんの一割以下じゃん。せいぜい凡人くんの指示通りに動くくらいでしょ」
「そんなことありませんよ。百合亞さんが俺の指示がないと動けなかったのはもう過去の話です。今ではほとんどフォローは要りませんし、自分で考えて次の仕事を提案してくれますよ」
「私にはそうは見えないけど」
「絵里香さんは百合亞さんと揉めたから、百合亞さんの良いところが見えなくなってるんです」
「それはそうかもしれないわね。まあ、あいつの良いところなんて別に知りたくもないけど」
冷たいというか頑固というか、絵里香さんはどうしても百合亞さんのことを好きになれないらしい。ただ、無理に好きになれというのも違うし、直接揉め事を起こさず当たり障りなくやっている今の状況は手放しに良い状況とは言えないが酷く悪い状況でもない。
「遠距離って辛いっしょ。なかなか会えないし」
「辛いですよ。だから、会うために仕事を頑張ってるんです」
「健気ね~。でも、そういうのって相手はあんまり分かってくれないのよね~。私が新入社員で入った頃に大学の友達で遠距離になった子が居てさ。その子、彼氏のこと大好き過ぎて毎週休みになると彼氏のところに通ってたのよ」
「そうなんですか」
特に興味をそそられない話に相づちを打ってると、俺と絵里香さんの前に注文した牛丼が運ばれてくる。その牛丼を食べるために、俺は割り箸を割って両手を合わせた。
「頂きます」
「その子、遠距離になって三ヶ月で別れたの」
「そうなんですか」
俺が相づちを打つと、隣で絵里香さんも割り箸を割って両手を合わせる。
「頂きまーす。それでさ、その原因が彼氏の浮気だったのよ。んで、浮気の理由を問い詰めたら、一週間に一回しかエッチ出来ないのが耐えられないとか言い出したんだって。もうその時点で人間の男っていうか猿の雄って感じよね。彼女の方に通わせといて、一週間に一回じゃ自分が耐えられないからって浮気するとか。あの時、友達号泣してたけど私はそんな男別れて当然だって思ったわ」
「絵里香さんが別れて当然だって思ったのには同意しますけど、平日の昼下がりに話す内容の話ですか?」
「別に良いじゃん。他にも遠距離になったカップルを知ってるけど、大体が続かないのよね。やっぱり物理的な距離が開くと心の距離も開いちゃうし。凡人くんは大丈夫?」
「それ、どういう意味ですか?」
牛丼を食べようと伸ばした箸を止めて、絵里香さんの横顔を見て尋ねる。それに俺が尋ねた絵里香さんは牛丼を食べながら俺は見ずに答えた。
「彼女、浮気とかしてないのって思って。心配じゃない?」
「凛恋は絶対に浮気なんてしませんよ」
「信頼してるんだ」
「してますよ、当然です」
「でも、世の中に絶対なんてことはあり得ないわよ~? 人の心の話になったら尚更。凡人くんの彼女ってめちゃくちゃ美人でしょ。それなら周りの男は尻込みして声を掛けないやつが多いかもしれないけど、自分に自信のある男はむしろガツガツ声を掛けてくるし。なかなか彼氏に会えない寂しさに負けて、積極的にアプローチしてくる男とやっちゃったなんて話――」
「凛恋をそんな軽い人と同じに扱わないでもらえますか? いくらなんでも不愉快です」
止めていた箸を動かして、牛丼を口の中に掻き込む。
凛恋は浮気なんて絶対にしない。たとえ記憶を失っていたとしても、凛恋の人間性が丸っきり変わる訳じゃない。確かに今の凛恋は記憶を失う以前よりも大人しい印象になったが、それでも浮気なんてことをするようになったなんて思わない。
「言っとくけど、浮気しやすいのは私みたいに軽い女よりも真面目で大人しい子よ。寂しがり屋とか押しに弱い子が浮気しちゃったなんて話は掃いて捨てるくらいありふれてる」
「掃いて捨てるほどありふれた話だからと言って、それがイコールで俺の彼女に結び付くなんて話は暴論です」
「少しも疑ったことないの? 自分が居ない間に彼女が他の男と会ってるとか」
「それを言うなら、今の俺も彼女に疑われて仕方ない状況です」
俺に尋ねる絵里香さんの話を真っ向から否定していると、俺の方を向いた絵里香さんが小さくため息を吐いた。
「土曜のテレビに、凡人くんの彼女が男とカフェに居るのが映り込んでたらしいじゃん。凡人くんの彼女が大学生の時にうちの雑誌に載った号を確認したから、間違いないって美優が言ってたわよ」
絵里香さんの話を聞いて、妙に絵里香さんが凛恋の浮気について話す理由が分かった。でも、それが分かっても俺の気持ちは変わらない。
「テレビに映ってただけですよ」
「彼氏との約束ドタキャンして男と新装開店したショッピングモールのカフェでお茶してて何もない訳ないでしょ」
絵里香さんは、真っ直ぐ俺の目を見て言った。
「別れた方が良いんじゃない? 毎週死にものぐるいで頑張って会おうとしてるのに、他の男と会ってる女と付き合い続けても凡人くんが不幸なだけよ。凡人くんくらい良い人ならもっと良い人が居る」
「お先に失礼します」
絵里香さんより先に食べ終えて、席を立って会計を済ませてから店を出る。
凛恋は確かに男とケーキ屋のカフェスペースに居た。見間違いじゃないのは確かだ。でも、だからと言って凛恋が浮気をしていたとは言い切れない。
俺はまだ凛恋に何も聞いていない。土曜にテレビを見てからずっと。
色々分からないことが多い。だから、嫌な想像も膨らんでしまう。でも、その想像が膨らんで良いことがあった試しがない。
編集部に戻ると、丁度戻って来た美優さんが机に上に鞄を置いていた。
「凡人くん、お疲れ様」
「お疲れ様です」
頭を下げて自分の席に座ると、机の上に茶色いパン袋が一つ置かれた。
「帰りに買って来たの。この前言ってた美味しいパン屋さんの」
「仕事で出てたんですから、そんな気を遣わなくても」
「私がお昼をパンにしようと思ってたから」
にっこり笑った美優さんが椅子に座るのを見て、俺は一度パソコンに目を向けた。でも、座りながら視線を美優さんへ戻す。
「土曜の話、絵里香さんに言ったんですか?」
「えっ!? ……ごめん」
「いや、黙ってほしいとは言ってなかったんで」
「絵里香、何か言ってた?」
「浮気してんじゃないか、別れた方が良いって言われました」
「……ごめん、後で絵里香にもう凡人くんに余計な口出ししないでって言っておくから」
短い会話を終えて、再びパソコンへ視線を戻す。
別に美優さんが悪い訳じゃない。悪い人が居るとすれば、悪ノリして話を畳み掛けていた絵里香さんだ。
絵里香さんが何を思って俺に話をしたかは絵里香さん本人しか分からない。ただ、誰がなんと言おうと凛恋は浮気なんてしてないし、俺はそんなこと信じない。
時計は真夜中を過ぎていて、それでもやっぱり週始めは終わりが見えなくて絶望する。
一応、週始めに一度編集さん達に仕事は上げてもらう。ただ、締め切りに追われているのは当然編集さんも同じだし、ライターの進捗状況によっては週の中頃を過ぎた辺りでドカッと仕事が増えることもままある。
だからこそ、週始めに分かっている仕事をどれだけ前半で終わらせられるかが、週末を丸々空けられるかどうかにかかっている。
「凡人くん、少し休憩したら?」
「切りが良いところまでもう少しやります」
「凡人くんの切りが良いは、一つ仕事が終わる毎でしょ? はい、コーヒーを飲みながら少しダラダラしながらでもやって。もうほとんど終わりかけみたいだし」
「すみません。ありがとうございます」
隣に座った木ノ実さんにお礼を言ってコーヒーを飲むと、隣で木ノ実さんが小さく息を吐いた。
「凡人くん、凛恋ちゃんに会いに来てもらうことは出来ないの? 毎週そんなに根を詰めてたらいつか体を壊すよ? 交互にお互いで会いに行くとかすれば、二週間に一回で大丈夫でしょ?」
「凛恋はまだ体が万全じゃないんで。それに凛恋が来られても、週末を空ける必要があるんで」
「そっか……。入社してからずっと週末を空けようと毎日必死にやってるから。必死に仕事をするのは悪いことじゃないし良いことだと思うけど、凡人くんの場合はもうちょっと手を抜いても大丈夫なのに」
「週末はどうしても空けたいんです。とりあえず切りが良いところまで終わったんでちょっと休憩して来ます」
「うん。ちょっとじゃなくてゆっくり休憩して来て」
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