【三一五《乖離(かいり)していた気持ち》】:一

【乖離(かいり)していた気持ち】


 編集部の窓から見る夜景も、綺麗だと思わず徹夜の目にはチカチカするという感想が浮かぶくらいには見飽きた。

 すっかり生活リズムが徹夜が基本のリズムに変わって、正社員としての仕事にも慣れてきた。


 仕事は相変わらず忙しくて、家には寝るために帰るような毎日が続いている。

 つい最近、新入社員の飲み会があったらしい。その情報は巻さんからだったが、大体は間宮の愚痴だった。

 俺は仕事が忙しいと断ったが、みんなは残業もなく飲み会を楽しんだらしい。


 飲み会が羨ましく行けなかったことが悔しかったという訳じゃない。そっちじゃなくて、残業がないなら時間に余裕があるんだろうと単純に思っただけだ。

 俺のやってる仕事は編集補佐だ。古跡さん達は俺のことを頼りにしてくれている。でも、やっていることはアルバイトの頃にやっていたことの延長線で、アルバイトの時の仕事がもっと分厚く重くなっただけだ。


 俺の仕事は記事にはならない。記事を作るための下準備の仕事だ。

 編集さんが記事を作るために必要な仕事、編集さんが記事を作る途中で煩わしいような仕事を俺がやって、編集さん達の負担を減らす。それが俺の仕事だ。

 俺は毒舌編集としてコラムの原稿を書いている。でも、それは木ノ実さんの記事で俺の記事じゃない。


 …………いや、俺は記事を作りたくてこんなことを思ってる訳じゃない。

 今日までやってきて、自分がやった仕事に達成感を感じてない。

 一つの仕事が終わったらまた次の仕事が始まり、その仕事が終わればまた次の仕事が始まる。


 編集さん達も俺と同じで仕事は常にあり続ける。でも、編集さん達と俺の根本的な違いは、仕事が雑誌に記事という結果として残る。未来永劫、レディーナリーのその年のその月の号には記事として載り続ける。でも、俺の仕事はどこにも残らない。俺が毎日徹夜続きでやっていた仕事は、読者の人にとっては知ることが出来ない――知る必要のない仕事だ。


「凡人くん」

「美優さん?」

「はい。コーヒー、と美味しいメロンパン」


 窓際に立ってぼーっとしていた俺の後ろで、柔らかく微笑んだ美優さんがコンビニのコーヒーとメロンパンを差し出していた。


「えっ? 俺にですか?」

「もちろん。本当はオススメのパン屋さんのがあったんだけど今の時間はやってないし、それは今度ね。このメロンパン、バターが利いてて凄く美味しいんだよ。はい」

「あ、ありがとうございます」


 申し訳なさを感じながらも受け取ると、ニコニコ笑っていた美優さんは自分の分のコーヒーとメロンパンを取り出す。

 ふと編集部を見渡すと、俺と美優さん以外の人達は居なかった。買い出しに行ってるのか、それとも仕事が終わって帰ったのか。はたまた家に帰るのが面倒でホテルに泊まったのか。


「二人で話すの久しぶりだね」

「そうですね。入社してから忙しくて」

「仕方ないよ。凡人くんは編集みんなの仕事に関わってる。だから、私達よりも仕事の切れ目がない」

「それはちょっと思いますね。やってもやっても終わらないって言うか……。それに、本当に俺のやってることって意味あるのかなって」


 貰ったコーヒーを一口飲みながら愚痴を溢す。

 俺はアルバイト時代からやっていた仕事を古跡さんに評価してもらって今の仕事を貰っている。でも、編集補佐の仕事なんて本来はアルバイトやインターンシップで来てくれている大学生で出来るような内容だ。


「俺のやってることって誰でも出来るじゃないですか。だから――」

「本当に凡人くんって出会った頃から自分に対して優しくない」


 急にムッとした表情になった美優さんは、凄く悲しそうな表情をして俺を見る。


「もっと自分を評価してあげて。社会人になったら褒めてくれる人なんて自分以外居なくなっちゃうんだから。みんな仕事は出来て当たり前だと思ってる。だから、どんなに自分に無理を利かせて頑張っても、仕事が出来てるか出来てないかしか見てくれない」

「分かってます。でも、俺は誰かに褒めてほしい訳じゃなくて、今の仕事は自分じゃないとダメな訳じゃ――」

「凡人くんじゃなきゃ嫌だよ、私は。絶対に凡人くん以外じゃ嫌だ。凡人くんじゃないと信頼して仕事を出来ないし任せられない」


 激しく首を振って否定してくれた美優さんは、躊躇いがちに俺の頭へ手を置いて撫でた。


「いつも凡人くんは周りのことを見て仕事してくれる。仕事の進捗状況を見て進捗が遅いと声を掛けてくれる。それで今日だって、明日、絵里香が外に出る仕事があるから絵里香が出来ない中の仕事を先回りしてフォローしてる。全部する訳じゃないけど、戻って来た時にスムーズに仕事が出来るために今頑張ってくれてる。それは今日だけじゃなくて、アルバイトとして働いてた頃からずっと。……私はね、そういう優しくて思いやりのある凡人くんだから安心して一緒に仕事が出来るの。だから、凡人くんじゃないと絶対にダメ」

「ありがとうございます」


 美優さんは俺が必要だと言ってくれてる。でも、どうしてだろう。真剣に心から言ってくれているのは分かるのに、俺の中にある空虚感は俺の心を支配し続けた。




 やっと来た金曜日。今週こそは凛恋に会えると、俺はいつも以上に週末を空けるために頑張った。やっと明日の新幹線で凛恋のところに行ける。

 やっとだ、やっと凛恋に会える。だけど……結局、俺は仕事に対する空虚感が消えてない。


 編集部の人達は良い人ばかりだ。だから、人間関係に疲れた訳じゃない。多分、仕事自体に疲れてきたんだと思う。

 連日の泊まり込み。それは就職する前から分かってたことだ。


 編集部で働くみんなが連日の泊まり込みで疲弊していってるのは知ってた。でも、みんなは何だかんだ愚痴を言いながらも楽しそうに会社で会えていた。だから、俺も就職したら何だかんだ言いながらもやっていけるんだろうと思った。


 全ての人が仕事にやり甲斐を持てる訳じゃない。やりたい仕事、やってて楽しい仕事に就けている人の方が少ない。そういう人達は、どうにかして仕事にやり甲斐を見付けるか、仕事以外に楽しさを見付けて、その楽しさを糧に働くんだと思う。

 俺にとって――いや、今の俺にとって働くための糧は何だろう。いいや、考えるまでもない。


 俺はずっと週末凛恋に会うために働き続けた。連日の泊まり込みも、週末を空けるためのちょっとした無理も、全部凛恋に会うために乗り越えて来られた。先週は会えなかったが、それでも今週会うことを糧に何とか一週間乗り越えて来られた。


 明日、一番早い新幹線の時間を確認して、頭の中で最短ルートで駅まで行くシミュレーションをする。そうして、地元に帰ってから凛恋と何をしようかとも想像を膨らませた。

 残業前の休憩時間になり、凛恋へ電話を掛けるために編集部を一旦出て自販機コーナーに行く。


「もしもし」

『もしもし、凡人くん。仕事一段落ついた?』

「ああ。今から残業前の休憩。明日の朝一の新幹線で帰るから」


 自販機の前に立って、電話をしながら缶コーヒーを買おうか悩む。

 編集部にはコーヒーメーカーはあるがアイスコーヒーは淹れられない。ただ、冷蔵庫はあってそこにみんなで持ち寄った冷やした缶コーヒーが入っている。俺もスーパーの安売りを見付けて箱買いして入れている。


 それを思い出して、ポケットから小銭入れを出そうとした手を止める。その手がポケットの縁に触れた瞬間、凛恋の声が聞こえた。


『凡人くん、今週も会えなくなっちゃった』


 その言葉に俺は、目の前にある自販機に並んだ缶コーヒーのラベルを見詰めて思考を止める。


「…………は?」


 少し間を取った結果、俺の口から絞り出たのは、何の思考結果も反映されなかった言葉。いや、言葉にさえなっていない音。それくらい、凛恋の言葉を俺の脳が受け止められなかった。


 自販機から離れて、お尻に鈍い痛みが走るくらいの勢いでベンチの上に落ちるように座る。そして、辛うじて体勢を保って椅子の上に留まった。


「今週は会おうって……今週は予定を空けてくれるって……」

『ごめんね。でも、凡人くん今週も毎日泊まり込みだったでしょ? こっちに来なくて良い分、家でゆっくりした方がいいよ。一日寝て過ごすとか!』


 凛恋の声が妙に明るくて元気で、その明るさが無性に俺の心を掻き乱して掻きむしって、見る見るうちに自分の思考が自分の心に傷を付けていくのが分かる。


「その予定、今から断ってくれよ。俺の方が先だったろ」

『…………凡人くん。私達、会う回数減らした方が良いと思うの』


 予定を空けてくれと言ったら、会う回数を減らした方が良いと言われた。でも、会話が成立していないことよりも、単純で分かりやすくてシンプルでストレートなショックが重く心を押し潰す。


『凡人くんは仕事で忙しいのに、毎週帰ってくるなんて無理だよ。今はそれが出来ててもいつか無理になっちゃう。私は凡人くんが倒れるなんてことになってほしくないの。私は…………』


 そこから凛恋の話はほとんど耳に入ってこなかった。

 俺の頑張りの源は凛恋だ。その凛恋さえも得られなくなったら、俺はどうやって頑張れば良いんだろう?

 一体俺は何のために頑張って……何のために生きてるんだろう?


「もう良いよ……。分かった、帰らない」


 八つ当たり。自分の思い通りにことが運ばないことへのわがまま。自分でもバカみたいで子どもみたいな言葉だと思う。でも、先週会おうと、先週予定を空けてくれと言っていたのに、それを破られたら不貞腐れて子どもみたいな言い草になっても仕方ないと思ってしまった。


『凡人くん……私は凡人くんが心配で――』

「俺は一週間、凛恋に会うために頑張ったんだ…………頑張ったんだよっ、辛くても」


 やっと凛恋に会えて、やっと凛恋と直接話せるはずだった。

 二週間会えなくて寂しかったんだって。二週間会えなかった分、少しでも凛恋と一緒に居るために頑張ったんだって。


『ごめん……』

「約束を破るのも酷いけど、何でギリギリに言うんだよ。やっと今日の残業を乗り越えたらって思ってたのにっ!」


 悲しさが段々苛立ちに変わっていく。それで少し声を荒らげてしまって、俺は荒い手付きで缶コーヒーを買ってから、電話をしたまま早歩きでエレベーターに乗って屋上へ向かう。


『…………ごめんなさい』

「俺の約束より優先する用事って何だよ」

『それは家の用事で……』

「そうか。良いよ、もう」


 約束を破られた上に満足な説明もしてもらえない。

 エレベーターを降りて屋上に出ると、俺の体を突き飛ばそうとする強い風が吹いた。

 本当に、俺は何のために頑張ったんだろう。

 本当に俺である必要があるのか分からない仕事を、どこまで頑張れば終われるか分からない仕事を、やり甲斐を感じられなくなった仕事を必死に耐えて頑張って。結果として、その頑張りの源だった凛恋にはぞんざいに扱われた。


 缶コーヒーを開けて一口飲む。空っぽになってすかすかの胸の中を冷たいコーヒーが流れていく感覚がして、その感覚が下へ向かうに連れて体は重くなり、俺はうなだれて屋上の地面を見下ろす。


「電話切る」

『凡人くん……仕事頑張っ――』

「頑張らないよ。もう頑張る理由がなくなったから」


 電話を切って、最低な切り方をした自分に腹が立って、でも仕方ないじゃないかと自分を擁護して、結局何もかもどうでも良くなってスマートフォンをポケットに仕舞った。

 何もかもどうでも良くなって、残ってる仕事を放り出したい気分だった。でも、現実はそんな訳にはいかなくて、与えられた仕事はやらなきゃいけない。


 缶コーヒーの残りを飲み干して、深く長いため息を吐いてから中へ戻ろうとする。すると、振り返った先に出入り口の前に立っている美優さんの姿が見えた。

 走ってきたのか息を切らしているようで両肩が上下に動いている。そして、俺を見て一瞬躊躇いがちに視線を逸らした。でも、すぐに俺へ顔を戻してゆっくり歩いて来る。


「何か、あったの?」

「いえ、何でもないです」


 美優さんの質問に答えて歩き出し、美優さんの横を通り過ぎる。だが、後ろから美優さんに腕を掴まれて引き止められた。


「何もない訳ないよ。……凡人くん、凄く辛そうな……悲しそうな顔してる」

「仕事とは関係ない話ですから」

「仕事の話じゃなくても話して! 辛いまま抱え込んじゃダメだよ! 私で解決出来ることか分からないけど、話したら少しは楽になれるかもしれない!」

「今ここで話す気にはなれませんよ。それにもう戻らないと、また今日も泊まりになります。今日は泊まりたくないんですよ」


 今日泊まりになったら本当に耐えられない。幸い、無駄に一週間頑張ったお陰で明日明後日は休みだ。だから、今日を耐えれば何とか心は保てる。


「じゃあ……帰り二人で話そう。今の凡人くんをそのまま見て見ぬ振りなんて出来ない。私以外は誰も誘わないし、ご飯を食べながらなら話しやすいでしょ?」


 腕を掴んだまま手を離さない美優さんへ視線を返す。でも、美優さんは真っ直ぐ俺の目を見て視線を逸らさなかった。


「分かりました。だから、戻らせて下さい」

「約束だよ」


 後ろから聞こえてくる美優さんの声には答えず、俺は編集部に戻って自分の席に座る。

 ノートパソコンを開いて仕事を始めながら、周りに悟られないように唇を噛む。

 毎週会いたいと思っていたのは俺だけだったんだ。俺だけ気持ちが先走って、凛恋は全然……俺と同じ気持ちじゃなかった……。


『私、凡人くんのこと好き過ぎるみたい。毎日会えなくて寂しい』

『……一緒に住みたい。私達、同棲してたんだよね? 私、家事を頑張る。凡人くんが家に帰って来た時にご飯とお風呂を用意して、仕事の疲れをいっぱい癒やしたい』


 最後に会った日、凛恋が言ってくれたその言葉達は何だったんだろう。本心じゃなくて、その場の勢いで盛り上がったから出てしまっただけの言葉だったんだろうか。


「凡人くん、どうしたって?」

「ううん。でも、帰りに話してみる」


 前から絵里香さんと美優さんのそんな会話が聞こえてくる。

 話を聞かれたとしても、言えることは彼女の予定が変わって会えなくなった。そう言うしかない。その中に、その端的な事実の中にどれだけ俺の悲しさや失望があったとしても、言葉に出来るのはただ単純な出来事しかない。

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