【三〇七《浅瀬に仇波》】:一
【浅瀬に仇波】
ニコニコ笑って凛恋の車椅子の後ろに回る優愛ちゃんと、その凛恋と優愛ちゃんを穏やかな笑顔で見積めるお父さんとお母さん。そんな八戸家四人の姿を見て、俺の心にはじんわりとした温かさが灯った。
年末年始、凛恋の一時退院が許された。その一時退院の日に、俺はお父さん達から一緒に過ごさないかと誘いを受けた。
家族水入らずが良いのではないかと提案はした。でも、お父さんだけじゃなく、お母さんも優愛ちゃんも俺に一緒に居てほしいと言ってくれた。
「凡人さん、お姉ちゃんを座席に乗せてもらって良いですか?」
「ああ。凛恋、持ち上げるぞ」
「うん」
優愛ちゃんに頼まれて凛恋を車椅子から持ち上げて車の座席に座らせる。そして、凛恋を座らせてから車椅子を畳み、車に積み込む。
「凡人くんありがとう」
「いえ。俺まで一緒に来てすみません」
「何言ってるんだ。家族の団らんは息子が居ないと始まらないだろ」
お父さんに笑顔で背中を押されて車に乗り込み凛恋の隣に座る。俺が隣に座ると、凛恋は俺の手を手繰り寄せるように指を組んで握る。
「お姉ちゃんとお兄ちゃんってずっとラブラブ」
俺と凛恋が手を繋ぐのを見て、優愛ちゃんがニヤニヤ笑って冷やかす。それに凛恋は顔を真っ赤にして恥ずかしそうにしていた。
車は真っ直ぐ八戸家へ向かう。一時退院が許されたと言っても、凛恋は街を歩き回れる状態じゃない。
「凡人くん本当にありがとう。年越しまでうちで過ごしてくれて」
「こちらこそありがとうございます。凛恋と年末年始を一緒に過ごせて嬉しいです」
お母さんに答えると、俺の手を握る凛恋の手に力が籠もる。そして、凛恋が俺に体をもたれ掛からせた。
八戸家に到着して、俺は凛恋を抱き抱えて家の中に入る。
リビングのソファーに凛恋を下ろすと、優愛ちゃんが俺と凛恋に温かいコーヒーと紅茶を出してくれる。
「お姉ちゃんはこれが好きだったんだよ」
「ありがとう。うん! 美味しい!」
「良かった。凡人さんの方は、私がブレンドしたコーヒーなんだよ」
「優愛ちゃん、そんなこと出来るようになったんだ」
「うん。バイト先の社内バリスタの資格を取ったの」
「凄いな」
優愛ちゃんがアルバイト先でバリスタの資格を取っているなんて知らなかった。
「ただ働いてるよりも何か目標を持った方が良いと思って」
「偉いな。じゃあ、早速飲ませてもらうよ」
優愛ちゃんの淹れてくれたコーヒーは酸味が抑えられた飲みやすいコーヒーで、香りも香ばしく落ち着く香りがした。
「美味しい」
「良かった。あっ! 昨日買って来たケーキがあったんだ」
嬉しそうな優愛ちゃんは慌ただしく冷蔵庫の方へ駆けて行ってケーキの準備をしてくれる。
「凄く温かい」
紅茶を大切そうに飲む凛恋は、家の中を見て微笑む。
「紅茶も家もみんなも」
「焦らなくて良いから」
「うん。凡人くんと少しずつ歩いて行くよ」
はにかむ凛恋の前にケーキの箱が置かれ、優愛ちゃんが箱を開けた。
「お姉ちゃんが好きなの食べて良いよ」
「優愛ちゃん、ありがとう。じゃあ、このいちごのやつにしようかな」
「だと思った。お姉ちゃん、このケーキ大好きだから」
笑顔の優愛ちゃんに限らず、凛恋が巻き込まれた事故の悲しみから乗り越えられた訳じゃない。お父さんとお母さん、それに凛恋本人だってまだ苦しんでいる。
俺は、そんな八戸家のみんなのために何が出来るんだろう。多分、俺に出来ることはいつも通りにみんなと接することなのかも知れない。こんな時だからこそ、俺が作り出す張りぼての日常でも、ないよりはマシの日常にはなれるんじゃないかと思う。
「凡人くん、私の部屋に連れて行ってくれない?」
「分かった。じゃあ、ゆっくり持ち上げるから」
凛恋を抱き上げてから慎重に階段を上って凛恋の部屋まで連れて行く。
「ここ?」
「ああ。助かる」
両手が塞がっている俺の代わりに凛恋がドアを開けてくれて、俺と凛恋は部屋の中に入った。
久しぶりに入った凛恋の部屋は、お母さんが掃除をしているのか全く埃っぽさもなく綺麗で、俺の記憶にある凛恋の部屋と全く変わらなかった。
「ベッドに座らせて」
凛恋に言われてゆっくりベッドに下ろすと、凛恋が部屋の中を見渡して小さく微笑む。
「なんか初めて来たのに落ち着く」
「自分の部屋だからな」
「隣に座って?」
ポンポンとベッドの上を叩く凛恋の隣に座ると、凛恋が腕を組んで寄り掛かる。
「年明け、経過を見てからリハビリ頑張ってみようって」
「凄いな。もうそこまで回復したのか」
「凡人くんが居てくれたからだよ。凡人くんが居なかったら、私は全然ダメだった。はぁっ……お父さんとお母さんと優愛ちゃん、凄く頑張らせちゃってる」
「頑張ってなんかない。いつもより明るいのは、みんな一時的にでも凛恋が家に帰ってきて嬉しいんだよ」
「でも……私はみんなのことを覚えてないから、家族らしいことなんて何も出来ない……」
「家族らしいことなんて、いくらやってもそれは家族らしく見えるだけにしかならない。それに凛恋には家族らしいことなんてしてほしいなんてみんな思ってない。ただみんな、凛恋に笑っていてほしいんだよ。優愛ちゃんだって凛恋に笑って喜んでいてほしいから、凛恋の好きな紅茶やケーキを選んだんだ。凛恋は今の凛恋で良いんだよ。何か特別なことをしようと考えなくて良いんだ」
「ありがとう。本当に私は幸せ者だな。こんなに優しくて頼りになる彼氏が居て」
微笑んだ凛恋は俺の手を握って横からキスをする。そのキスに応えながら凛恋の背中に手を回すと、少し唇を離した凛恋がフッと笑った。
「付き合う前は、凡人くんとキス出来るなんて思ってもみなかった。でも、今は何も言わなくてもキス出来るし、凡人くんが私のキスを受け入れてくれるって分かってる」
「凛恋は本当にキスが好きだな」
「だって、本気のいちゃいちゃはすぐに出来ないでしょ? お父さんとかに見られたら大変」
クスッと笑って俺をからかう凛恋は、俺の頬をそっと手で撫でてはにかむ。
「キスが好きなのはそうかも。凡人くんと居ると凄くキスしたくなるから。でも……本当はキスだけじゃないよ?」
「り、凛恋?」
「もっと凡人くんといちゃいちゃしたい」
しなだれ掛かる凛恋は下から甘えた声を出して見上げる。
「凡人くん、今凄くエッチな顔してる」
クスクス笑う凛恋は、人さし指で俺の鼻先を突いて首を傾げる。
「凡人くん、凄くエッチだからね~」
「凛恋の中で俺はそういうイメージになったのか」
「だって、凡人くんの本気キス、凄くねちっこいし」
「……それは申し訳なかった。じゃあ、次からしない」
「え~、凡人くんの本気キス好きなのに~」
俺をからかい倒そうとする凛恋に目を細める。
「そう言ってる凛恋の方がエロいだろ」
からかい返すために言った俺の言葉を聞いて、凛恋は俺の体を引き寄せて抱きしめ、下から首を傾げた。
「凡人くんはとっくに分かってると思ったけど?」
「え?」
「私がエッチなこと」
ニヤッと小悪魔のような笑みを浮かべた凛恋は、俺の胸に顔を埋めて小さく息を吐いた。
「凡人くんになら、私の何でも見せられる。恥ずかしいことも凡人くんになら言える。私ね、凡人くんと付き合ってから――ううん、付き合う前からずっと思ってる。私、凡人くんに凄く大切にしてもらってるって」
「大切にするに決まってるだろ。凛恋は世界で一番大好きな人なんだから」
「ありがとう。私も凡人くんが世界で一番大好きで大切な人だよ。ずっと、ずっと大切にする」
目を瞑って俺に甘えてくれる凛恋の背中を撫で、顔を上げて窓のカーテン越しに透けて通ってくる太陽の光に目を向ける。
凛恋が甘えてくれることが、凛恋が頼ってくれることが、凛恋が身を委ねてくれることが堪らなく嬉しい。
年が明けて凛恋のリハビリが始まる。でも、それと同じように年が明ければ俺にも近付いてくる。
どうしても避けられない別れが。
凛恋のリハビリが始まってから三ヶ月。俺は当然毎日凛恋の病院に通い続けた。その期間、凛恋は一生懸命リハビリに励んでいた。
理学療法士の先生に付いてもらい、少しずつリハビリを始めた凛恋は平行棒を支えに歩き出すところまできた。
凛恋は最初から歩き出せた訳じゃない。最初は、長期間動かしていなかった両足の運動から始まった。そこから、様々なリハビリ用の器具を使って、リハビリ段階に合った介助量――凛恋に掛かる負担を軽減する量を減らしていった。
自分の両足で歩くことを取り戻すために、凛恋は毎日毎日頑張った。見守る俺からもリハビリが辛くて苦しいのは痛いほど分かった。でも、俺に出来るのは側で見守って声を掛けることしかなかった。
病院内のリハビリ施設で、必死な表情をして平行棒を支えに歩く凛恋を見て、辛くて苦しくて目を逸らしたい思いになる。でも……俺は目を逸らさず凛恋の姿を見続けた。
「凡人くん、そろそろ行ってくる」
「はい」
側に居たお父さんに声を掛けられ、俺は頷きながらも凛恋の側に歩いて行くお父さんを見送る。
今日、これから凛恋の交通事故の裁判がある。
相手は無罪は主張していない。ただ、過失運転致死傷罪であって危険運転致死傷罪は成立しないと主張している。
過失運転致死傷罪は、交通事故を起こして被害者を怪我させたり死亡させたりした場合に適用される罰則。凛恋は交通事故で大怪我をして今の入院もしながらリハビリをしている。だから、間違いなく過失運転致傷罪は相手に適用されるだろう。でも、俺は――原告側の八戸家は危険運転致死傷罪での処罰を求めている。
過失運転致死傷罪は、七年以下の懲役または禁固もしくは一〇〇万円以下の罰金が罰則として定められている。だけど危険運転致死傷罪は、怪我をさせた場合は一五年以下の懲役、死亡させた場合は一年以上の有期懲役になる。つまり、危険運転致死傷罪の方が罰則が厳しく重い罪になる。
危険運転致死傷罪を適用するには、七種類ある危険とされる運転に当たる行動が証明されなければいけない。
酩酊及び薬物運転、制御困難運転、未熟運転、妨害運転、信号無視運転、通行禁止道路運転、病気運転。この中で、原告側の八戸家は酩酊及び薬物運転と制御困難運転を相手が行っていたと主張する。
事故後のアルコール検査で運転していた男の呼気から基準値を超えるアルコール濃度が検出されていたし、定員外乗車は車を正常に制御出来なくするのに十分だと思った。でも、危険運転致死傷罪はそんな簡単に適用されるものじゃない。
確かに、運転していた男の呼気には基準値を超えるアルコール濃度が検出された。でも、その濃度は呼気一リットルあたり〇・二四ミリグラムで、酒気帯び運転よりも重い酒酔い運転の基準になる〇・二五ミリグラム以下だった。つまり、数字では酒酔い運転ではなく、酩酊状態で運転していたとは言えない。それに凛恋を撥ねた車は時速五〇キロ制限の道路を時速七五キロ前後で走っていたとされている。
スピード違反は、超過していた速度がどれくらいだったかで罰則が決まる。そして、その罰則には超過速度が時速三〇キロを超えているかどうかで大きな違いがある。
もし、超過速度が時速三〇キロ以上なら、いわゆる赤切符と呼ばれる違反で、超過速度が時速三〇キロ以下の青切符よりも重い罰則になる。でも、凛恋を撥ねた車の超過速度は二五キロ前後だから赤切符の違反にはならない。
それに、もっとも大きな点は、凛恋を撥ねた車を運転する男が過去に交通違反歴も犯罪歴もないことだ。つまり初犯になる。
様々な点を鑑みて、危険運転致死傷罪にならないどころか、過失運転致死傷罪でも軽い上に執行猶予が付く可能性が高かった。でも……それが分かっていても、俺はどうしても許せなかった。
俺は凛恋の裁判に出ることは出来ない。いや、傍聴することは出来る。でも、何か裁判で発言する権利は持たない。
裁判の話を聞いてから、俺は地方裁判所に行った。ただ行くことしか出来なかったが、地方裁判所の受付で裁判員制度についての冊子が配られていた。
裁判員制度は、刑事裁判に選ばれた国民が参加する制度で、司法への国民の理解を高めるためだとか冊子に書かれていた。
冊子の中には、裁判員として裁判に参加する心構えみたいなものが書かれていた。その中に、『疑わしきは被告人の利益に』という言葉があった。
疑わしきは被告人の利益にという言葉は、刑事裁判の原則らしい。その言葉は、疑わしきは罰せずというラテン語の直訳らしいが、どっちでも意味は同じだ。
被告人側が合理的な疑いを提示できた場合は、被告人に有利な事実認定をする。という言葉が使われていたが、極論を言えば有罪の確証がないなら無罪にするということだ。
凛恋の裁判で言うと、速度超過は高速度とは言えず、アルコール濃度も酒酔い運転とも言えない。それに、定員外乗車も制御困難運転だと断定出来る要因にならない。だから、凛恋を撥ねた男には危険運転致死傷罪だと断定できる材料がないから、罪の軽い過失運転致死傷罪になる。そう、判断されるということだ。
裁判で判断基準になるのは証拠しかない。それは、取り調べ時の証言のような供述証拠や、防犯カメラの映像のような物的証拠がある。それに、酒を飲んでいながら運転したという情況証拠も判断基準になるんだろう。でも、俺達がどれだけ厳罰を願っても、多少は心証に与える影響はあるかもしれないが、それが判断基準になることはない。
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