【三〇二《気持ちの裁量》】:二

「月ノ輪出版レディーナリー編集部、多野です」

『須藤(すどう)だが』


 ぶっきらぼうというか、雑な男性の言葉に一瞬間が開く。しかし、何とか頭の端っこから須藤という聞き覚えのある名前を引っ張り出した。

 確か、日本学殖大学の教授をしていてレディーナリーで連載を依頼していた人の名前が須藤芳彦(すどうよしひこ)だった気がする。


「日本学殖大学の須藤芳彦様でよろしいでしょうか?」

『ああ。間違いない』

「お世話になっております。担当の編集へお繋ぎします。少々――」

『今、そちらの本社前に来ている。そちらの編集長と話がしたい』

「申し訳ございません。少々お待ち頂いてもよろしいでしょうか?」


 古跡さんと話がしたいと聞いて、俺はトラブルの匂いを感じて須藤さんに聞き返す。すると、受話器の向こうからため息交じりの声が聞こえた。


『分かった。出来るだけ早くしてくれ。こっちも暇ではないんだ』

「ありがとうございます」


 俺は電話を保留にして立ち上がりながら、暇じゃないのはこっちも同じだと心の中で毒づく。でも、そう毒づいても仕方がない。


「古跡さん。連載をお願いしている須藤芳彦様が古跡さんと話がしたいと下に来ているそうです」

「須藤芳彦様って、恋愛に関する連載をお願いしてる方よね?」

「はい。電話の口調からトラブルの予感がします。多分、クレームか何かだと思います」

「まあ、編集長を出せって言われたら、真っ先にそれが浮かぶわね。分かったわ」

「じゃあ、準備してきます。下の応接室を使いますよね?」

「お願い」


 古跡さんが立ち上がって早歩きで編集部を出る後を追いながら、俺は下の階にある応接室まで向かう。

 社外の人との打ち合わせは会議室で行う場合もあるが、応接室で行う場合もある。でも、今回の様にトラブルの気配を感じる案件は、編集さんの居るフロアまで上げるのは良くない。もし担当編集とライターがバッティングしたら、より深刻なトラブルに発展する可能性もある。だから、担当編集もライターも、お互いを守る意味でも無闇な接触は避けるべきだ。


 応接室に一足先に着いて、テーブルの上にお茶請けのお菓子を用意する。ただ飲み物は相手の好みに合わせないといけないから、須藤さんが到着するまで用意は出来ない。

 今の時代、取引先との打ち合わせで出される飲み物は大抵コーヒーだ。しかし、昨今それが『カフェインハラスメント』という言葉で問題視されている。


 世の中にはコーヒーが苦手な人も当然居て、そういう人にも否応なしにコーヒーが出されてしまう。そして、出された方は相手の印象も気にして口にしない訳にもいかず、飲みたくないコーヒーを飲まざるを得なくなる。それがカフェインハラスメント、略してカフェハラと呼ばれているらしい。


「どうぞこちらへ」

「失礼する」


 応接室に古跡さんと中年の男性が入って来て、俺は男性の方に頭を下げる。


「レディーナリー編集部の多野です。お飲み物は何になさいますか?」

「男の淹れた物は飲みたくない」


 俺を一瞥した須藤さんの一言に、俺は心の中で一発須藤さんをぶん殴ってから頭を下げる。


「申し訳ございません。全員忙しいもので」

「この前来た時は、インターンの女子大生が淹れてくれたが?」

「巽は別件がありまして――」

「俺より大事な件があるのか? 日本学殖大学の教授だぞ」


 随分横柄な態度の須藤さんに困り掛けていると、古跡さんが須藤さんに手で椅子を勧める。


「とりあえずお掛け下さい。多野、下がって良いわよ。飲み物は良いわ」

「はい」


 応接室を出て、俺は深く大きなため息を吐きながら編集部に戻るためにエレベーターへ乗る。

 日本学殖大学と言えば、結構歴史のある大学だし、旺峰や塔成ほどではないが良い大学としてそれなりに名前が挙がる大学だ。だが、良い大学だから良い教授が居るという訳ではないのは当たり前のことだ。


 どうせ、文句を言うついでに巽さんを見に来たんだろう。でも、学殖大学にも女子学生は居るだろうし、当然そこの教授をしているなら女子大生なんて見慣れているくらい見ているに決まってる。


「凡人くん? どうしたの?」

「あ、美優さん。古跡さんに来客なんですけど、なんか面倒な人で」


 編集部に戻ると、丁度美優さんと出くわした。それで、少し立ち止まって須藤さんについて愚痴を溢した。


「面倒な人?」

「なんかトラブルっぽくて、いきなり電話してきて古跡さんと話がしたいって。それで、応接室の準備して飲み物を何にするか聞いたら、男が淹れた飲み物は飲みたくないらしくて」

「なんか失礼な人だね……」

「それで、百合亞さんに飲み物を淹れてほしかったらしくて。結局、飲み物は用意しなくて良いって古跡さんに言われて戻って来ました」

「そっか。その人ってうちで何の仕事してる人?」


「恋愛関連の連載を始めるはずだった日本学殖大学の須藤芳彦って教授です」

「連載の話、なくなるかな?」

「新しい人を探すのも手間ですし、古跡さんなら機嫌を取ってやってくれるように勧めそうですけど、担当は替わるかもですね。どんなトラブルがあったかは分かりませんけど」

「人が替わると、凡人くんの仕事が増えちゃうね」

「大丈夫ですよ。担当が替わるだけですから大した仕事は増えませんし。じゃあ俺は仕事に戻ります」

「うん。あまり根を詰めすぎないようにね」

「ありがとうございます」


 美優さんにお礼を言って仕事に戻ろうとすると、目の前に在庫確認のチェックリストが挟まったバインダーが現れる。そして、そのバインダーの向こうからニコッと笑った百合亞さんが顔を出した。


「凡人さん、在庫確認が終わりました」

「ありがとう。コピー用紙を発注しといた方が良さそうだね。近々、コピー用紙を大量に使う会議の予定があるし」

「そう言えば、さっき私の話してました?」

「いや、大した話じゃないよ」

「え~、気になります~」


 バインダーを胸の前に抱えた百合亞さんがグイグイ近付いて来て、俺は二歩後ろに下がりながら答える。


「学殖大学の須藤芳彦さんが下に来てて、俺が飲み物を出そうとしたら百合亞さんに出してほしいって言われたんだ」

「ガクショクダイガクのスドウヨシヒコ?」


 百合亞さんは須藤さんのことが全く記憶にないようで、首を傾げて俺に聞き返す。


「前に来た時に百合亞さんが飲み物を出したみたいだよ。まあ、色んな人の対応してるだろうし覚えてなくて当然だろうけど」

「全然覚えてません。私、凡人さん以外の男の人に興味ないんで」


 クスッと悪戯っぽく笑った百合亞さんは、俺にまた近付いて下から上目遣いで見上げる。


「じゃあ私は仕事に戻りますね。少しでも凡人さんの負担を減らしたいんで」


 サッと離れてクスクス笑った百合亞さんが歩き去るのを見ながら、俺は小さくため息を吐く。

 こっちに戻って来てから、百合亞さんから強引なアピールは受けていない。でも、俺の目から見ても百合亞さんが俺のことを諦めてくれていないのが分かる。ただ、俺の迷惑にならないようにしてくれているのか、時々今みたいに軽くアピールされるくらいに留まっていた。


「さて……仕事するか」


 若干どころか大分須藤さんのせいで疲れた体と心に気合いを入れて、俺は自分の席に戻って仕事を再開した。




 残業前の休憩時間、俺はサンドイッチを食べながらコーヒーを飲む。その視線の先には、同じくサンドイッチを食べながらため息を吐いている古跡さんが居た。


「結局、須藤さんの話はなんだったんですか?」

「まあ簡単に言うと担当と揉めたから替えてくれって話よ」

「そんなことだろうとは思いました。続けてくれそうですか?」

「話はした。それで担当は替えずにそのままいくことも。ただ連載の話はなくなりそうね。というか、連載を頼むには不適切な人だったわ。あの人と仕事を続けて行くのはうちにとってストレスになる」


 編集部からすれば、須藤さんは仕事を依頼した相手だ。だが、極論を言えば須藤さんの代わりは探そうと思えばいくらでも居る。だから、必ずしも須藤さんじゃなければならない理由がない。

 須藤さんでなくていいなら、無理に須藤さんに連載を続けてもらう必要もない。だから、古跡さんは須藤さんとの仕事を今回一回きりにするつもりなんだろう。


「それよりも悪かったわね。嫌な思いさせて」

「いえ、古跡さんが謝ることじゃないですよ。ああいう人、時々居るじゃないですか。仕事ついでに女性目当ての人」

「多野もうちで長く働いてくれてるからね。今の世の中になっても、まだ女性を軽く見る人は少なからず居る。うちの社内でも女性編集長なんてって声がまだ残ってるし」

「ただのひがみでしょ。今の出版不況の世の中でレディーナリーの売り上げは他誌と比べても好調ですし、女性誌と言ったらレディーナリーって声もあるんですから」


「それはチームの成果で私の成果じゃないわ。もちろん、多野の力も大きい」

「俺は皆さんのフォローしてるだけですから」

「そのフォローでどれだけうちが助かってるかは、多野をうちに誘った時に話したでしょ? ほんと、自分で言うのもなんだけど多野と初めて会った時に多野は使えるって思った自分の目に狂いはなかった」

「そこまで言ってもらえて嬉しいです。これからも期待に応えられるように頑張ります」

「嬉しい言葉だけど無理はしないでよ。さて、私はちょっと出てくるわ」

「はい」


 サンドイッチを食べ終えた古跡さんを見送って、俺も残りのサンドイッチを口の中に放り込むと、目の前にフライドチキンの箱が入った袋が下がる。


「絵里香さん、夜にそんなの食べたら太――」

「ちょっと、綺麗なお姉さんになってことを言おうとしてるのよ」


 俺の頬を引っ張った絵里香さんは、ニッと笑って俺の目の前に袋を置く。


「私のじゃないわよ。これは凡人くんの」

「いや……俺、こんなに食べられませんけど?」

「食べなさい。男の子なんだから。それに、今日助けてもらったから。危うく資料が会議に間に合わないところだった」

「別に気にしなくても良かったのに」

「そういう訳にはいかないわよ。また助けてもらう時もあるだろうし」


 ニヤッと笑った絵里香さんは、自分の椅子に座ってコーヒーを飲みながら差し入れのサンドイッチを食べ始める。


「彼女の様子はどうなの?」

「彼女の妹から来たメールでは特に変化はないみたいです」

「そう。入院は長くなりそうなの?」

「まだどれくらいの期間入院する必要があるかの目処は立たないみたいです」

「それくらい怪我が大きいってこと……」


 サンドイッチを片手に一口コーヒーを飲んだ絵里香さんは、俺に真っ直ぐ目を向ける。


「凡人くんのことを覚えてないんでしょ?」

「はい。全く覚えてません。……結構キツいです」

「キツいのは当然よ。……これからずっと付き合い続けて行くの?」

「……木ノ実さんに話はしたんですけど、彼女に俺と付き合ってたことは言ってないんです」


「え? 言ってないってどういうこと?」

「記憶喪失で戸惑ってる彼女の負担になりたくなくて、自分と付き合ってたことは周りの人に頼んで伏せてもらってるんです。それで、一からまた好きになってもらおうと」

「そう。でも、それだと彼女が他の男を好きになるかもしれないんじゃない? 凡人くんと付き合ってたことを知らないんだから、良い人が現れたらその人のことを好きになるかもしれない」

「今の彼女が俺以外を選んだなら受け入れようと思ってます。チキンいただきます」


 会話を切るためにフライドチキンを取り出して噛み付く。すると、絵里香さんはコーヒーを飲んでスマートフォンに視線を落とした。


「凡人くんも他の人に目を向けてみたら?」

「俺は彼女のことが好きですから」

「でも、その彼女が凡人くん以外を好きになったら身を引くんでしょ?」

「彼女が俺以外と一緒に居ることを望むならそうします」

「じゃあ、凡人くんも新しい恋を始めるんでしょ?」

「いや、ないですね。彼女以上の人は居ないです」

「まあ、付き合ってる時は誰でもそうよ。私も何度別れた彼氏のことを、彼以上の人は居ないって思って来たことか。でも、時間が経てば好きな人は出来るから安心してなさい」


 別に心配してる訳じゃないが、絵里香さんに励まされてしまった。


「美優とか良いんじゃない?」

「勝手にそんな話したら怒られますよ。そもそも、美優さんにも選ぶ権利はあります」

「美優が良いって言ったらどうするの?」

「それでもないですよ。俺は彼女だけです」


 絵里香さんの話を笑い飛ばすと、絵里香さんは真面目な顔で話を続ける。


「美優は大人しくて可愛いし、私と違って遊んでるような子じゃない。それに結構料理も上手いし仕事も一生懸命だし。私は真面目な凡人くんに美優は合うと思う」

「美優さんは良い人ですけど、そういう感じでは見てません」


 それは嘘であり本当でもあった。

 確かに俺は美優さんのことを好きだと思った。でも、今はその気持ちはもうない。俺が好きなのは凛恋だけだ。


「まあ、彼女に好きな人が出来た訳でもないしね。でも、遠距離って結構厳しいと思うけど」

「俺の親友は遠距離でも上手くやってますよ」


 栄次と希さんは、大学進学と同時に遠距離恋愛になった。それでも、二人は今も仲良しで居続けている。だから、俺だって――。


「その友達がどんな人かは分からないけど、遠距離って気持ちが強ければ強いほど、会えないことが辛く感じるの。だから、凡人くんみたいな彼女に一生懸命過ぎる人にはかなり辛いものよ」


 俺の思考を遮ってそう言った絵里香さんは、凄く真剣で冷たい目をしていた。

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