【二九二《迸発(ほうはつ)》】:一

【迸発(ほうはつ)】


 部屋でボーッとする時間に考えることが、つい数時間前は地震のことだった。でも、今は地震以外のことを考えている。

 俺が一番好きなのは凛恋で、確かに美優さんのことを好きだと思う自分が居る。でも……今は凛恋でも美優さんでもなく、視界に居る理緒さんのことを考えていた。


 好きではない。キスをされたし、さっき理緒さんの気付いていなかった一面に気付いた。だから、自然と意識が向いてしまうだけなんだと思う。

 ふと俺と目が合った理緒さんがニコッと微笑む。その笑みにドキッと居心地の悪い気恥ずかしさが湧いて思わず視線を逸らした。


「凡人さ――お兄ちゃん」

「ん? 優愛ちゃん、どうかした? てか、別に普通に凡人さんで良いって」


 理緒さんから視線を逸らしてすぐ、優愛ちゃんが俺の隣に座って声を掛ける。お兄ちゃんと言われるのを嬉しくは思うが、別に無理矢理言わせることでもないし、優愛ちゃんが言い辛いなら元のままが良いとは思う。


「私がお兄ちゃんって呼びたいの! それで、テレビを見ても暇だし一緒にゲームしない?」

「良いよ。でも、俺随分やってないから腕なまってるけど」

「お兄ちゃんは強いから、なまってるくらいの方が丁度良いし」

「じゃあやろうか」

「やった! ありがとー」


 優愛ちゃんに言われてゲーム機の準備をしていると、一緒に手伝ってくれている優愛ちゃんが耳元で囁いた。


「巽さん、ずーっとお兄ちゃんのこと見てるから気を付けて」

「百合亞さん?」

「うん。隙があったら二人っきりになる気なんじゃない?」


 小声で話しながら、百合亞さんには顔は向けずに意識は百合亞さんの方に向ける。でも、百合亞さんが俺を見ている理由は分かっている。

 百合亞さんが部屋に荷物を取って戻って来た時、丁度俺は理緒さんにキスをされていた。それを見たから、百合亞さんは俺を見ていたんだと思う。


 俺と百合亞さんと理緒さんの関係は、単純な三角関係という訳じゃない。俺には凛恋という恋人が居るし、キスも理緒さんにいきなりされたものだ。でも、好きな人が自分以外の異性とキスしているのを見たら、どうしても気になってしまうという状況は分かる。


 あり得ない話だが、俺と凛恋が付き合う前に凛恋が俺以外の男とキスをしていたら、絶対に気になって仕方がない。その男が凛恋の彼氏なのかと思ってしまう。そして……考えただけでも胃がせり上がるくらいショックだ。


 ゲーム機の準備を終えて、優愛ちゃんと一緒に対戦ゲームを始める。すると、部屋に居たみんなが自然にテレビ画面を見ていた。まあ、他に見るものがないんだから自然に目を向けて当然だ。


「お兄ちゃん、全然なまってないじゃん! 強すぎっ!」


 隣で笑いながらコントローラーを操作する優愛ちゃんを見て思わず笑ってしまう。すると、それに気付いた優愛ちゃんがムッとした表情をした。


「笑うなんて酷い!」

「ごめんごめん。でも、なんか懐かしいなって思って。こうやって優愛ちゃんと並んでゲームするの」

「久しぶりだよね~。お兄ちゃんはバイトが忙しいし、お姉ちゃんの相手で手一杯だったもんね~」

「まあアルバイトが忙しかったのは確かだな~。締め切りに追われて泊まりとかあったし」

「もうすっかり出版社の編集さんだよね~」

「就職したら編集じゃなくて編集マネージャーだけどね」


 雑談しながらゲームをしていると、俺の隣に百合亞さんが座って横から見る。


「いつも心配してます。凡人さん一人に負担がいってるんじゃないかって。私もお手伝い出来れば良いんですけど」

「百合亞さんが編集補佐の仕事を結構やってくれてるから、今の仕事が出来てるんだよ」

「私、凡人さんの役に立ててます?」

「俺どころじゃなくて編集部の役に立ってるよ。百合亞さんが居ないと仕事が回らない」

「本当ですか! やった!」


 嬉しそうに喜んだ百合亞さんがピッタリ俺の体に自分の体を寄せる。俺は百合亞さんから離れようとするが、離れる前に百合亞さんに腕を組まれて止められる。


「凡人さんに褒められるとすごく嬉しいです」

「いつも頑張ってくれてるのは知ってるから」

「これからも凡人さんの負担を減らせるように頑張りますね」

「給料分は働いてると思うし百合亞さんはインターンなんだから、仕事から色んなことを学んで就職に活かせるようにすれば良いよ。将来は教師になりたいんだよね?」


 さり気なく百合亞さんの腕を外すと、百合亞さんは少し唇を尖らせたがクスッと笑った。


「もちろんそのつもりですけど、凡人さんと一緒に編集部で働くのも良いな~」

「凡人くん、私もゲームやらせて」


 後ろから俺の体を横へ押して移動させた希さんが、キッと俺を睨みながら百合亞さんと俺の間に座る。

 希さんの言いたいことは分かるが、話をするのもダメだと言うのは違うと思う。まあ、露骨に距離を詰めてくる百合亞さんの行動はどうかとは思うが。

 俺からコントローラーを奪った希さんに任せて、冷蔵庫まで行ってお茶のペットボトルを出してコップに注ぐ。すると、理緒さんが隣に並んだ。


「飲んだら私にも飲ませて」

「ああ」

「私、凛恋が戻って来るまで居るから」

「分かった。凛恋が来られるようになる頃には落ち着いてるだろうしな」

「巽さんはいつまで居させる気?」

「…………百合亞さんの友達に会ったら、百合亞さんを任せるつもりだったんだ。でも、百合亞さんは友達のところに行かなかった」

「好きな人の彼女が居なくて好きな人と一緒に寝泊まり出来るチャンスなんてなかなかないからね。そりゃあみすみす帰るなんてしないよ」


 俺が新しいコップを理緒さんの前に置くと、理緒さんは俺が手に持っていたコップを手に取って残っていたお茶を飲み干した。


「家事は女性陣でやるから凡人くんはゆっくりしててね」

「ごめん。一人暮らしを少ししてるって言っても、料理は全然ダメだから助かる」

「私達は凡人くんに助けられてるんだよ。それくらいするのが普通」

「俺はみんなの無事を心配して守りたいだけだよ」

「凡人くんに守りたいって言われると、凄く格好良いからドキッとするね」


 コップを置きながらニコッと笑った理緒さんは、俺の顔を下からわざとらしく見上げてはにかむ。


「でも、間接キスを必死に気にしないようにしてる凡人くんは凄く可愛い」


 そう笑う理緒さんは、俺が持っていたイメージ通りの余裕たっぷりな理緒さんだった。

 俺の知っていた理緒さんらしさなんて、結局は俺視点からのものでしかない。だから、実際の理緒さんが本来持っている理緒さんらしさと違っていて当然だ。

 知っていた、分かっていると思っていた理緒さんと違う理緒さんを見たからと言って、がっかりしたとか見損なったとかそういう感情はない。むしろ、友達として――親友として知らなかった一面を知れたのは嬉しいと思った。


「昨日よりちゃんと考えてくれてるって分かるよ」

「え?」

「私のこと。昨日キスする前よりちゃんと考えてくれてる。これでやっと、凛恋の五歩くらい後ろまで近付いて来られたかな。まだまだ、凛恋と同列に比べられるまでにはなってない」


 クシャッと嬉しそうに笑った理緒さんは、コップをシンクの上に置いてチラッと視線をテレビの方向に向ける。すると、俺達の方を百合亞さんが見ていた。


「まあ、巽さんよりも遥か前に居るのは確かだけどね」


 その言葉を発した理緒さんは、百合亞さんの顔を見てニコッと笑った。それに百合亞さんは、サッと顔を背けて背中を向けていた。




 夜、最後にシャワーを浴びてから、少し優愛ちゃんとゲームをしてからベッドに入った。でも、ベッドに入ったからと言ってすぐに寝られる訳じゃない。

 凛恋は今頃どうしてるだろう。それが気になって眠れなかった。

 今は辛くて不安な時だ。そういう時に凛恋に側に居てほしいと思う。きっと凛恋だって俺と同じ気持ちだと思う。


 隣に凛恋が居れば、力いっぱい抱きしめて甘えられるのに……。そんなことを思ってしまって寂しさが募る。

 やっぱり俺には凛恋しか居ない。俺が心の底から甘えられるのは凛恋だけだ。だから……早く凛恋に会いたい。

 凛恋の居ないベッドのマットレスに手を触れて撫でる。

 今は真夏で夜でも暑い。でも、凛恋の温もりが恋しかった。


 一ヶ月近く凛恋と会えない時もあった。でも、あの時と今では状況が違う。今はただでさえも一人を心細く感じる時だ。そんな時に凛恋が居ないのは辛すぎる。

 せめて電話が繋がってほしい。凛恋の声だけでも良いから聞きたい。


「凛恋……」


 思わず凛恋の名前を口から溢してしまい、余計に寂しさが心の奥からせり上がる。

 もう寝ないと。そう決心して、仰向けから壁を向く横寝に体勢を変えて目を閉じる。

 目を閉じて次に意識が覚醒した時、俺は体にくすぐったさを感じて目が覚めた。そして、寝惚け眼をゆっくり開くと、目の前に百合亞さんの顔があった。


「ゆりあ……さん? どうして……」


 目の前に横になっている百合亞さんに尋ねると、百合亞さんは顔を近付けてキスをした。


「あんなキス見せられたら、嫉妬しちゃいます」

「キス?」

「昼に、私が部屋から戻って来た時に筑摩さんとしてたじゃないですか。でも、あれは筑摩さんからされてた感じでしたね」


 淡々と笑いもせず怒りもせず言葉を重ねる百合亞さんの顔を見ていて、体に感じたくすぐったさが百合亞さんが俺の体に触れているからだと気付いた。


「百合亞さん、手を――」

「嫌です。それに、凡人さんも彼女さん居なくて寂しいですよね? 私が慰めてあげます」

「そんなことをしても、俺は百合亞さんを好きにはならない」

「良いですよ。今は浮気相手でも、ただの体目的でも。筑摩さんとキスしてあんな顔されたら、悔しくて何でも良いから繋がりが欲しくなっちゃいます」

「百合亞さ――」

「大きな声出すと、みんなに気付かれちゃいますよ?」


 後ろを振り返って、下で寝ている優愛ちゃん達を見る。すぐ近くで寝ている訳じゃないが、暴れたり声を上げたりすると起こしてしまう。


「筑摩さんだけ凡人さんのことを分かってる風に言ってて、しかも凡人さんにキスしてあんな顔させて。……私とキスした時はあんな気持ち良さそうな顔してくれなかった……」


 唇を噛んだ百合亞さんは、俺に体を近付けて強引にキスをする。

 俺の背中は既にベッドの端に来ている。そこからだとこれ以上後ろに下がれない。

 首に左手を回されて引き寄せられ、右手は俺の体をくすぐるように触れる。


「百合亞さん、止めてくれ……」

「筑摩さんにキスされるよりも気持ち良いですか?」

「くすぐったいだけだから……」

「そうですか? 私からはそんな顔には見えませんけど。…………もっと気持ち良くさせてあげられますよ、私なら」

「百合亞さん……離れて」

「私、本気で凡人さんのことが好きなんです。筑摩さんは中途半端みたいに言ってましたけど」


 俺の話を聞かずに話す百合亞さんは、首に回していた手をシャツの裾から中に入れる。


「インターンで入った時から凡人さんは誰よりも優しくて、誰よりも私のことを心配してくれてましたよね。まだ編集部の雰囲気に慣れない私に声を掛けてくれて、何でも聞いてって言ってくれて、私がミスしても顔色変えずにサラッとフォローしてくれて。確かに、私が凡人さんを好きになったのは頼りになる格好良い先輩だからです。でも、切っ掛けが何でも、私は凡人さんに私のことを好きになってほしいんです」

「俺は百合亞さんの気持ちが嘘だなんて思ってない。でも、俺には――」

「凡人さんに彼女が居ても好きなんです。彼女よりも私のことを好きになってほしいんです。そのためなら何だって出来ます」


 着ていたシャツと短パンを脱いで上下揃いの白い下着姿になった百合亞さんがグッと体を近付けて密着する。


「高校の頃に付き合ってた彼氏にだって、自分から迫るなんてしたことないんですよ。でも、凡人さんには自然としたくなっちゃう」


 フッと首筋に息を吹き掛けられて軽く身を震わせると、目の前からクスクスという笑い声が聞こえる。


「編集部では格好良いのに、ベッドの上では可愛いですね。凡人さん」

「百合亞さん……自分を安売りしちゃダメだ」

「安売りなんてしてませんよ。凡人さんを好きになってから、男の人の誘いは全部断ってます。他の人には誰もこんなことしてません。それに私、簡単に男の人の部屋に行くような軽い女じゃないですから」


 潤ませた目で俺を見上げる百合亞さんの顔はほんのり朱に染まっている。

 少しでも百合亞さんを離れさせるために百合亞さんの体を押し退けようとする。でも、これの体にピッタリくっつく百合亞さんを押し退けるために手を差し込む隙間がない。


「筑摩さんが凡人さんとどれだけ付き合いが長いか知りません。でも、恋愛は時間じゃないですから。どれだけ凡人さんのことを好きかですよね?」

「俺は彼女のことが好きなんだ。時間とか相手の気持ちとかじゃなくて、俺は彼女だから――」

「でも、筑摩さんとキスした後の凡人さんの顔はそうじゃなかったです。すごくドキドキしててとろけそうで…………。凡人さんの気持ちを筑摩さんが奪いそうでした。だから……もっとすごい方法で私が凡人さんの気持ちを奪わないといけないんです。私は筑摩さんみたいに可愛くないから……キスだけじゃ凡人さんの気持ちを奪えないから」

「百合亞さんっ……ダメだ……」


 後ろに下がれない状況で百合亞さんの手から逃れることが出来ず、ゾクゾクと体に走る感覚から力を入れて堪える。


「汗びっしょりですね。それに胸がすごくドキドキしてます」

「百合亞さん……お願いだから……」

「大丈夫ですよ。私、結構上手いでしょ? 凡人さんのこと、ちゃんと満足させられますから」


 首筋に百合亞さんの唇と舌の感触がして、背筋にゾクッと寒気が走って全身の熱が上がるのを感じる。

 寝る前につけていたエアコンはタイマーの時間が過ぎて切れている。そのせいで上がった体温を冷ますことが出来ない。


「私も汗掻いちゃいました」


 熱でボウっとする頭が揺れて、視界は薄っすらと靄が掛かったように霞む。

 拒否するために動かした手を百合亞さんに掴まれた。その直後、手に湿って柔らかい感触がした。

 暑い。水を飲みたい。冷たいシャワーを浴びたい。


「私、何でもしますから、凡人さんのためなら何でも――」

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